アイドル
スマホの画面をスクロールしながら、紗奈は軽く息を吐いた。
夜、部屋のソファに座り、膝の上にクッションを抱えたまま、何度も画面を見つめている。
──ついに、申し込んじゃった。
恋人代行。
リアルな恋愛はできないけれど、恋愛経験を積むために、疑似的なデートをするサービス。
紗奈は「ただの仕事としての依頼」として、自分を納得させながら申し込みを済ませた。
画面には、代行サービスの予約確認ページが表示されている。
スクロールすると、「担当パートナー」の名前が記載されていた。
──「天城透」。
その名前を見た瞬間、紗奈の指がピタリと止まる。
「え?」
一瞬、何かの間違いかと思った。
画面を何度も見直し、履歴を確認する。
けれど、間違いではなかった。
──担当パートナーは、天城透。
大学で、何度も見かけていた彼だった。
「どういうこと? なんで……?」
紗奈は、自分の胸の内に広がるざわつきを押さえようとする。
冷静に考えれば、恋人代行の仕事をしている人が大学生でも不思議ではない。
でも──まさか、大学で気になっていた彼が、その仕事をしているとは思わなかった。
透は、大学では特に目立つわけでもなく、でも「他の男子とは違う雰囲気」を持っていた。
女子を拒絶することもなく、でも馴れ合うわけでもない。
そんな彼が、恋人代行をやっている。
──「大学で見せる顔と、ここでの顔は違うのかな?」
彼が、恋人代行としてどんなふうに振る舞うのか。
気になっていた相手が、思いがけずデートの相手になる。
紗奈は、自分でも説明のつかない気持ちになった。
紗奈は、スマホを持ったまま考え込んだ。
──デートの場所を決めなきゃ。
恋人代行のプランでは、依頼人が希望のデートスポットを選ぶことができる。
どこにするか迷ったが、すぐに浮かんだのは水族館だった。
「人目を気にせず、落ち着いて過ごせる場所がいい。」
紗奈はアイドルとして、日常的に注目を集める。
カフェやショッピングモールのような場所では、人の目が気になりすぎてしまう。
でも、水族館なら──館内は照明が暗めで、人混みの中でも目立ちにくい。
静かな空間で、周囲を気にせずに過ごせるはず。
そして、もう一つの理由。
──「せっかくなら、ちゃんとデートっぽいことがしたい。」
恋人代行とはいえ、「ただそれっぽく振る舞う」だけではなく、
「本当に恋人といるような気分」を味わいたかった。
そのためには、雰囲気のいい場所がいい。
水族館なら、会話が途切れても水槽を見ていれば間が持つし、
「恋人として一緒に楽しむ」空気を作りやすい。
──それに、もう一つ。
「私自身が、水族館が好きだから。」
子供のころ、家族と一緒に行った思い出の場所だった。
それ以来、仕事が忙しくなってからは行けていないけれど、
あの幻想的な空間が好きで、もう一度ゆっくり楽しみたいと思っていた。
彼から見たらあくまで「仕事」なのかもしれない……。
それでも、大好きな場所に男の子といけたらって想像するだけでも顔が熱くなるし思わず足をバタつかせてしまう。
紗奈は、水族館を希望デート先に設定し、予約を確定させる。
画面には「予約完了」の文字が表示された。
──「これでいいんだよね?」
そう自分に言い聞かせながら、
胸の奥で広がる不思議な気持ちを、紗奈は押し込めた。
デート当日。
水族館の入り口で、私は足を止めた。
スマホの画面を見なくても、目の前にいるのが誰かはわかっていた。
──天城透。
大学で何度も見かけたことのある人。
でも、こうして向かい合うのは今日が初めてだった。
彼はすでに私に気づいていたのか、視線を向けると軽く微笑んだ。
大学ではあまり表情を変えない人だと思っていたけれど、こうして笑うと、ずいぶん印象が違う。
私の胸が、軽くざわついた。
──これは、恋人代行のサービス。
それ以上でも、それ以下でもない。
わかっているのに、少しだけ息が詰まるのはどうしてだろう。
私は意識しないふりをしながら、彼に向かって歩き出した。
仕事の相手として、ただの依頼人として。
自然な笑顔を作り、話しかける。
「えっと、天城くん……で、合ってるよね?」
すると、彼はゆるやかにうなずき、落ち着いた声で言った。
「はい、篠宮さん。今日はよろしくお願いします。」
「……うん。よろしくね。」
たったそれだけの会話なのに、私は自分が少し緊張しているのを感じた。
彼は、少し姿勢を正し、手を軽く差し出した。
「では、行きましょうか。」
恋人代行として、自然に振る舞っているのだろう。
でも、そのさりげないエスコートに、私は少しだけ戸惑った。
──大学での彼は、こんな感じじゃなかった。
静かで、どこか周囲と距離を取っているような雰囲気だったのに。
こうして向き合ってみると、彼はどこまでも穏やかで、優しくて、まるで……。
──本当の恋人みたいに。
心のどこかで、その考えを振り払う。
今は、そういうことを考える時間じゃない。
私は「サービスを受ける客」としてここに来たのだから。
私は軽く息を吐き、彼の隣に並んだ。
水族館の入り口をくぐると、青い照明が広がる館内に包まれる。
──まるで、別世界に足を踏み入れたみたいだった。




