山の透き
貯水池は大きかった。しかし昨夜から降り続いた雨の所為か、緑色に濁って、におっていた。
その雨も、さっき止んだ。雨でも登るつもりだった。ザックにはウインド・ブレーカーを入れてきた。他には何も持ってきていない。標高四百メートルそこそこの山だ。
貯水池を抜けると登山道に入る。急に空気が変わる。山が沈黙を破る。足元を雨水が細く流れ、さまざまに鳥が鳴く。木々の緑の向こうに灰色の梅雨空がある。あと二ヵ月もすればこの山も盛夏だ。鳥の声も木々の緑も、もっとはっきり乾くだろう。だが彼は梅雨を楽しんだ。細かい雨で、ぼやけたり滲んで見える風景を心地よく思った。
足元の、腐った落ち葉を踏みしだいて進む。耳元で唸りを上げる虫を手で追い払う。大きな虫だ。街では見かけない。だが、刺してくるわけでもない。虫の方も、人間を見るのが初めてなのだろう。
右手に沢が流れている。流れの中に飛び石が置いてあるが、滑りやすいのを知っていた。濡れるのを承知の上で、運動靴のまま沢に入る。一番深くても、踝までだ。靴に浸み込んでくる沢の水が、冷たくて気持ちが良い。
沢を渡ると、左右に道が分かれる。小さな木の看板が地面に刺さっているが、かなり昔のもので、文字が読み取れない。今日は左に折れた。いつも右のルートを進むが、途中で道が無くなっていた。
気付くと足元には、ふさふさの落ち葉が積もっていた。彼の他にここまで立ち入った人間は、かなり前になる。さっき、この山の麓にある団地を通り抜けた時、バスの回転場があったことを思い出した。運転手が朝の始発の準備をしていたが、彼を見るなり手を止めた。このルートを登る人間は、おそらくほとんどいないのだろう。先を見遣ると、木に赤い布が巻き付けてある。廃道になっていることを知らせるためのものだろう。周囲を見渡したが、木が鬱蒼と茂っていたり、何本もの倒木があったりして、まともに進めそうな道は無かった。立ち止まると、虫が集まってくる。彼は来た道を引き返すほかなかった。
しかし、引き返すと言っても、来た道を反対から見るだけで風景は全く別物に見える。沢を渡るときも、こんなに幅があっただろうかと、記憶と照らし合わせる。山道を下るときはスピードが出る。上りよりも注意が必要だ。上りで使った足場が下りでそのまま使えるわけでは決してないし、上りと違って踏ん張りが効かない。下りは下りで、新しいルートを歩いていると思った方がよかった。そう考えると新鮮だった。
まだ一度も頂上に行ったことは無かった。他のルートがあるはずだ。登山口に差し掛かった。アスファルトが照らされて白く光って見える。その中に彼は降り立った。
高校を卒業して以来、彼は一人で生計を立ててきた。何度か職は変わった。今は薬局で働いている。繁華街の外れの、小さな薬局だ。
「阿漕な商売だよ」
全く、と古田さんは老人特有のひどい猫背で、奥に引っ込んで行った。
今日もアライさんは来たのか訊いてみた。
ああ、来たよ、あいつが来ないはずないじゃないか、と古田さんは奥から返事をした。カチャカチャと食器の音がしてくる。店内に甘じょっぱい匂いがそよいでくる。今日は魚の煮付けだろうか。
「アライの野郎、一円の果てまで追いかけるからな。朝から夕方までレジ打ちしてたら、そりゃ一円や二円、違ってくるさ」
「分からないんでしょうね。一度もレジに立ったことが無いんだから。で、今回も立て替えたんですか?」
ああ、十二円ぽっちだ、十二円、と言う声と同時に、ジュッと鍋をあおる音がした。きんぴらごぼうかも知れない。いずれにしろ、賄いだ。温かい食事が供されるだけ、良い。
「十二円ばかし貰って、うれしいのかね?」
「どうなんでしょうね」
「佐藤くんはどうだか知らんが、わしは最低賃金に毛が生えたくらいしか貰っとらんよ」
「僕もそんなもんですよ」
ごま油の匂いがしてきた。きんぴらごぼうだ。
「ほんとかえ?」
本当かと訊きたいのは、彼の方だった。とっくに定年退職したとは言え、薬剤師の免許を持っている古田さんの方が良い給料を貰っているに決まっている。
それに、そもそも『アライさん』なんていない。少なくとも彼は一度も会ったことが無かった。
「それじゃあ、置いとくからな。いつものように」
そう言うと、古田さんは二階に上がっていった。彼が奥をのぞくと、テーブルに置かれていたのは、やはりきんぴらごぼうだった。時間があって、客がいないときに食べる。今は、客がいた。さっき入ってきたばかりだ。
若い女の客だ。こんな時間に、繁華街の外れの、こんな、しょぼくれた薬局に来るのは、大抵訳ありだ。二十代後半といったところか。さっきからスキン売り場をうろうろしている。急に必要になったのだろう。こっちをちらりと見た。別に、売り物だ。買ってくれるに越したことはないし、もちろん買うなとも言ってない。さぁ、好きなのを選びなよ。うちは品ぞろえが良いんだ。なんせ、こんな所にある、こんな時間でもやっている薬局なんでね。
彼は両手をカウンターのガラスケースに載せ、少しの間俯いた。笑いが込み上げてくるのをさとられないようにするためだ。売る方も売る方だが、買う方も買う方だ。わかってるさ。無くちゃ困るんだろう?
