恋人代行 キャリアウーマン④
──落ち着いた音楽と、柔らかな照明が灯るカフェ。
美咲と並んで歩きながら、俺は通りにある小さなカフェに目を留めた。
大通りから少し離れた静かな場所にあり、木の温もりを感じさせるインテリア。
店の前にはテラス席もあって、店内のガラス越しに見える温かな光が心地よい雰囲気を醸し出している。
──ここなら、落ち着いて話せそうだ。
「ちょっと休憩しませんか?」
俺がそう提案すると、美咲は小さく頷いた。
「……そうね。歩くのに慣れていないせいか、少し疲れたわ」
カフェのドアを開けると、ほんのりと甘いバニラの香りが漂ってくる。
温かみのある照明が落ち着いた雰囲気を作り出し、店内のソファ席にはゆったりとした時間が流れていた。
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俺たちは、店の奥にある窓際の席に腰を下ろした。
ガラス越しに見える夜の街並みは、ネオンが優しく輝いている。
車のヘッドライトがゆっくりと流れ、行き交う人々の姿が映るその光景は、不思議と心を落ち着かせるものだった。
「……こんなに静かな場所もあるのね」
美咲がカップに指を添えながら、ふっと息を吐いた。
「静かすぎるのは苦手ですか?」
「そういうわけではないけれど……あまりにも落ち着くから、逆に慣れていないのかもしれないわ」
彼女は少しだけ微笑む。
──まるで、“甘やかされることに慣れていない” 人の笑顔だった。
メニューを開いた美咲が、俺に視線を向けた。
「……こういう時、彼氏ならどうするの?」
「ん?」
「デートの時、男性側がメニューを決めたりするもの?」
……ああ、なるほど。
彼女にとって、これは「恋愛の経験」なんだ。
普通の恋人がどう接するのかを、俺を通して学んでいる。
「人によると思いますけど……」
俺は少し考え、冗談めかして言った。
「じゃあ、ここは俺に任せてください」
美咲はじっと俺を見て、興味深そうに目を細める。
「……お手並み拝見ね」
──試されている。
俺はメニューをさっと見て、すぐに注文を決めた。
「カフェラテと、オレンジショコラのケーキを一つ。あと、美咲さんには……カモミールティーがいいと思います」
「……理由を聞いてもいいかしら?」
「仕事が忙しいと、無意識にカフェインを取りすぎるでしょう? だから、こういう時くらいはリラックスできるものがいいかなと思って」
俺がそう言うと、美咲は数秒沈黙し、やがて小さく笑った。
「……なるほどね。あなた、意外と気が利くのね」
「よく言われます」
「……そう」
美咲はカップの縁に指を滑らせながら、どこか楽しそうに微笑んだ。
注文したケーキとカフェラテが運ばれてくる。
チョコレートがけのオレンジピールが添えられた、甘美な一皿。
「……こういうの、食べたことないわ」
美咲が珍しそうにフォークを手に取る。
「甘いものは苦手なんですか?」
「いいえ、嫌いではないわ。でも、普段食べる機会がないの」
「じゃあ、試してみてください」
美咲はゆっくりとケーキの端を切り取ると、慎重に口へ運んだ。
──一瞬、彼女の表情が変わる。
甘さと、ほろ苦いオレンジの風味が口の中に広がる感覚。
「……」
彼女は目を閉じ、一瞬だけ味を確かめるように咀嚼する。
「……美味しい」
その呟きは、普段の冷静な声とは違って、ほんの少しだけ柔らかかった。
──もしかすると、美咲は「甘やかされる」という感覚を知らないのかもしれない。
仕事ばかりの生活。
効率や合理性を最優先にした日々。
そんな彼女にとって、こうして「ただ美味しいものを食べる」時間は、もしかすると贅沢なものなのかもしれない。
カップを置き、美咲がふと俺に視線を向ける。
「……あなたは、こういうのが得意なの?」
「こういうの?」
