お嬢様は困惑する
──食事を終えた後、二人は夜の街を歩いていた。
透が提案したのは、少し遠回りをしてから帰ること。
「食後に歩くのも、悪くないでしょう?」
そう言われ、梨花は反射的に「別に」とそっけなく答えた。
──本当は、少し嬉しかったのに。
食事が終われば、そのまま解散するのが当然だと思っていた。
透は仕事でやっているだけなのだから、時間になれば「では、お疲れ様でした」と割り切って終わるはず。
でも彼は、ほんの少しだけ、この時間を続けようとしてくれている。
「特別扱いではなく、自然にそうしてくれている」
──それが、梨花の心を少しだけ揺らした。
透と並んで歩く。
歩幅を無理に合わせようとしなくても、ちょうどいいペースだった。
それがなんとなく心地よくて、少しだけ意識を緩めかけたその瞬間。
「寒くないですか?」
透がふと、こちらを見て言った。
「……別に」
思わず反射的に答えてしまった。
本当は、少しだけ肌寒かった。
食事のときは気にならなかったが、外の空気は少しひんやりとしている。
けれど、透に「寒い」と言えば、彼はまた何か気を遣ってくるだろう。
──私は、彼に気を遣われたいわけじゃない。
彼のペースに乗せられたくない。
だから、「別に」とそっけなく言ったのに。
「じゃあ、もう少し歩きますか」
透は特に気にする様子もなく、穏やかに微笑んだまま歩き出した。
──そういうところが、ずるいのよ。
過剰に心配するわけでもなく、放置するわけでもなく。
ただ、必要な気遣いをして、梨花の言葉をそのまま受け取る。
その態度が、妙に自然で。
「私だけが意識しているみたいじゃない……」
……
……
……
……
……
「そういえば、梨花さんはどんなところに行くのが好きなんですか?」
ふいに、透がそんなことを聞いてきた。
「……?」
「たとえば、普段の休日とか。どんな風に過ごしてるのかなって」
「……社交の場に出ることが多いわ」
それは事実だった。
社交界のパーティーや会食、正式な行事に出席することは多い。
それが「白瀬家の令嬢」としての務めでもあったから。
「じゃあ、プライベートでは?」
「プライベート……?」
考えたこともなかった。
プライベートの時間を持ったとしても、いつも気を張っていた。
何かを楽しむことより、「正しい振る舞いをすること」に意識が向いていた。
「そんなの、考えたこともないわ」
そう言うと、透は少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうなんですね」
──それだけ?
「そんなのつまらなくない?」とか、「もっと気楽に楽しめばいいのに」
そう言われると思っていた。
だが、透はそれ以上何も言わず、ただ「そうなんですね」と受け止めただけだった。
──まただ。
彼は、余計なことを言わない。
勝手な価値観を押しつけてこない。
梨花の言葉を、そのまま受け入れる。
──そんな男性、今までいたかしら?
会話が途切れたとき、ふと透の横顔を盗み見た。
彼は、穏やかな表情で前を見て歩いていた。
社交界で見てきた男性たちのような驕りもない。
恋愛市場で「選ぶ側」として女性に振る舞う男性とも違う。
なんていうか、「自然すぎる」のよね……。
どこか安心できる雰囲気。
だけど、それが少しだけ厄介だった。
「……なに?」
「え?」
「私の顔に何かついてるの?」
「いや、梨花さんが僕を見てたから」
「っ……!」
──しまった。
自分が無意識に透を見ていたことに気づき、思わず顔を背ける。
「……別に、何もないわ」
「そっか」
透は、クスッと笑いながら前を向いた。
その笑い方が、妙に胸に引っかかる。
しばらく歩いていると、梨花は気づいた。
──私は、今までデートというものをしたことがなかった。今日のがデートだとしたら今までのはなんだったのだろう。
男性と二人で食事をしたことはあっても、こうして「ただ歩く時間」はなかった。
無言でも、気まずくない空気。
どこに行くわけでもないのに、心地よい時間。
こんな感覚、初めてだった。
そして、ふと心の中に疑問が浮かぶ。
「透は、今この時間をどう思っているの?」
彼にとっては、これは仕事。
だから、彼は自然に振る舞っているだけ。
──それは、わかっているはずなのに。
彼の表情をふと見てしまう自分がいた。
そして、またすぐに視線をそらしてしまう。
―――――――――――――――――――――――――――
夜の街をゆっくり歩き、タクシー乗り場の前に立った。
ここが、今日のデートの終着点。
透は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべたまま、自然に言った。
「今日はありがとうございました」
──その言葉に、梨花の心が小さく揺れた。
「終わってしまうんだ」
そのことに、ほんの少し寂しさを覚えてしまった。
でも、これは「仕事」。
透にとっては、一人のクライアントとしての時間が終わっただけ。
「……まあ、悪くはなかったわ」
だから、口から出た言葉はそんなものだった。
本当は、「楽しかった」と言えばいいのに。
でも、それを認めてしまうと、何かが変わってしまう気がした。
透は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた後、静かに微笑んだ。
「それは光栄です」
この人は、いつもそう。
私が少し冷たい態度をとっても、傷ついたような素振りを見せない。
私の言葉を、無理に受け流すこともない。
まるで、「そういう人なんですね」と言わんばかりに、当たり前のように受け入れてしまう。
──だからこそ、言葉を重ねたくなってしまった。
「……勘違いしないで」
透が少し首を傾げる。
「別に……今日のことを、特別に思ったわけじゃないから」
なんで、こんなことを言ってしまうのだろう?
本当は、「また会いたい」と言いたいのに。
でも、彼の前では、なぜか素直になれない。
透は少しだけ考える素振りを見せた後、やわらかく笑った。
「そうなんですね」
その優しい笑顔に、梨花の心が小さく痛んだ。
──こんなにあっさり受け流されるの?
彼は、「もっと一緒にいたかった」とは言わなかった。
「また会いましょう」とも言わなかった。
仕事として割り切っているなら、それは当然。
でも、もし。
もし透が、「また会いたい」と言ってくれたら──?
そう考えた自分に気づいて、梨花は急いで頭を振った。
そんなはずはない。
私は、たまたま恋人代行を利用しただけ。
これは本物の恋愛じゃない。
「……それなら、また機会があれば」
透の言葉に、胸の奥が妙にざわつく。
「機会があれば」──それは、彼から求めるものではなく、梨花が望めば叶うもの だった。
つまり、「また会うかどうか」は私の手の中にある。
──だったら、私はどうしたいの?
透が軽く手を振り、タクシーのドアが閉まる。
エンジンの振動が伝わり、車がゆっくりと動き出した。
車内の窓から透の姿が遠ざかっていく。
その瞬間、梨花は思った。
「あれ?」
──私、今、何か言い足りない気がする。
何を?
……「また会いたい」と?
そんなはずない。
私は、別に透のことを特別に思ってなんか──
「……っ」
ハンドバッグの中で、無意識にスマホを握りしめていた。
そして、思い出す。
彼と過ごした時間。
透の言葉。
彼の気遣い。
何気ない微笑み。
──私は、彼の前でだけ少しだけほんとに少しツンツンしている。
社交界では、誰にでも完璧な微笑みを浮かべられるのに。
どうして彼の前では、それができないの?
──どうして、今、こんなにも彼のことを考えているの?