顔を上げると、いつの間にか客は目の前にいた。そして、開き直ったかのようにスキンの箱を2ケースもカウンターに置いた。彼は黙ってカネを受け取り、紙袋の中にスキンを入れた。女は、うずうずしてそうで、スキンを受け取るとすぐに出て行った。
スキンを買いに来る女ってのも、三十七、八くらいなら格好いいんだけどな、と彼は思った。そういう女を彼は知っていた。その女の人はいつも、相手に合わせたスキンを買いに来た。大きめだとか小さめだとか、厚めだとか薄めだとか。会社帰りのスーツ姿で来たときもあれば、風呂上がりのパジャマ姿のときもあった。最近は来ていない。煙草ばかり吸っていたから、肺がんで死んだのかも知れないな。
スキンを買いに来た女と入れ違いに、カンリョウが来店した。何とか省の官僚だったのだというから、カンリョウと呼ばれている。今は地元の政治家を相手にした仕事をしているらしいが、彼もよくは知らないし、知りたくもなかった。官僚は慣れた手つきでガラスの冷蔵ケースの中からいつもの栄養ドリンクを三本取った。
「ツケといてくれな」
「いいですけど、今月でもう四十本こえてますよ」
「つべこべいうなよ。俺が払わなかったことあったか」
「逆に体に悪いって言ってるんですよ」
「何を根拠に言ってるんだ。俺は元、厚生労働省だぞ」
「この前は財務省って言ってましたよ」
うるさい、と官僚は言うとネクタイを緩め、栄養ドリンクを飲み干し、「ありがとな」と言って繁華街の方へ消えていった。
おかしな奴等ばかりだと彼は思ったが、今に始まったことじゃない。彼が生まれる前からこの薬局はあったと古田さんは言っていた。
この薬局の創業者は戦後の動乱の中、ヒロポン売りで財を成したらしい。その頃からあやしい商売をしていたのだ。それと比べたら随分マシになったと古田さんは言っていた。でも、その頃の話をする度に、古田さんは懐かしそうな、遠くを見る目をした。
真夜中になった。いつものように繁華街の方から賑やかな声が聞こえてくる。今夜も喧嘩があるのだろうか。きっとある。その為にこんな時間も薬局を開いているのだ。彼は通りに出て煙草に火をつけた。ホステスを連れた酔客が通った。香水と汗と煙草のにおいが混じり合って鼻腔をついた。繁華街のにおいだ。
彼には仕事が終わった朝、散歩をするという習慣があった。薬局とアパートの往復の生活に、嫌気が差していた頃だ。毎回、ルートを変えた。長い間住んでいるはずの街なのに、知らなかった路地や建物が、歩くたびに見つかった。そういう風に、徐々に山に近づいて行った。今日も、仕事が終わったら山に登るつもりだ。彼は側溝に煙草を投げ捨てると、山影を見遣った。
店に戻り、古田さんが昼間に受け取った荷物を棚に補充にかかった。そんなに多くはない。商品の搬入は早朝がメインだ。しかし中には昼間に届く荷物もあり、古田さんはいつも補充するのを彼に任せっきりにしていた。倉庫のシャッターを開けると、カビのにおいがした。梅雨の時期はいつもこうだ。しかし薬品があるからか、虫は湧かない。今日は清涼飲料が山積みになっていた。そろそろ暑くなる。彼はグルグルと肩をまわし、筋肉をほぐした。そして腰に力を込め、一度に二ケースずつ台車に載せた。夏は、これだけで汗をかくが、この時期はまだそれほどでもないから助かる。店内へ運ぶ。段ボールをはがし、冷蔵ケースへ入れるが、落とさないように注意しなくてはならない。落として売り物にならなくなったら、その分、給料から差し引かれる。アライ・イズ・ウォッチング・ユー。古田さんがそう言っていた。本当はアライさんなど、いないのだが。
店内の掃除にうつると大体二時だ。床をモップで拭き、本棚の埃を払っていると、キャバクラのボーイの制服を着たゴンちゃんが来た。
「大変そうだね。手伝おうか」
「いい。これが仕事だ」
「じゃあ、いつものアレ、やっとくね」
そう言うとゴンちゃんは冷蔵ケースの中の清涼飲料のラベルの向きを揃え始めた。彼の方でもそれを断るでもなく、ゴンちゃんの好きにさせていた。ゴンちゃんは毎日必ず、この時間に来て、冷蔵ケースの手直しをしに来る。
