恋人代行 キャリアウーマン③
「じゃあ、行きましょうか」
美咲はグラスを置き、立ち上がった。
俺は彼女の後ろをついていきながら、やはりこの人は「立ち姿」だけで目を引くな、と改めて思う。
すらりと伸びた背筋。ヒールを履いているせいもあって、周囲の女性よりも目立つ。
──完璧な女性。
でも、俺はもう気づいている。
彼女が、「恋愛」においては何も知らないことを。
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ホテルのラウンジを出ると、街の喧騒が広がっていた。
夕暮れ時、オフィス街の中心にある通りは、仕事帰りの女性たちで賑わっている。
すれ違う女性たちは皆スーツ姿か、洗練されたファッションに身を包んでおり、足取りもどこか自信に満ちている。
──この世界では、社会の中心にいるのは女性。
その事実を改めて実感しながら、俺は美咲と並んで歩き始めた。
彼女はスーツの襟元を軽く整えながら、ふと辺りを見回した。
「……こうして街を歩くのも、久しぶりね」
何気ない言葉。だが、俺はそこで少し違和感を覚えた。
「久しぶり?」
「ええ。仕事の移動はほとんど車だから」
「歩く機会が少ないんですね」
「そういうこと」
──つまり、日常生活の中で「目的もなく歩く」ことがほとんどないのか。
キャリアウーマンらしいと言えば、それまでだけど。
「それにしても……」
美咲はちらりと俺を見た。
「こうして誰かと並んで歩くのも、新鮮ね」
「そうなんですか?」
「当然でしょう? こういう時間を取ることがなかったもの」
彼女の言葉に、俺は軽く頷いた。
──この人は、きっとずっと「一人で歩いてきた」んだろう。
仕事を優先し、努力し続けて、気がつけば独りで歩くのが当たり前になっていた。
そんな彼女が、今こうして俺と並んで歩いている。
距離感の変化──「誰かと歩く」ということ
俺は、無意識のうちに歩調を緩めた。
すると、美咲もわずかに歩調を合わせてくる。
──これが、「デート」というものなのかもしれない。
俺たちの周りを、忙しなく歩く女性たちが通り過ぎていく。
仕事帰りの同僚同士で笑い合う者もいれば、スマホを見ながら歩く者もいる。
だが、その中で俺たち二人だけが、どこか違う時間の流れの中にいるように感じた。
「……こういうのって、意識するものなのかしら」
美咲が、不意に呟いた。
「こういうの?」
「並んで歩くっていうことよ」
「うーん……意識する人はするんじゃないですか? でも、普通の恋人なら、何も考えずに自然と並んで歩くと思います」
「自然に、ね……」
美咲は、まるでその言葉の意味を確かめるように、俺の顔をちらりと見た。
そして、軽く息を吐く。
「……なるほど。私には、まだ難しいかもしれないわね」
彼女はそう言いながらも、先ほどよりも自然な歩き方になっている。
少しずつ、肩の力が抜けてきたのかもしれない。
すれ違う女性たちの視線──珍しい光景
俺たちが街を歩いていると、すれ違う女性たちがちらちらとこちらを見ているのに気づいた。
「あら……」
「わぁイケメン………」
「いいなぁ、恋人同士みたい」
通り過ぎる女性たちのささやき声が聞こえる。
この世界では、「男性が女性と並んで歩く」こと自体が珍しいのか。
たしかに、この街を見渡しても、男は一人で歩いているか、女性にエスコートされる立場のどちらかが多い。
俺みたいに自然に女性と並んで歩く男は、ほぼいないのかもしれない。
美咲もそれに気づいたのか、ふと苦笑した。
「……なんだか、注目されているみたいね」
「そうみたいですね」
「あなた、意外とこういうのは平気なの?」
「平気っていうか……美咲さんこそ、気にしてないじゃないですか」
「私が誰かの視線を気にするタイプに見える?」
彼女は少しだけ挑戦的な表情を見せた。
──たしかに、彼女は「誰かに見られること」には慣れている。
仕事上、人前に立つことが多いからだろう。
ただ、俺と並んで歩くことが「初めて」なだけで。
「じゃあ、もっと堂々と歩きましょうか」
俺が冗談めかして言うと、美咲は微かに笑った。
「……そうね。せっかくのデートだもの」
そう。
これは、「デート」なのだ。
彼女にとって、きっと生まれて初めての、本物の恋人らしい時間。
そして、俺にとっても「仕事」とは言いながら、どこか新鮮な感覚を覚える時間だった。
──こうして、俺たちはゆっくりと街を歩いていく。
まるで、本当に恋人同士のように。