恋人代行 キャリアウーマン②
──この人、すごいな。
目の前に座る美咲を見つめながら、俺はそう思わずにはいられなかった。
高級ホテルのラウンジという場所に、彼女ほどしっくりと馴染む人間はそうそういないだろう。
ネイビーのスーツは一切の皺もなく、彼女の引き締まった体のラインを完璧に際立たせている。
長い脚を組む仕草すら、洗練されていて隙がない。
それだけではない。
真正面から向けられる美咲の視線。
──冷静で、どこか探るような目。
それは、仕事で数々の交渉をこなしてきた人間のものだった。
単に美しいだけじゃない。彼女の存在感は、自然と周囲を圧倒する。
「自分がこの場で最も優れた存在である」 と、彼女は意識していないのかもしれないが、そう感じさせる雰囲気を纏っていた。
当然のように客席の視線を集め、女性客の中には羨望の眼差しを向ける者もいる。
──完璧なキャリアウーマン。
それが、俺の彼女に対する第一印象だった。
それなのに、恋愛には不器用?
でも──
彼女は、完璧すぎるがゆえに、どこか不自然だった。
視線は堂々としているのに、俺と目が合うと一瞬だけ躊躇するような間がある。
会話は流れるようにこなすのに、「恋人らしい話題」になると、少しだけ言葉を選ぶ時間が長くなる。
それに、俺が「普通のデートのように楽しんでみませんか?」と言ったとき、彼女は一瞬驚いたような表情を見せた。
それは、まるで──
「そんなことを考えたこともなかった」 かのような反応だった。
つまり、この人は──
「本当に恋愛をしたことがない」のではないか?
見た目、知性、振る舞い、どれを取っても圧倒的に優れているのに、恋愛だけがぽっかりと空白になっている。
そんな女性が、今こうして目の前にいる。
「選ぶ側」から「選ばれる側」へ
この世界では、恋愛の主導権を握るのは女性だ。
男の数が少なく、女性は「どうすれば好きな男性に振り向いてもらえるか」に悩む立場にある。
おそらく、美咲も例外ではなかったのだろう。
仕事の世界では、「選ぶ側」としてトップを走ってきた彼女が、こと恋愛に関しては「選ばれる側」にならなければならない。
これは、彼女にとって相当なストレスだったに違いない。
だからこそ、「恋人代行」という安全な選択肢を選んだのかもしれない。
それなら、俺のやるべきことは決まっている。
彼女が「選ばれること」を意識せずに、純粋に恋愛の楽しさを感じられるようにすればいい。
──なるほど、これは意外と面白い仕事かもしれない。
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美咲は、ゆっくりとカップに口をつけた。
彼女の仕草は隙がなく、洗練されている。だが、その目元にはほんのわずかな緊張が滲んでいた。
──完璧なキャリアウーマンでありながら、恋愛には不慣れ。
それが、俺が彼女と話してみて得た結論だった。
ならば、俺がリードするしかない。
「美咲さんは、普段はどんなお店で食事することが多いんですか?」
俺がそう問いかけると、彼女はふと目を細めた。
「……仕事関係の会食ばかりね。プライベートで外食することはほとんどないわ」
「なるほど。じゃあ、こういうラウンジで過ごすことが多いんですか?」
「ええ。仕事の合間に一息つく場所としては、ちょうどいいから」
──それって、結局、仕事の延長線上なんじゃないか?
そう思いながらも、俺はあえて突っ込まず、少しだけ柔らかい口調で言った。
「今日は、仕事抜きでゆっくりできそうですか?」
「……そうね。あなたがうまくリードしてくれれば」
美咲は俺を見つめながら、意味ありげな微笑みを浮かべた。
──なるほど、これは試されている。
彼女は、決して弱みを見せないタイプだ。
「自分が恋愛経験が乏しい」という事実を隠したまま、俺がどう対応するのか見極めようとしている。
だが、それならば──俺は俺のやり方で、この場を楽しませてやるだけだ。
「じゃあ、俺のほうから質問してもいいですか?」
俺がそう切り出すと、美咲は少し意外そうに眉を上げた。
「……ええ、構わないわ」
「美咲さんって、休日はどんなふうに過ごしてるんですか?」
「休日?」
彼女は一瞬、考える素振りを見せた。
「基本的には仕事関連の資料を読んだり、自己研鑽をしたりね。あとは軽い運動をすることもあるけど」
「……うーん、めちゃくちゃストイックですね」
「そうかしら?」
美咲は当たり前のように言うが、俺からしたら完全に仕事人間のそれ だった。
「……じゃあ、ちょっと試しに聞いてみますけど、例えば、『次の休みは彼氏とどこかに出かける』っていう状況になったら、どこに行きたいですか?」
この質問に、美咲の表情が一瞬固まる。
「……そういうこと、考えたことがなかったわね」
彼女はカップを置き、指先でグラスの縁を軽くなぞった。
「……恋人とどこかに出かける、か……」
そして、ふっと微笑む。
「……そんなシチュエーション、今までなかったもの」
──やっぱりか。
彼女の中には、「恋人とデートする」という概念すら存在しないのかもしれない。
ならば、ここで少しだけ、俺の役目を果たしてみるか。
「じゃあ、こうしましょう」
俺はカップを置き、軽く身を乗り出して言った。
「このまま、俺と普通の恋人みたいにデートしてみませんか?」
美咲の指先がぴたりと止まる。
「……普通の恋人、ね」
彼女は静かに俺を見つめる。
その表情には、興味と、ほんのわずかな戸惑いが入り混じっていた。
「そうね……どうすればいいのかしら」
「簡単ですよ。難しいことは考えずに、ただ一緒に過ごせばいいんです」
俺は軽く笑って、付け加えた。
「美咲さんは、仕事ではきっと完璧な女性なんでしょう。でも、今日は”ただの美咲さん”でいればいいんじゃないですか?」
その言葉に、美咲の目が少しだけ見開かれる。
──まるで、そんなことを言われるのが初めてであるかのように。
彼女はしばらく沈黙し、そして、ふっと微笑んだ。
「……面白いことを言うのね」
美咲はグラスを手に取り、軽く揺らす。
「いいわ。あなたの言う通り、今日は”ただの美咲”でいることにする」
──こうして、俺と美咲の初めてのデートが始まった。