「今夜も店は忙しいか」お互いに背を向けながら彼は話しかけた。ドアを開け放した通りからは、女たちの笑い声が響いてくる。
「女の子たちは忙しそうにしてる。僕はいつもの通りだよ」
「今度また飲みに行くって、マスターに伝えておいてくれ」
「いつも行く、行くって言って、全然来ないじゃない」
「今度こそ行く」
「嘘だぁ」
ゴンちゃんは一通りラベルの向きをそろえ終わると、値札を読み上げはじめた。コカ・コーラ百三十円。ジンジャーエール百三十円。スプライト百三十円。ゴンちゃんは時折、もう帰らなくちゃ、と言いながら、全ての値札を読み上げると、挨拶もせず走り去っていった。
ゴンちゃんは客からもゴンちゃんと呼ばれていて、彼の目からすれば、どの女の子よりも客から好かれていた。ゴンちゃんは客からチップをもらうと、すぐにマスターに渡していた。「マスターは僕の銀行さ。大切に預かってくれるんだ」と言っていた。客も、その光景が見たくてゴンちゃんにチップを渡しているみたいだった。
店の掃除が終わって一息ついていると、若い女がやってきた。青白く、肌つやが悪かった。それでもたっぷり化粧をしていたのが痛々しく見えた。
「睡眠薬、ちょうだい」陳列している商品には目もくれず、まっすぐカウンターに来て言った。何かを決意した目だ。時々こういう輩が来る。古田さんは常日頃から彼に、こう言っていた。とにかく刺激をするな。何かを決意した人間は、何をしでかすか分からない。
「うちでは取り扱いがありません」
「嘘。友達が、この薬局なら売ってくれるはずだ、って」
「うちでは扱ってないんですよ、お客さん」
「あんた、何か疑ってない?」
何も、と言って彼は女の手首のあたりを見ようとした。カウンターの陰に隠れて見えない。
「あんたじゃ話にならないわ。責任者を呼んでちょうだい」女は地面を足で激しく踏みつけて言った。
彼はベルを鳴らして、二階で休んでいる古田さんを呼んだ。すぐに古田さんが降りてくると、彼に、奥に引っ込んでいるように言った。彼はついでに、古田さんが作ったきんぴらごぼうを食べた。うまかった。店からは女の泣きじゃくる声と、それを宥めるような古田さんの話し声が聞こえた。構わず食べた。ドアの開閉する音がした。女が帰っていったようだ。古田さんは彼のそばを通り過ぎ、また二階へ上がっていった。あと一時間で交代だ。いい目覚ましになったろう。彼は煙草を咥えて店の外に出た。東の空が明るくなってきている。山の稜線が現れてきた。煙草に火をつけ、煙を深く吸い込んだ。仕事が終わったら、山に登ろうと思った。
*
ゴンちゃんが楽しそうに笑っている。仕事が終わると彼はゴンちゃんの勤めるキャバクラへ行った。飲むためではなかった。マスターなら別の登山ルートを知っていると思ったからだ。店に入るとマスターはカウンターで帳簿をつけ、ゴンちゃんは床掃除をしているところだった。一晩中、どんちゃん騒ぎをした後の、深い静寂が店内に満ちていた。ゴンちゃんは彼に気づくと、どうしたの、と訊いてきた。一緒に山に登らないか、と彼は誘うと、ゴンちゃんはうれしそうに笑い、すぐにマスターに登っていいか尋ねた。
「良いけどな、ゴン。手を休めるな。きちんと仕事をしてからだ」とマスターは帳簿に目を落としながら言った。ゴンちゃんは、やった、山登りだ、うれしいな、と言って大忙しで床を擦った。
「景気はどうだい」彼はカウンターに片肘を突いて訊いた。
「悪いながらに良いね」
「うちは良いながらに悪いよ」
「そう言っているうちはまだマシだ」そう言うとマスターは、あの山なら、ここから登ると良い、と店の紙ナプキンに地図を書いて渡してくれた。彼はそれを受け取ると、先に行ってるぞ、とゴンちゃんに言って店を出た。
自転車に乗って、地図を見ながら登山口をめざした。橙色の太陽が昇り始めていて、朝もやの街をぼんやりと浮かび上がらせていた。通勤通学の時間には、まだ早い。彼はこの街の、この時間を独り占めしているような気さえした。坂道に差し掛かった。自転車を走らせる。瞬く間に息が切れる。煙草の吸いすぎだ。まだ山を登る前だってのに。自転車を降りて、押して歩く。歳を取ったものだ。もう三十四だからな。彼は高校を出て以来ずっと、この薬局で働いてきたので、もう十五年以上にもなる。十五年以上も、古田さんの唱えるアライに付き合ってきたのかと思うと、自分を褒めてやりたい。よくやっているぞ、佐藤修、三十四歳。
