水族館
水族館の自動ドアが静かに開き、館内の柔らかな青い光が私たちを包み込んだ。
ひんやりとした空気と、ほのかに水の匂いが漂う。
──ああ、この感じ、久しぶり。
子供の頃に家族と訪れたことはあったけど、こんなふうに「デート」として来るのは初めてだった。
でも、今の私は「ただの依頼人」としてここにいる。
透もまた「恋人代行」として隣にいるだけ。
──なのに、何だろう、この感覚。
ふと、視線を横に向けると、天城くんが穏やかにこちらを見ていた。
「水族館って、久しぶりですか?」
さっきの緊張は、もうほとんど消えていた。
でも、それが彼の「仕事の一環」としての態度なのだと思うと、少しだけ胸がざわつく。
「うん、しばらく来てなかったから。」
私はそう答えながら、なるべく自然に振る舞おうとする。
館内はそこまで混雑していない。
家族連れやカップルがゆったりと水槽を眺めている中、私たちは静かに歩き始めた。
彼は、何の違和感もなく、私の歩幅に合わせてくれる。
私が少し立ち止まれば、彼も立ち止まる。
無理にリードしようともせず、でも決して遅れもしない。
──「この人、どこまでが仕事なんだろう?」
私は意識しないようにしながらも、彼の動きを気にしてしまう。
普通の人なら、こんなふうに相手のペースを完璧に合わせたりしない。
これが「恋人代行」としての振る舞いなら、さすがだと思う。
でも、もしそうじゃないなら……?
彼がふと、館内の案内板を見て言った。
「どこから回りたいですか?」
私は少し考えて、
「うーん……じゃあ、トンネルの水槽から行こうかな。」
と言うと、彼は軽くうなずいた。
「いいですね。あそこは雰囲気があって、デート向きです。」
「……やっぱり、恋人代行としてデートっぽい場所を意識するんだ?」
「それが仕事ですから。」
彼はさらりと答える。
私も何気なく言っただけだったのに、どこか気にしてしまう。
──「あくまで仕事なんだね。」
彼がそう振る舞うのは当然なのに、
私の中にほんの少しの違和感が生まれる。
私たちはトンネル型の大きな水槽に向かって歩いていた。
彼は、大学ではどこか話しかけづらい雰囲気があった。
特に男子は、女子を避ける傾向が強い。
──でも、彼は違った。
冷たくあしらうわけでも、特別親しくするわけでもない。
ただ、適度な距離感を持って接している。
だからこそ、私も気軽に話しかけることができなかった。
それなのに、今はどうだろう?
私たちは、まるで前からの知り合いのように普通に会話をしている。
──これって、どういうこと?
彼の側にいるのが「仕事」だから?
それとも、私が大学で勝手に遠い存在だと思い込んでいただけ?
彼と過ごすこの時間が、
「普通に会話できる関係」を作り上げている気がした。
私は水槽を見つめながら、ぼんやりと考える。
──この時間が終わったら、私はまた彼と『大学の関係』に戻るんだよね?
ふと、そんなことを思ってしまう。
天城くんは代行の仕事としてここにいて、私はそれを依頼しただけ。
だから、この心のざわつきは気のせい。
──そう思いたいのに。
私たちは、大きな水槽のあるトンネルへと足を踏み入れた。
青くゆらめく光の中を、巨大なエイやサメが悠然と泳いでいく。
大きなトンネル型の水槽の下で、私はふと足を止めた。
「わぁ……すごい。」
天井まで広がる水の世界。
透明なガラスの向こう側にいる生き物たちは、まるで空を泳いでいるみたいだった。
子供のころに見たときよりもずっと幻想的で、思わず見入ってしまう。
隣にいる彼は、私よりも少し後ろに立ち、同じように水槽を眺めていた。
そして、ぽつりと呟く。
「水族館って、時間がゆっくり流れる感じがしますよね。」
その声が、青い光に溶けるみたいにやわらかくて、
私は思わず横目で彼の顔を見た。
彼は、いつの間にか私のすぐ後ろに立っていた。
人の流れを見て、無意識に私のスペースを作ってくれている。
――――――こういうところ、自然に気がつくんだ。
混雑した場所では、いつも少しだけ距離を置かれることが多かった。
アイドルとして目立つ立場だから、
誰かが私に気を遣うのは、よくあること。
でも、彼の気遣いは違った。
まるで、「当たり前のように」私のために動いている。
それが不思議で、少しだけ胸がざわついた。
──これは、ただの『仕事』だから?
それとも、この人が本来こういう人だから?
私はもう一度、水槽の奥へと視線を戻した。
ゆっくりとクラゲが漂っているのが見える。
小さな体を光に透かしながら、ふわりふわりと浮遊していた。
私は、思わずその場にしゃがみ込む。
──なんか、綺麗。
そんな私の横に、彼も自然にしゃがんでいた。
そして、私が何も言わないのに、ぽつりと聞いてきた。
「クラゲ、好きなんですか?」
私は、一瞬だけ驚いて、彼を見た。
「……え? なんで?」
特に表情を変えず、静かに答える。
「さっきから、一番長く見てましたから。」
それを聞いた瞬間、私は妙にドキッとしてしまった。
──いや、待って。
これは、ただの『恋人代行』。
彼は、私の好みに気づいたんじゃなくて、
『恋人代行』として、相手の興味を察するようにしてるだけ。
……はずなのに。
彼の言葉は、何も考えずに自然に出たように聞こえた。
まるで、仕事だから察したのではなく、
ただ「私を見ていたから気がついた」みたいに。
その考えが、頭の中に引っかかって離れなかった。
私は少し笑って、誤魔化すように言う。
「うん、なんか……ずっと見てられる。」
彼は「なるほど」と納得したように頷いた。
それ以上、余計な言葉を挟むことはない。
でも、その沈黙が妙に心地よかった。
──この人、こういうところ、普通の人と違う。
「クラゲって、流れに逆らわずに生きてるって聞いたことあります。」
彼がそう言った。
私は彼の言葉の意味を考えながら、ふと口にする。
「じゃあ……私も、今日は流れに身を任せてみようかな。」
彼は少し意外そうに私を見た。
けれど、その次の瞬間、静かに笑った。
「それもいいですね。」
その笑顔を見て、私はまた少しだけ胸がざわついた。




