アイドルの葛藤
スマホの画面をスクロールしながら、紗奈は小さく息を吐いた。
目の前には、自分が連載している恋愛アドバイスコラムの記事。
そのコメント欄には、ファンたちからの熱い反応が並んでいる。
「紗奈ちゃんのアドバイス、めっちゃ参考になる!」
「やっぱりモテる人の意見は違うね!」
「今度のデートで実践してみます!」
──いつも通りの、好意的な反応。
紗奈はそれを見て、少しだけホッとする。
自分の発信した言葉が誰かの役に立っている。
それ自体は、決して悪い気分ではない。
けれど、その中に混じる「疑問の声」が、心に引っかかっていた。
「紗奈ちゃんって、実際に彼氏いたことあるの?」
「なんとなく、理論的すぎてリアルな恋愛感情が見えない気がする……。」
「経験談とかがあると、もっと説得力が増すんだけどな。」
紗奈は指を止め、しばらくそのコメントを見つめた。
──やっぱり、そう思われるよね。
彼女は「モテるアイドル」として、恋愛アドバイスをする立場にある。
だが、実際には……恋愛経験なんてゼロ。
異性との交流は、仕事上の共演者やスタッフばかり。
普通の恋愛をする機会なんて、アイドルになってからはほとんどなかった。
それでも、ファンの期待に応えるために、過去のインタビューや女性向け雑誌の記事を参考にして、それっぽいアドバイスを作り上げてきた。
けれど、そんな「作られた恋愛論」が、次第に自分を追い詰めているような気がしていた。
──私、本当にこれでいいの?
紗奈はスマホを閉じ、ベンチにもたれかかる。
ふと、頭の中に浮かぶのは、最近気になり始めた「ある人」のこと。
──天城透。
大学の授業で何度か見かける男子学生。
芸能界とは無縁の、ただの一般生。
紗奈は、自分が大学に通っていることを「普通の女子大生としての時間」として大切にしている。
とはいえ、周囲の学生たちは、どうしても彼女を特別扱いしてしまう。
──でも、透だけは違った。
彼は、紗奈のことを意識していない。
いや、正確には「アイドルとしての紗奈」に特別な興味を持っていない。
授業中、周囲が彼女をちらちら見ている中で、
透はただ静かにノートを取り、いつも通り過ごしていた。
それが、紗奈には妙に新鮮だった。
──どうして、この人は私を見ないんだろう?
「男性人気がない」のは分かっている。
でも、透は「アイドルだから興味がない」のではなく、そもそも「誰に対してもフラットに接している」。
しかも、最近になって気づいたことがある。
──透って、女子の間で結構人気があるらしい。
彼が積極的に女子と関わることはない。
でも、彼は他の男子と違って女子を見下したり、拒絶したりしない。
普通に会話をするし、必要なときは自然に気を遣うことができる。
だから、「話しかけやすい」「冷たくない」「でも距離感が絶妙」と、女子たちの間で密かに評判になっている。
実際、授業後の休み時間には、女子たちが彼の話をしているのを耳にすることもあった。
「天城くんって、他の男子みたいに嫌な態度取らないし、普通に接してくれるよね。」
「でも、誰にでも優しいってわけじゃなくて、適度な距離感があるのがいい……。」
「モテるのに、本人は全然気づいてない感じがするのがまた……ね?」
──なるほど、そういうタイプか。
紗奈は、その話を何気なく聞いていたが、どこか納得する部分もあった。
確かに、彼は特定の女子と親しげにするわけではないが、冷たくもない。
それが「ちょうどいい距離感」として、女子たちの間で話題になっているのだろう。
──でも、だからこそ気になる。
「みんなが話す彼」と、「私の前での彼」は、同じなのか?
気づけば、そんなことを考えていた。
──もっと、この人のことを知りたい。
そう思ったのは、ほんの些細なきっかけだった。
─話しかけられない。
紗奈は、教室の隅で透の後ろ姿を眺めながら、小さく息を吐いた。
授業が終わり、透はノートを閉じて、静かに席を立った。
彼はいつも通り、特に誰とも群れることなく、淡々と教室を出ていく。
──今なら、話しかけられるのに。
授業中、何度か透の方を見た。
彼は変わらず、講義に集中していて、周囲の視線を気にする素振りもなかった。
紗奈は、大学に通いながらも、どこかで「自分は特別な存在」だと自覚している。
芸能活動をしている以上、他の学生とまったく同じにはなれないし、周囲もそうは見てくれない。
だからこそ、普通の大学生活を送りたくても、どこか「壁」を感じることが多かった。
でも──。
透の前では、それがなかった。
彼は、アイドルとしての紗奈に対して、過剰に意識することもなければ、特別な興味を持つこともない。
他の女子学生たちのように、彼のことを話題にするわけでもなく、ただ淡々と日常を過ごしている。
──だからこそ、気になる。
「私も、普通の女子として話せるだろうか?」
何気ない会話を交わし、自然に距離を縮めることができるだろうか?
……できない気がした。
紗奈は、ファンとの交流には慣れている。
テレビの収録やイベントでは、初対面の人間とスムーズに会話をすることが求められる。
だから、知らない人と話すこと自体に抵抗はないはずなのに──。
「彼には、どんなテンションで話しかければいいの?」
ファンの前なら、アイドルらしい笑顔と明るいトークで盛り上げることができる。
でも、透にそれをやったら、彼はどう思うだろう?
──「特別扱いしてほしいアイドル様かよ」と思われるかもしれない。
──「仕事のノリを持ち込むな」と思われるかもしれない。
そう考えると、足がすくんでしまった。
「私、ただの女子として話すことができないんだ……。」
紗奈は、ふとスマホを取り出し、SNSの通知を確認した。
そこには、連載している恋愛アドバイスコラムの記事に対するコメントが並んでいる。
「紗奈ちゃんのアドバイス、すごく参考になる!」
「やっぱりモテる人の意見って違うね!」
「今度のデートで実践してみます!」
──それなのに、私自身は?
恋愛アドバイスを発信しているのに、実際の恋愛経験はゼロ。
こんな状態で、透と話して、まともに距離を縮めることができるのか?
「私には、リアルな恋愛経験が足りない……。」
どうすればいいのか。
答えの出ないまま考え続けていたとき、ふと頭に浮かんだ言葉があった。
──恋人代行サービス。
最近、友人との会話の中で耳にしたことがある。
「疑似恋人としての体験を提供するサービス」。
契約のもと、デートをして、恋人としての時間を過ごせる。
リアルな恋愛はできなくても、これなら……。
──恋愛の感覚を、少しでも知ることができるかもしれない。
紗奈はスマホを開き、検索バーに打ち込む。
「恋人代行サービス」
画面には、いくつもの代行業者のサイトが並んでいた。
──これなら、いいよね?
アイドルだから、本物の恋人を作るわけにはいかない。
でも、恋愛アドバイスを続けるには、リアルな恋愛感覚を知る必要がある。
──そして、透と話せるようになるためにも。
紗奈は、躊躇いながらも、ひとつのサイトを開き、申し込みページに進んだ。