登山口に差し掛かった。駐車場が整備されている。早朝だったが、一台、車がとまっていた。自転車を置きがてら、その車の中を見た。若い男女が顔を横にして寝ていた。カー・セックスの後、疲れてそのまま眠ってしまった、そういう風に見えた。二人とも、耳がつやつやしていた。
少しして、ゴンちゃんが息を弾ませながら自転車でやってきた。お茶とおにぎりは持ってきたかと訊いてくるので、彼は持ってきていないと答えた。
「僕、修くんの分も買ってきたよ。てっぺんで一緒に食べよう。おいしいよ」ゴンちゃんはそう言うと、身体をよじって、背負っているザックを彼に見せた。
「どんぐり、拾ってもいいかな」
「どんぐりは秋じゃないと落ちていないんだよ」
「そうなんだ。残念だなぁ」
どんぐりころころどんぶりこ、と言いながらゴンちゃんは彼のあとに続いて山を登りはじめた。
登山道は舗装され、木々の影が青くその上に延びている。互いに交差し、網目のようだ。少し登っただけで、空気が変わる。朝の鳥の鳴き声がしてくる。坂を登り続ける。息が切れてくる。次第に鳥の鳴き声よりも、自分の呼吸の音の方が聞こえてくるようになる。彼は、こうなってくると、これまでのことも、これからのことも、考えなくなってくる。ただ、一歩一歩、踏みしめる。ゴンちゃんが付いてきているかどうか、後ろも見なくなる。視界が洗われるのを感じる。思考せず、ただ視るだけになる。タオルもハンカチも、持ってこなかった。汗が滴り落ちる。舗装が途切れ、山道になると、足の裏の感覚が変わる。一歩一歩が、より意味を成してくる。足を踏み外した。声が出ないように歯を食いしばる。
「おーい。雨が降りそうだよ」後ろからゴンちゃんの声がして、彼はようやく立ち止まった。ひどいよ、どんどん一人で行っちゃうんだもん、とゴンちゃんは言いながら彼に追いつくと、ザックからお茶とおにぎりを出した。
「さっきから変な風が吹いてる。雨が降ってくるよ」そう言うとゴンちゃんは、おにぎりにかぶりついた。
カッパも何も持ってきていなかった。彼もゴンちゃんも、仕事帰りのいつもの格好だ。それでも彼は登り続けようと思った。彼は何も言わずゴンちゃんの元を離れ、山道を行った。後ろから、駄目だよ、本当に降ってきちゃうよ、とゴンちゃんが喚きながら付いてくる。そう言われるほど、彼は登りたくなってくる。呼吸もペースも何も考えず、ただめちゃくちゃに登った。頬に水滴が当たった。すぐにどしゃ降りになった。後ろを振り返ると、ゴンちゃんがザックを頭の上にかざして雨を避けていた。何か喋っているが、雨粒が木の葉っぱに当たる音で、何も聞こえない。ゴンちゃんが近づいてくる。頭の上にかざしていたザックを、彼の頭の上にかざした。
「風邪ひいちゃうよ。帰ろう」そう言って彼の手を取り、ゴンちゃんと彼は下山した。
午後六時、彼は薬局に立っていた。頭がぼうっとしていた。何故、あんな風に山を登ったのか考えていた。分からなかった。ただ、山を登っている時は、自分の中のたった一つの所に辿り着こうとするような、純粋さがあった。純粋か。どこに置き忘れてきたことか。彼は古田さんと店番を交代すると、外に出て煙草に火をつけた。向こうから踵を鳴らして水商売の女たちが出勤してくる。顔なじみの女も何人かいた。スキンだったり、時には浣腸なんかも買っていく常連さんたちだ。彼が片手を挙げて挨拶すると、彼女たちは笑顔で返事をする。彼女たちと込み入った話をしたことは無い。彼から話しかけたことも、彼女たちから話しかけられたことも無かった。挨拶も、しない時もある。彼と彼女たちのどちらか、もしくは両方が煩わしそうなときは、見ないふりをした。
店に戻ると古田さんが焼きそばを作っているところだった。台所まで行かなくても、匂いと音で分かった。
