お嬢様は振り返る
夜の静寂が広がる自室。
ソファに身を沈め、ハイヒールを脱ぐと、ようやくふっと息が漏れた。
「……はぁ」
疲れた。
──そう、疲れたはずなのに。
それなのに、なぜか心のどこかが妙に落ち着かない。
何かが、胸の奥に引っかかっている。
視線を落とすと、バッグの上に置いたスマホの画面が光っていた。
通知は何もない。
でも、なぜか気になってしまう。
「……私は、今日のことをどう思っているの?」
透と過ごした時間を思い返す。
レストランでの食事。
夜の街を並んで歩いたこと。
別れ際の会話──。
すべてを振り返るたび、少しずつ気づいてしまう。
──私は、彼の前でだけ、なぜか意固地になっていた気がする。
普段なら、どんな相手にでも完璧な微笑みを浮かべられるのに。
透の前では、それができなかった。
「……なんで?」
社交界では、どんな場面でも洗練された立ち振る舞いを求められる。
私はそれに応え、誰とでも上手く会話し、相手を気分よくさせることができる。
──でも、透の前では、そうはいかなかった。
「まあ、悪くはなかったわ」
「勘違いしないで」
「別に、特別に思ったわけじゃないから」
そのたびに、透は困惑することもなく、ただ微笑んでいた。
「……」
本当は、透の気遣いが心地よかった。
彼の何気ない優しさに、胸の奥が温かくなった瞬間が何度もあった。
なのに。
なぜ、素直になれなかったの?
思い出すのは、透の穏やかな眼差し。
今までの男性とは違う。
社交の場で会ってきた男たちは、私を「白瀬家の令嬢」として扱う。
「高嶺の花」として、距離を置かれるか、妙に気を遣われるか──。
けれど、透は違った。
彼は私を「お嬢様」ではなく、一人の女性として見ていた。
必要以上に持ち上げたり、媚びたりせず、ただ普通に接してきた。
「……だから、私は……」
──だからこそ、戸惑ったの?
「どう振る舞えばいいのか分からなかった」
「どう接すればいいのか分からなくて、つい意地になってしまった」
「透の前だと、私らしくいられない──」
その考えが、胸の奥に引っかかる。
彼の前では、「完璧な白瀬梨花」でいられなかった。
素直に喜ぶこともできなかった。
──それって、どういう意味?
スマホを握りしめたまま、息を呑む。
「私、彼のことを意識してる?」
まさか、そんなことは……。
「彼は仕事でやっているだけ。そうでしょう?」
透は、誰にでも優しくする。
気遣いも、言葉も、すべて仕事の一環。
だから、私が意識する必要なんて──ない。
なのに。
また会ったら、次は素直になれるのだろうか。
それとも、またツンツンしてしまうの?
考えれば考えるほど、答えは見えなくなる。
ただ一つだけ、分かることがある。
──透と過ごした時間を、私はまだ思い出している。
静かな部屋の中で、私はスマホをまた開いた。
画面を開くと、通知はやはり何もない。
──透からの連絡なんて、来るはずがないのに。
そんなことを思いながら、無意識にスクロールする指が止まる。
……
――「それなら、また機会があれば」
透の最後の言葉が、頭の中で繰り返された。
──「機会があれば」。
つまり、私が望めば、また会える?
「……そんなの、おかしいわよね」
これは、ただの仕事だったはず。
透は、恋人代行のスタッフとして私と過ごした。
彼にとって、今日の時間は単なる「業務」の一つ。
彼にとって、私はただのクライアント。
私にとって、彼はただのスタッフ。
だから、また会いたいなんて思う必要はない。
──なのに。
どうして私は、今こうして透の言葉を反芻しているの?
透の振る舞いを思い返す。
食事中、私のペースに合わせてくれたこと。寒くないかとさりげなく気遣ったこと。どんな話でも、押しつけがましくなく「そうなんですね」と受け入れてくれたこと。
「……」
それは、彼が「仕事だから」やったこと?
でも、ただの仕事なら、もっと形式的でよかったはず。
「お嬢様らしく素敵ですね」とか、「お綺麗ですね」とか、そういう社交辞令だけで十分だったのでは?」
なのに、彼はそうしなかった。
私の言葉をちゃんと聞いて、私のリズムに合わせてくれた。
──そんなの、仕事だからってできるもの?
スマホを握りしめる。
透にとっては、私との時間も、これまで何人もの依頼者と過ごした時間の一つに過ぎない。
仕事として、今日のデートが終われば、それでおしまい。
だったら、どうして私はこんなにも透のことを考えているの?
どうして彼の言葉が、表情が、気遣いが、頭の中で繰り返されるの?
──それは、彼が「特別だったから」?
違う。
彼が「仕事だから」でもなく、「特別だから」でもなく、
ただ、彼の言葉や態度が、本当に優しかったから?
だから私は、彼との時間を忘れられない?
「……っ」
そんなはず、ない。
私はただ、恋人らしい時間を経験したかっただけ。
透だから、ではなく、「誰かとデートした」という経験に価値があっただけ。
……そのはずなのに。
ふと、手が勝手にスマホの予約画面を開いていた。
透の名前がリストに表示される。
次に彼を予約すれば、また「恋人」として接してくれる。
今日と同じように、気遣ってくれて、優しい言葉をかけてくれる。
──でも、それって本当に「仕事としての優しさ」なの?
考えれば考えるほど、わからなくなる。
もしまた彼に会ったら、私は今度こそ「これはただの仕事」と割り切れるの?
それとも──。
「……」
予約ボタンにかけた指を、そっと引いた。
今は、まだ。
答えを出すのが、少し怖かった。
スマホの画面を見つめたまま、静かに息を吐く。
透は仕事でやっているだけ。
彼にとって、私はただのクライアント。
また依頼すれば、きっと変わらず優しくしてくれる。
まるで本物の恋人みたいに。
──でも、それは「特別だから」じゃない。
私だから、ではなく。
誰にでも同じように接しているだけ。
「……そんなの、馬鹿みたいじゃない?」
わかってる。
わかってるのに──どうしてこんなにモヤモヤするの?
画面を閉じて、スマホをソファの横に置く。
手のひらに残る熱を、ぎゅっと握りしめた。
また会いたいなんて、そんなはずない。
これはただのサービス。
透は、仕事として対応してくれただけ。
──だったら。
だったら、私はなぜ、彼の言葉や仕草を思い出してしまうの?
「……」
考えても答えは出ない。
ただ、静かな部屋の中で、透の笑顔だけが頭の中に焼きついて離れなかった。




