橘 美咲
タクシーの中、橘美咲は静かに窓の外を眺めていた。
流れゆく夜の街並み。
ビルの灯りが車窓に映り込み、無機質な都会の景色が通り過ぎていく。
──「今日は、ありがとう」
別れ際に言った自分の言葉が、頭の中で反響する。
「……ふふ」
思わず、笑ってしまった。
デートの終わりに、そんな言葉を口にするなんて、自分らしくない。
美咲は、成功を掴んできた。
努力を重ね、昇進を重ね、今では大手企業の管理職 という地位にいる。
部下を率い、交渉をまとめ、仕事では常に結果を出し続けてきた。
彼女の周囲には、「尊敬」や「憧れ」 の目を向ける女性が多い。
若い社員たちは彼女のようなキャリアを目指し、同僚の女性たちは彼女の実力を認めている。
──だが、「恋愛市場」では、それは何の意味も持たなかった。
「社会で成功するほど、恋愛では不利になる」
この世界では、「男性が選ぶ側」「女性が選ばれる側」 という恋愛構造がある。
そのため、多くの女性は男性に振り向いてもらうために、自分を磨き、積極的にアプローチする。
だが、「キャリアウーマン」は恋愛市場では敬遠されがちだった。
──理由は、単純だ。
「強い女性」は、男性にとって近寄りがたい存在だったから。
男性の数が少ないこの世界では、女性たちは「いかに男性に選ばれるか」を最優先に考える。
そのため、恋愛市場では 「可愛らしさ」や「従順さ」「守ってあげたくなる要素」 が重視される傾向が強い。
その点、美咲は……
・仕事に生き、社会的に成功している点。
・冷静で理知的、誰よりも的確な判断を下す点。
・常に堂々としており、弱みを見せない点……
──つまり、「男が守る必要のない女性」 だった。
その結果、美咲は「選ばれにくい女性」になってしまったのだ。
「高嶺の花」ではなく、「遠すぎる存在」
美咲は、これまで何度か男性と食事をしたことがある。
友人の紹介や、仕事の付き合いで出会った男性たちと。
だが、彼らの反応は、いつも同じだった。
──「橘さんはすごい人だから、僕には釣り合わないよ」
──「仕事が忙しそうだし、僕なんか相手にされないよね」
それは、明確な拒絶ではなかった。
だが、「あなたとは恋愛できません」 というメッセージを含んでいた。
多くの男性は、美咲に対して 「高嶺の花」 というより、「遠すぎる存在」 と感じていた。
彼女の社会的な成功は、恋愛市場においては「壁」となったのだ。
その壁を越えようとする男性は少ない。
いや、ほとんどいなかった。
美咲は、仕事においては、努力が報われる世界にいた。
結果を出せば、評価される。
努力すれば、昇進できる。
数字を上げれば、誰もが認めてくれる。
だが、恋愛では、努力だけではどうにもならなかった。
彼女がどれだけ魅力的であろうと、
どれだけ知性や教養があろうと、
どれだけ人としての魅力を持っていようと……
──「選ばれなければ、意味がない」。
それが、彼女が生きてきた「貞操逆転した世界の恋愛市場」だった。
努力すればするほど、成功すればするほど、恋愛からは遠ざかる。
キャリアを積むことが、結果的に恋愛を遠ざける要因になってしまう。
美咲は、いつしか恋愛を諦めるようになった。
「自分には縁がないものなのだ」と。
では、なぜ今になって「恋人代行」を利用したのか?
──理由は、単純だった。
「どんなものか、一度経験してみたかった」
・仕事に追われ、気づけば恋愛の機会を逃してきた。
・年齢を重ねるほど、男性との接点は減っていった。
・周囲は結婚し、家庭を築き始めている。
そんな状況の中で、ふと考えたのだ。
──「私は、“恋人がいる生活” というものを、一度も知らないまま終わるのだろうか?」
「好きな人と一緒に過ごす時間って、どんなものなのか?」
そう思ったとき、偶然目に入ったのが「恋人代行」というサービスだった。
もちろん、疑問もあった。
こんなものに頼って、意味があるのか。
相手はあくまで「仕事」として接するだけではないのか。
恋愛の代用品にすぎないのではないか。
──でも、美咲は「本物の恋愛」ではなくてもいい」と思った。
それがどんなものなのか、少しでも知ることができるなら。
だから、美咲は恋人代行を申し込んだ。
それなのに──「仕事」だと思っていたのに
──そして、出会ったのが天城透だった。
彼は、美咲のことを「キャリアウーマンだから」と特別扱いすることもなかった。
かといって、「高嶺の花」として遠ざけることもなかった。
むしろ、自然に、何の気負いもなく「ただの女性」として接してきた。
──それが、美咲にとっては「初めての経験」だった。
男性と肩を並べて歩くこと。
誰かにメニューを選んでもらうこと。
自分のために「リラックスできる飲み物」を勧められること。
──そのすべてが、彼女にとっては「初めて」だった。
「また会いたい」と思ってしまった。
彼は、ただの恋人代行だ。
仕事として接しているだけ。
それなのに、なぜこんなにも、今日のことが頭から離れないのか。
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タクシーが、ゆっくりと自宅の前で停車する。
私はスマホを取り出し、恋人代行の予約履歴を開いた。
──「天城透」
指先が、その名前の上で止まる。
「……また、お願いするかもしれないわね」
そう言ったとき、自分がどういう気持ちだったのか、まだ整理できていない。
でも。
──また彼と会えたら、嬉しいかもしれない。
その思いを、自分自身で否定できなかった。