アイドルは何かが引っかかる
水槽の前を歩きながら、私はふと気づいた。
──なんか、話してる。普通に。
大学では一度も話したことがなかったのに、今は隣で当たり前のように会話をしている。
それも、ぎこちない感じじゃなく、自然に。
天城くんの隣にいると、妙に落ち着く。
「恋人代行だから」優しくされてるのはわかってるけど、それでも安心感がある。
──でも、これってどうなんだろう?
私はただの依頼人で、彼は恋人代行のスタッフ。
なのに、私は「仕事だから」と割り切れなくなりそうになっていた。
天城くんは私の歩調に合わせながら、ふと話題を変えた。
「篠宮さんって、普段はどんなふうに過ごしてるんですか?」
私は少し考え込む。
仕事の話をするのは嫌じゃないけど、「アイドルとしての私」を語るのは、どこか気が引けた。
「うーん……普通に、家でゴロゴロしてるよ。」
冗談っぽく言うと、彼は意外そうな顔をした。
「意外ですね。」
「え、なんで?」
「忙しくて、常にスケジュールが埋まってるイメージがあったので。」
私は小さく笑った。
「まあ、確かに忙しいけど、オフの日は基本ダラダラしてるよ。」
それに、私は少しだけいたずらっぽく言葉を続けた。
「むしろ、今こうしてデートしてるのが久しぶりって感じかも。」
彼はふっと苦笑する。
「そうなんですか?」
「そうだよ、アイドルって意外と普通の恋愛とは無縁だからね。」
──あれ?
なんか今、素の自分で話してない?
私はふと、気づいてしまった。
私は彼と話しながら、自分があまり気を張らずに会話していることに驚いた。
いつもの仕事のノリじゃないし、表面だけ取り繕った「アイドルの自分」でもない。
──ただの、「私」として話してる。
大学では、彼の前では話しかけることすらできなかったのに。
どうして今は、こんなに普通に話せるんだろう?
私は天城くんをちらっと見る。
彼は特に意識する様子もなく、ただ淡々と会話を続けている。
──この人は、私がアイドルだから特別扱いしない。
「恋人代行の仕事だから、優しくしてくれてる」
それはわかってる。
でももしかしたらって気持ちがでてきちゃう。
彼と話しているうちに、私は不思議な感覚に陥っていた。
──なんか、楽しい。
当たり前のように、何でも話せる。
彼の方も、決して話を盛り上げようとするわけじゃないのに、
変に気を遣われることもなく、自然に会話が続く。
「あのね、今日、久しぶりに水族館に来て思ったんだけど……。」
私はぽつりと呟く。
彼が「はい」とこちらを見る。
「こういう何気ない時間って、大事なのかもって思った。」
少しだけ目を丸くして、
「それはどうして?」
と、促すように聞いてくる。
私は自分の胸の中の違和感を整理しながら、言葉を選ぶ。
「忙しくしてると、普通に誰かと話すことが減るから……。」
私は普段、仕事でたくさんの人と話してる。
でも、それは全部「アイドルの篠宮紗奈」としての会話。
彼と話してると、それとは違う、「ただの紗奈」としての会話ができてる気がした。
──いや、でもこれって、ただの仕事の時間なんだよね?
そのはずなのに、なんだか少しだけ名残惜しくなる。
私は、ふと彼に聞いてみた。
「天城くんはさ……普通のデートって、どんなふうにするの?」
彼は一瞬、考え込んでから答えた。
「……そうですね。」
「特別なことをしなくても、一緒にいて気が楽な時間なら、それが いいデートなのかなと思います。」
私はその言葉を聞いて、一瞬だけドキッとした。
──「一緒にいて気が楽な時間」。
今の私たちの時間が、なんだかそれに近い気がした。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
──いや、違う違う。
これは、ただの仕事。
「恋人代行」のデート。
「ふーん、なんか恋人代行の人らしい答えだね。」
私は誤魔化しながら、少し口を尖らせながら言う。
透は苦笑しながら、
「まあ、仕事なので。」
と静かに返した。
私はその返事に少しだけ胸がチクリとしたのを感じたけれど、
それが何の感情なのかは、まだよくわからなかった。
水族館の出口に近づくにつれ、私は少しずつ現実に戻されていくような気がした。
心地よく揺れる青い光も、ゆったりと泳ぐ魚たちの姿も、もうすぐ視界から消えてしまう。
──楽しかった。
それは、間違いなく本心だった。
デートのはずなのに、透との時間は妙に落ち着いていて、居心地が良かった。
アイドルの私じゃなく、「ただの篠宮紗奈」として話せた気がする。
でも、この時間は「仕事」だった。
透にとっても、私にとっても、これはあくまで「依頼」としてのデート。
それを、忘れかけていた。
出口を出たところで、彼は足を止め、私の方を向いた。
「今日はありがとうございました。」
静かで落ち着いた声。
そこに、特別な感情は一切感じられない。
彼にとっては、ここまでが「業務時間」であり、ただの一仕事が終わっただけ。
それが当たり前なのに、なぜか私は少しだけチクリと胸が痛んだ。
「……うん。」
私はいつものように笑顔を作る。
でも、その笑顔がどこか不自然になっていないか、少しだけ不安になった。
彼は、特に名残惜しそうな素振りを見せることもなく、自然に別れの流れを作ろうとしていた。
でも、私はどこかで、それを受け入れたくなかった。
──終わりたくない?
いやいや、違う違う。
これはただの「代行デート」。仕事なんだから、ここで終わるのは当たり前。
……なのに、何かが引っかかる。
自分でもよくわからない感情を抱えたまま、私は口を開いた。
「ねえ、また……お願いしてもいい?」
言った瞬間、自分でも驚いた。
それは、まるで衝動のような言葉だった。
彼は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
でもすぐに、いつもの穏やかな表情に戻る。
「……ええ、もちろん。」
何の疑問もなく答えた。
その声音に、変な感情は混ざっていなかった。
あくまで「依頼人としての私」に向けた言葉。
──なのに、どうして私はこんなにホッとしてるの?
私は、自分の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
それと同時に、「これでいいの?」という疑問も湧いてくる。
私、なんでこんなに「また会いたい」って思ってるんだろう?
天城くんが去っていくのを、私は静かに見送った。
歩く後ろ姿は、やっぱり大学で見ていたときと変わらない。
だけど……私の中の天城くんの印象は、今日一日で大きく変わってしまった。
「私、彼のこと……もっと知りたいかも。」
そんな気持ちが、湧いてくる。
私はスマホの画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
次の予約、いつにしようか──そんなことを、自然に考えてしまっている自分がいた。