「最近、夜の喧嘩が無いようだ。消毒液も包帯も、全然売れていない」古田さんはそう言いながらフライパンにソースを入れた。匂いと音が一層激しくなった。
「平和ってことですかね」
「それじゃ困るんだよ。夜の客にはもっと喧嘩して、血を流してもらわないと」ジャッ、ジャッ、とフライパンをあおる音がする。彼はカウンターのガラスケースの中を見た。
「喧嘩が無いのなら、痛み止めは減らしてもいいですね。代わりにかゆみ止めを並べませんか。そろそろ夏ですし」
「だめだよ。痛み止めを飲んで、大いに殴り合ってもらうんだ」
「それも、アライさんの?」
「そうだ。アライの指示だ」
じゃあ仕方ありませんね、と彼は真面目くさって返事をした。痛み止めも嘘だし、アライも嘘だし、そう考えると古田さんのどこまでが本当なのかと思った。だが、すぐに、この薬局の本当のことなど誰が知りたいものかと思い、考えるのを止めた。
焼きそばを作り終えると古田さんは、じゃあ頼んだよ、と言って二階へ上がっていった。それからしばらくの間、客は来なかったので、彼は奥に引っ込んで焼きそばを食べた。冷めてもうまいように味付けされていたが、肉は入っていなかった。いいさ。賄いにケチをつけるほど、落ちぶれちゃいない。台所と食卓テーブルと冷蔵庫しかない部屋は、すぐに彼の焼きそばをすする音でいっぱいになった。テレビか、せめてラジオでも置いてくれたらと思うが、そうすると店の気配が分からなくなるから置かないのだそうだ。もっとも、彼こそが、たまに歯磨き粉やカロリー・メイトをかっぱらっていたのだが。他にかっぱらうことは彼はしなかった。他の店でもやらなかった。彼は自分の勤める店でしか、かっぱらいをしないと胸に決めていた。食べ終わると、皿を流しに下げ、店に出た。夜の空気がすっかり店内に満ちていた。棚に敷き詰められている薬の箱が、蛍光灯の光を反射して白っぽく映った。それらは夜が深まっていくにつれて、白く白くなっていった。
二週間もすると梅雨が明けた。この時期はいつも、降り続いた雨が街をすっかりと洗いつくして、新しい何かに生まれ変わらせたような気持ちに彼をさせた。その間、山には登っていなかった。山は色が濃くなり、一層黒々とし、所々ごつごつして見えた。仕事が終わって家に帰っても、山を眺める時間だけは増えた。カーテンを開け、窓ガラス越しに眺める時もあれば、ベランダに腰掛けて、山に植わっている木々の一本一本まで見ようとするときもあった。遠くの山並みがうっすらと紫色に見えることを知った時は、何か大きな発見をしたかのような気持ちになった。
薬局に出勤する前に、駅前のスポーツ用品店に寄るようになった。小さな店だったが、車を持っていない彼は、郊外の大きなスポーツ用品店に行くことはできなかった。それに、店番の娘が良かった。しつこくなく、不愛想でもなかった。美人ではないが、感じが良かった。この二週間のあいだに彼は、両手で数えるほど、この店に来ていた。
女の子が来ると「今日こそは買いに来たよ」と彼は毎回いった。だが彼の財布にはいつも数千円しか入っておらず、彼がいつも買おう買おうとしている八千円の山登り用の、つばの広い帽子を手に取っては、女の子に別の話をしていた。音楽はどんなのを聴きますか?邦楽も洋楽も同じくらい聴きます。映画はどんなのを観ますか?どれを観るかというより、どこで観るかだと思います。本は読みますか?たとえば小説とか。読みます。ただ、何の賞も獲れずに失意のうちに自殺した作家の小説ですけれど。
「もう少しだけ安くしてもらえないかな?今月はピンチなんだ」
「先月いらした時も同じことをおっしゃってましたよ」
「じゃあ、五千円にしてくれたら、今度、山登りを奢るよ」
山登りを奢る?女の子は笑いだして「分かったわ。ちょっと待ってて」と言って奥へ引っ込んでいった。その途中でも、くすくす笑っていた。奥から店の主人と女の子が話し合っている声が聞こえてきた。大きな、太い笑い声が上がった。肌が浅黒くて背の高い、ハンサムな男が出てきた。彼より五つか六つ上だろうか。落ち着いているように見えた。
「六千円で、いかがですか?」
