い話「居間にいる」
昔から母とは折り合いが悪かった。
母はとにかくズボラで、私が幼い頃から家事や育児をするでも働きに出るでもなく、居間でダラダラとテレビを見ているような人だった。
母との良かった思い出なんて一つもない。
「いつかぶん殴ってやる」と思いながらも、実行は出来ず。
高校卒業のタイミングで母と大喧嘩した私は、勢いのまま家を飛び出し──以後十数年、一度も実家に寄り付く事はしなかった。
別に不仲では無かった父とはたまに連絡を取り合っていたのだが、今朝になって母の訃報が知らされた。
病で長らく入院していたらしい。
全然知らなかったし興味も無かった。
とはいえ、流石に実の娘が葬式に出ない訳にはいかない。
私は渋々と十数年ぶりの実家に帰省する事にした。
久しぶりに会った父は随分と苦労したのだろう──白髪が目立ち、何より小さく見えた。
だから昔から「早く別れれば良い」と言っていたのに。
「この家、父さんだけじゃ広過ぎない?」
まだ働いている父一人では維持が大変だろうとやんわり伝えるも、返ってきた答えはNOだった。
「でも、お前や母さんとの思い出が残ってるからなぁ~」
本人がそう言うなら仕方ない。
でも私からすれば、あんな怠惰を極めた女のどこが良いのか全く理解が出来なかった。
むしろ思い出すだけで苛々する位だ。
この家はまだ母の匂いが強く残っているようで非常に気分が悪い。
特に居間。
出掛けもしないのにいつもチラシを広げていたこのテーブルも。
食事も作らず居眠りしてばかりだったこの椅子も。
観ない時でも無駄に付けっぱなしだったこのテレビも。
全然洗わない出しっぱなしのブランケットも。
自分専用のお菓子入れも。
この母のテリトリーにある何もかもが気に入らない。
だがそれも葬儀が終わるまでの辛抱である。
私の部屋は母の物置小屋にされていた為、その日は客間に泊まる事となった。
死んでからも私を苛立たせるのかと思いながら、私は湿気た布団に潜り込んだ。
どれ位時間が経ったのか──
夜中に急に目が覚めてしまい、私はトイレに行こうと起き上がった。
カッチコッチと時計の秒針がよく聞こえる。
なぜか少し肌寒い。
さっさと用をすませて早く寝ようと廊下に出た時だった。
「……え?」
居間の扉から、僅かに光が漏れていた。
蛍光灯の明るさではない。
まるで暗い部屋の中でテレビだけがついているような──
ふと在りし日の母の姿を思い出してしまい、慌てて嫌な考えを払拭する。
──どうせ父がテレビを消し忘れたのだろう。
疲れていただろうし、あり得ない話ではない。
とにかくテレビを消さねばと、私は居間の扉を静かに開けた。
「……!?」
ザーーーーーーーーーーーーーーッ
テレビが砂嵐の画面を延々と映し出している。
その画面をじっと見つめる後ろ姿があった。
──母だ。
何年経とうとも見間違う筈もない、私の最も嫌いな母の後ろ姿だ。
ザーーーーーーーーーーーーーーッ
代わり映えのない砂嵐を、母は微動だにせず見つめ続けている。
「は、ははっ。死んでまでテレビ見てたいんだ?」
ザーーーーーーーーーーーーーーッ
返事はない。
反応もない。
「そうやって、いつも無視してたよね。観てない時にテレビ消したら『これから観るのに』ってキレてきてさ」
ザーーーーーーーーーーーーーーッ
十数年前に置いてきた筈の怒りがグラグラと煮えたぎる。
何で、死んでからも私の前に出てくるんだ。
何で、この期に及んで私を不快にさせるんだ。
「何とか言えよ!」
叫ぶと同時に、近くに置いてあった来客用の大きな灰皿を掴んでいた。
──いつかぶん殴ってやる。
そのいつかはもう来ないと思っていたのに。
気付けば私は母の脳天に灰皿を全力で振り下ろしていた。
ゴッと響く重い音と、こちらの手が痛む程の手応えを感じる。
それでも母は微動だにせず、ただジッとテレビを見つめているだけだった。
「……はぁ、はぁ……」
もういい。
無駄だ。
この女には、何を言ってもやっても通じないのだろう。
私はモヤモヤを抱えたまま、居間を後にした。
テレビを消さないでおいてやったのは、ただの気まぐれである。
その後、葬儀もつつがなく終え、私はいつもの日常に戻った。
だがその僅か一ヶ月後。
父から「やはり引っ越す」との連絡が届いたのだから驚いた。
流石に「広い家に一人は寂しかったか」などとは聞けない。
無難に「やはり維持が大変だったか」と聞けば、父は弱々しく口を開いた。
「実は……毎晩居間に母さんが来るんだ」
まだ居間にいるのか、あの女。
そう腹立たしく思っていると、父は震える声でこう続けた。
「それも何故か頭から沢山、沢山血を流して……それなのにずーっとテレビを見続けているんだ」
この話をしている今も、母はあの居間にいるのだろうか。
泣きそうな声で「信じて貰えない話だろうけど、流石に怖いんだ」と告げる父に、私は何も言えなかった。