「女性を喜ばせることよ」
──鋭い質問だな。
美咲の目は、どこか試すような光を帯びている。
俺は少しだけ考え、穏やかに笑った。
「仕事ですから」
「そうね、仕事だものね」
美咲はふっと笑い、カモミールティーを口にする。
しかし、その目はわずかに俺を探るような光を帯びていた。
美咲が、ケーキのフォークをゆっくりと動かす。
ふと、俺と目が合う。
「……」
彼女は、一瞬だけ何かを言いかけたが、言葉を飲み込む。
そして、ふっと目をそらし、微かに微笑んだ。
──この静かな甘い空間の中で、何かが変わり始めている気がした。
カフェを出ると、夜の街が広がっていた。
ネオンが優しく光り、昼間の喧騒とは違う静けさが辺りを包んでいる。
車のライトが流れるように通りを照らし、歩道には仕事帰りの女性たちが歩いていた。
この世界では、夜道を歩くのは女性がほとんど。
それも、誰もが堂々と歩き、男性の姿はほぼ見当たらない。
「今日は、ありがとう」
不意に、美咲が口を開いた。
俺は彼女の横顔を見やる。
彼女はゆっくりとした足取りで歩きながら、夜の空を見上げていた。
「普段はこんなふうに歩くことなんてないから……少し新鮮だったわ」
彼女の声は、カフェの中にいた時よりも、どこか落ち着いた響きを持っていた。
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俺たちは、しばらく無言のまま歩いた。
けれど、その沈黙が気まずいわけではなかった。
むしろ、心地よい静けさ だった。
「……デートって、こんな感じなのかしら」
美咲がぽつりと呟く。
「楽しくなかったですか?」
俺がそう尋ねると、美咲はふっと微笑んだ。
「……楽しくないわけじゃないわ。ただ、私にはまだ馴染みのない感覚だから」
「なるほど。まあ、慣れないことをするのは疲れますよね」
「ええ。でも、悪くなかったわ」
そう言って、美咲は俺をちらりと見る。
その目は、昼間の冷静なそれとは少し違っていた。
──ほんのわずかに、柔らかい。
「……また、お願いするかもしれないわね」
美咲がそう言った。
それは、社交辞令のようにも聞こえたし、本心のようにも聞こえた。
俺たちは、タクシーが拾いやすい大通りの手前で立ち止まった。
「ここで」
美咲が小さく息を吐く。
「じゃあ、そろそろお別れね」
「そうですね」
俺は軽く微笑んだ。
──たぶん、美咲にとっては「終わりのタイミング」だったのだろう。
彼女は完璧なキャリアウーマンだ。
恋人代行の時間が終われば、またいつもの彼女に戻る。
それが、きっと彼女なりの切り替え方なのだろう。
「……送らなくて大丈夫ですか?」
「心配しなくても、タクシーで帰るから」
美咲はスマートフォンを取り出し、配車アプリを開いた。
「私を最後まで送る必要はないわ。これも仕事なんでしょう?」
彼女の言葉は、あくまで理性的だった。
──でも、その一瞬、ほんのわずかに、目を伏せたのを俺は見逃さなかった。
まるで、何かを言いかけたかのような。
「次」があることを意識する
俺は、ふっと微笑んだ。
「じゃあ、次もまたお願いしますね」
そう言うと、美咲はわずかに眉を上げた。
「……あなた、自信があるのね」
「当然ですよ。今日、美咲さんが楽しそうにしてるのを見てましたから」
その言葉に、美咲は一瞬だけ沈黙し、そしてふっと微笑んだ。
「……そうね」
タクシーがゆっくりと近づいてくる。
「じゃあ、また」
俺は軽く手を振った。
美咲は、一瞬だけ俺を見つめ、静かに頷いた。
──それは、今日一日で見た中で、一番「女性らしい」仕草だった。
ドアが閉まり、タクシーが夜の街へと走り去る。
──この仕事、思ったよりも悪くないかもしれない。
俺は、そう思いながら、ひんやりとした夜風を感じていた。