「あいにく五千円しか持ち合わせがなくてね」彼は首をすくめていった。
「では、分割でも結構です」
「月々二千円の三回払いなら」
承知しましたと店主は言い、商品を袋に詰めた。彼が二千円を支払うと、ありがとうございます、と店主は言った。それだけだった。彼がどこに勤めているのかも、次回の支払いがいつかも訊かれなかった。彼は、自分のことが信頼されたのか、それとも損してでも良いからもう店に来てくれるなという意味なのか、分からないまま店を出た。かっぱらいは他の店では決してやらないし、自分の店でもレジの金に手を付けたことは一度もない。酒は飲むが、ギャンブルは一切やらなかった。やましい事など俺にはない。彼は来た道を引き返した。自分はこの先の商店街の外れの薬局に勤めていて、もし次の支払いに来なかったら、薬局に来てもらっても構わない。そう言おうと思った。角を曲がって店のあった場所に出た。シャッターが降りていた。
*
へぇ、そんなにもらえるんだ、すごいなぁ。ゴンちゃんが後ろで官僚の話に、そう相槌を打っている。一人紹介するだけで?へぇ。二人だと、そんなにも?わぁ。彼は登りながら少し後ろを振り返った。大丈夫だ。ゴンちゃんのカネの事はマスターが全て管理している。入ってくるのも、出ていくのも。それにしても官僚の奴、また怪しい仕事に手を出したな。今月は早めに官僚のツケを回収することにしよう。元々、彼にも官僚がどんな仕事をしているのか、はっきりとは知らなかった。ただ政治家の秘書を相手にしているとしか。そう考えると、彼のまわりではゴンちゃん以外、何をしているのかはっきりとしない人間ばかりだった。太陽の光は朝日から昼の光に変わりつつある。汗が吹き出してくる。傍から見たら、俺だって。山は賑わいを見せている。夏だ。すでに下山してくる何人もの登山客と彼らはすれ違った。年寄がほとんどで、皆、丁寧にあいさつしてきた。彼もあいさつを返した。官僚だけはあいさつもせず、ゴンちゃんにマルチ商法かねずみ講のような話をし続けていた。僕にも官僚さんみたいに友達がいっぱいいたら、大金持ちになっていたかも知れないな、とゴンちゃんは言った。
「だったら、お店の女の子たちを紹介しなよ。たくさんいるだろう?」
「だめだよ、みんな怖い人ばかりだもん。お店の裏ではいつも叱られてばかりだよ」
「いい儲け話なんだぜ。誰も怒りやしないさ。ちょっと耳元で囁くだけなんだ」
こうやって、といって官僚はゴンちゃんの耳を手で包んだ。
「ひゃあ、くすぐったい。止めてよ、官僚さん」
「いい話があるんです、このネックレスを人に貸すだけです、って言うだけさ」
くすぐったい、くすぐったい、とゴンちゃんは言うと、耳を包む官僚の手を振り払って、急いで山を下りて行った。官僚は彼の方を向いたが、すぐに向き直ってゴンちゃんの後を追って行った。
彼はザックから帽子を取り出し、被った。帽子のつばで光が遮られて、瞳孔が開くのが分かった。道の上には木々の影と、その透き間を縫うように光がゆらゆらと踊っている。彼はザックを背負い直し、また登り始めた。思考は、よどみなく彼の脳裡を流れていく。田舎で縫製工場を営んでいた彼の父親は、酒を飲むといつも彼を殴りつけた。母親は母親で、父の浮気相手からいたずら電話がかかってくる度にヒステリーを起こし、カーテンを引き裂いたり、食器という食器を壊して回った。それでも大きな家に住み、贅沢な暮らしをしているお前は幸せなんだ、と父も母も事あるごとに彼に言った。生傷が絶えなかった。彼を心配する人たちがいた。ちょっと転んだだけですと、毎回彼は同じ嘘をつき続けた。次第に誰も心配しなくなった。誰も彼と関わりを持つ人がいなくなると、彼は本当に自分が存在しているのか分からなくなった。父親に殴られても、母親にヒステリーを起こされても、それらによる痛みすらも偽物のように彼は感じていた。高校を卒業すると、彼は行方をくらませた。大学進学のための入学金だと嘘を言って、そのカネを握りしめて都会に出た。よくある話だ、と彼は思った。顔を上げると、少し登ったところに東屋があるのが見えた。近づくと、そこは中腹の展望台になっていて、眼下に街が広がっている。四方八方に伸びている道路を、まるで養分を運ぶみたいに米粒ほどの車が、至るところで走っている。建物は真夏の日の光を受け、どれも白っぽく見えた。煙草が吸いたくなったが、山火事に注意との看板を見て、やめた。下で吸おうと思い、下山した。
数日後、いつものように薬局に出勤すると、古田さんに店の倉庫へ連れて行かれた。
「官僚にな、きつく言ってやったんだよ。妙な商売に手を出す前に、きちんとうちのツケを払えってな。そうしたら、これが届いたのさ」倉庫には大きなクーラーボックスが置かれていた。
「何に使うんですか」
「何にって、これに湯を張って風呂にするわけないだろうよ。商売さ」
古田さんは彼の肩をポンポンと叩いて、「夏祭りでジュースを売る。官僚が商店街に話をつけた」といった。官僚のツケを回収することが目的ではないとも言った。この薬局の存在を商店街に認めさせる良い機会になる、と。
彼にとっては、どうでも良い事だった。この薬局が夜の仕事をする人に必要とされながら、どれだけ虐げられてきたか、そんな歴史はどうでも良かった。
「アライにも伝えた。彼も喜んでいたよ」古田さんはそう言うと、賄いを作るために台所へ引っ込んで行った。彼は店番に立ちながら、夏祭りに出店する段取りを考えていた。古田さんでは、とてもじゃないがあのクーラーボックスは大きすぎて扱えないだろう。それに運ぶための車も必要だ。ゴンちゃんに頼もう。それにマスターに訊けば車も貸してくれるかも知れない。
古田さんが二階へ上がっていく音がした。彼が台所へ行くと、カレーが作ってあった。いくらかき混ぜても、肉は入っていなかった。
午前二時、店内の掃除を終え外に出て一服していると、ゴンちゃんがやって来た。いつもの、やっとくね、といって冷蔵ケースの清涼飲料のラベルを表向きにしていった。帰り際、ゴンちゃんに、後で店に行く、と言った。また山登りかい?とゴンちゃんは訊いてきた。
「ゴンちゃん、最近お祭りにはいつ行った」
「いつかな、養護学校にいる時に、先生に連れて行ってもらったよ」立ち止まって宙を眺めながら、面白かったなぁ、とゴンちゃんはニコニコした。
彼は、今度の夏祭りに一緒に出店をやらないか、ジュースを売ろうと思うんだ、と言った。いつもジュースのラベルをそろえてもらっているからな、そう付け加えると、ゴンちゃんは、
「本当?僕で良いの?」
と言うので、彼は深くうなずいた。マスターに訊かなくちゃ、マスターに訊かなくちゃ、とそわそわするので、彼は「仕事が終わったら店に行って、マスターに頼んでみるよ」と言ってゴンちゃんの肩をポンと叩いた。すると、それを合図のように、ゴンちゃんは走り去って行った。
祭り、か。彼自身、祭りに参加するのは初めてだったし、祭りを観に行った記憶も曖昧だった。祭りと名がつくもので、最後に観たのは、高校の時の体育祭くらいのものだ。それも、女子が男子の制服を借りて応援している姿を、傍目で見ていたくらいだ。そんなことをして何が良いのか理解できなかった。
ゴンちゃんは良い。ゴンちゃんが楽しむ分には、良い。ゴンちゃんは清く正しい。だが、俺は。煙草を足元に捨て、サンダルの裏で火を揉み消すと、彼は店の中へ戻った。
夜が明けはじめると、彼は薬局からゴンちゃんのキャバクラまで歩いた。途中、泥酔し道の真ん中で眠ってしまっている連中に声を掛け、車に轢かれない所まで肩を貸してやった。一人につき千円、彼らの財布から拝借した。夏場、これは良い仕事になった。冬になると泥酔客は、めっきりいなくなってしまう。今日は四千円稼いだ。
キャバクラに入ると、マスターはカウンターで帳簿を付けていた。ゴンちゃんはモップで床を掃除していた。朝日が窓から入って、ゴンちゃんの背中を照らしている。まるで舞台のスポットライトを浴びているみたいだった。
祭りは駅前の目抜き通りを歩行者天国にして行われた。彼が陣取った場所は、その一番外れだったが、それでもジュースを買い求める客は多かった。ゴンちゃんが一本一本ラベルを表向きにして客に渡し、彼は会計をした。神輿が通り過ぎて祭りが終わる頃には、用意してきたジュースのほとんどが無くなった。観客たちが思い思いに散りはじめると、出店は次々と明かりを落とした。夜が冴えた。やはり俺にはこっちの方が良い。煙草を咥えて店仕舞いをはじめた。
「まだ、やってますか?」
後ろから女の声が掛かった。振り返ると、スポーツ用品店の店番の女の子だった。
これしか残ってないんだ、それでも良かったら、と彼はいってジンジャー・エールを渡した。
「お代はいいよ。あと、これ」彼は手提げ金庫の中から二千円を出して女の子に渡した。
「あんた、これはまずいわよ。お店のお金でしょう?」
「元々儲ける気で出店をやったわけじゃないから、いいんだ。帽子のローンの今月分だから、取っておいてよ」
「あたし、そんなことの為に来たんじゃないわ」女の子の、化粧っ気のない顔が上気していくのがわかった。あんたのせいで、このお祭りに出店できなかった、毎年あたしの店がこの場所に出店してきたの。
「店長さんには話がついているはずだよ」彼は煙草の煙を胸いっぱいに吸い込むと、言った。うちのは薬局の歴史とこの商店街の存続に関わることなんだ、お嬢ちゃんの出る幕じゃない。そう言い終わると、彼は煙を足元に向かって長く吐いた。
「あんた、名前は?」女の子は腰に両手をあてていった。細くはないが、決して太くない腰だ。
「人に名前を訊くなら、まず自分からだろう」
「サキよ」
「俺はゴンだ」
それは僕だよ、とゴンちゃんが向こうで言った。女の子が彼を睨む。修だ、と彼は言い直した。サキはゴンちゃんの方を一瞥し、手に持っていたジンジャー・エールを放った。はっ、ほっ、といって何とかゴンちゃんは落とさず受け取った。振り返るとサキは、祭りから帰っていく客に紛れていなくなっていた。夜の空気がくるぶしまで満ちていた。
次の日、薬局に出勤すると、店の前に白いハイエースが停まっていた。ガラス越しに社内を覗いても、誰もいなかった。何かの納入業者だろうかと思って店内に入ると、カウンターを挟んで古田さんと話す大柄な男がいた。太い笑い声を出していた。後ろ姿で、駅前のスポーツ用品店の店長だとわかった。修くん、千葉さんだ、と古田さんが紹介した。千葉が振り返って、スポーツマンらしい白い歯を見せた。彼は、この間はどうも、と会釈した。なんだ、顔見知りか、と古田さんが言った。彼はただ頷いた。ちょうど良かったと古田さんが言った。あの、といって顎で倉庫の方を指すと、クーラーボックスはもともと千葉さんのもので、それを官僚が又貸ししたのだ、と古田さんは続けた。
「官僚の奴、自分で返しに行けばいいものを。本当に気の利かない野郎だ」
「かえって良かったですよ。古田さんとお話が出来たんですから」千葉は静かな口調でそう言った。
「そう言ってもらえると、世話を焼いた甲斐がある。あの店なら、その女の子も何とかなるだろうよ」
古田さんはそう言って、
「な、修くん。ゴンちゃんの店なら、よっぽど大丈夫だろう」と、彼に念を押させるように訊いてきた。千葉が太い声で嗤った。
サキに水商売をさせようというのか。
千葉も古田さんもニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。千葉から古田さんにいくらか紹介料が入るのだろう。そして千葉はゴンちゃんの店でサキが働いた分のいくらか、もしくは大半をピン撥ねする。そう彼は勘ぐった。ゴンちゃんだって実質的にはマスターにピン撥ねされているじゃないか。
彼は訊いてみた。
「アライさんには話が通っているんですか」
それを聞くと、古田さんも千葉も一瞬、あっけに取られてお互いの顔を見合わせた。そしてヒィヒィと嗤い出し、古田さんは
「アライがやってきたことと同じことをするだけだ。問題あるか」といった。それを聞いて千葉はドカンと嗤った。アライと同じことをするんだ、良いに決まっているじゃないか、アライ・イズ・ウォッチング・ユーだ、と。
それから数か月後、彼の薬局にサキがスキンを買いに来た。常連がまた一人増えた。
仕事が終わったら、今日も山に登る。まだ一度も頂上まで行ったことは無い。