仲直りの糸
「もしもし、こちら池田楓花です。聞こえますか」
「こちら川村菜帆です。ばっちりです」
楓花と菜帆は、紙コップから耳を外して窓越しに顔を見合わせると、きゃはっと笑った。
その日の三年一組の授業は「音の伝わり方」で、紙コップを使った糸電話の実験をした。キッズスマホを持っている楓花は、こんなのが電話になるの? と最初信じられなかったが、やってみるとちゃんと聞こえる。糸をぴんと張ると、相手の声が紙コップを通してびんびん耳に飛び込んでくる。
楓花と菜帆は、それぞれ一戸建てに住んでいて家が隣同士だ。二人の部屋は二階にあって窓が向かい合っている。間が一メートルちょっとしかないから、窓を開ければ普通に話せるけれど、面白そうだから糸電話を使ってみようということになったのだ。
楓花は、糸電話で菜帆と何を話そうかなぁと考えた。二人で学校からしゃべりながら帰ってきて、さっき玄関口で別れたところだ。菜帆とならいくらでも話すことはあるけど、糸電話で話すのなら何か特別なことがいい。
「菜帆、あたし今日、すごく悪いことしてん」
「どうしたん?」
「誰にも言わへんって約束する?」
「する。なによ、言ってみぃ」
「給食の玉ねぎの甘酢あんかけな、どうしても食べられへんかったから、こっそりトイレに捨ててん」
「なんや、そんなことか。言うてくれたら、あたしが楓花の分食べたのに」
楓花は好き嫌いが多くて、特に玉ねぎが嫌いだ。お母さんには、ハンバーグも玉ねぎなしで作ってもらう。菜帆は好き嫌いがないので、時々楓花の給食のおかずを手伝ってくれる。そのせいかどうか、楓花はクラスで一番ちびで、菜帆は一番のっぽだ。
「菜帆はなんか秘密の話ってないの?」
「え~、ひみつぅ?」
菜帆はしばらく考えていた。菜帆はのんびり屋で、楓花は、そのゆったりとしたところがいいなと思っている。
「なんやろ~」
「菜帆が好きな子のこととか?」
「好きな子って男子のこと? なんか男子ってみんなうるさくって、好きとかそういうふうに見られへんわ。あっ、そうや」
菜帆は一人で思い出し笑いをした。
「カズのズボンのおしりんとこが破れとってん。カズ、気付いてへんみたいで、あたし言おうかどうしようか迷ってんけど、そっと教えてあげた。そしたら大慌てでトイレに飛んでいったわ」
カズはクラスのお調子者だ。トラブルを笑いに変える天才だけど、慌てたからかズボンの破れは笑いにする余裕がなかったらしい。楓花は、おしりを押さえてトイレに飛び込むカズを想像して、菜帆と二人で笑い転げた。
その日以来、楓花と菜帆は時々窓越しに糸電話を使うようになった。クラスもいっしょ、家も隣の菜帆とは、話そうと思えばいつでも話せるけれど、何か特別な話をしたい時は糸電話を使う。窓越しに菜帆と糸電話で話すと、楓花はなぜかいつもより素直になれて、すらすらと言葉が出るのだ。
九月半ばのプールの授業後、楓花は着替えをもたもたしていて、次の授業までに身支度が間にあわなかった。びしょびしょの頭のまま席につき、タオルで髪を拭いていると、隣の貴弘が嫌そうな顔をした。
「おい、水飛ばすなよ、不潔やろ」
楓花はびっくりして、髪を拭く手が止まった。確かに、急がなきゃと思ってバタバタしていたけど、水を飛ばしたつもりはないし、不潔呼ばわりされる覚えもない。だいたい貴弘は、授業中にみんなといっしょに楓花が笑っただけで、
「なんやねん、お前は!」
などと言うのだ。何かというと楓花のやることに文句をつける貴弘のせいで、楓花は息も自由にできない気がしていた。
どよんとした気分のまま、次の授業が始まる。先生が「予告通り算数のテストするぞー」と言って、テスト用紙を最前列の人に配った。前の席のカズが用紙を渡そうとする。カズがプリントを回すときは、いつも何かしらのいたずらを入れてくる。右から渡すふりをして左から渡してみたり、自分の分を取り忘れたと言って、楓花に渡したプリントの中から大急ぎで一枚取り戻したり。この日、カズはゴリラ顔を作り、「ウホッ」と言いながら楓花に算数のテスト用紙を渡した。楓花は思わず吹き出し、とっさに口をふさいだ。また貴弘に文句を言われると思ったからだ。案の定、貴弘が「おいっ」と言いかけたが、その貴弘に向けてカズは、眉をあげて目を細めひょっとこ口を作って見せた。貴弘も吹き出し、楓花への攻撃はそこで止まった。
楓花は「カズ、ありがとう!」と心の中で手を合わせた。貴弘の隣の席は本当に嫌だが、カズのおかげでずいぶん救われている。早く席替えしてほしいけれど、カズとの関わりがなくなるのはちょっと寂しい。
その日のうちに、算数のテストが返ってきた。百点! 楓花が初めてとった満点だ。うれしくて、その日は菜帆に糸電話をしようと誘った。家に帰ると、おやつを自分の部屋に持って上がり、菜帆が向かいの窓から顔を出すのを待つ。ドーナツを食べながら向かいの窓を見ていると、菜帆がクッキーを片手に姿を見せた。楓花は待ちかねたように菜帆が使う紙コップに重りを入れて投げ渡すと、自分の紙コップに口に当ててしゃべり始めた。貴弘の意地悪のこと、それを救ってくれたカズのこと、そして初めてとった百点のテスト。
この日、楓花は紙コップに口を当てっぱなしで、菜帆はほとんど聞き役だった。菜帆の「ふん、ふん」「へぇ~」「そうなん!」という相槌が気持ちよく耳に響き、楓花はべらべらとしゃべり続けた。楓花が一通り話し終わったところで、菜帆は言った。
「なぁ、楓花ってカズのこと好きなんとちがう?」
「えぇっ、それはないわ。カズは面白いから話すのは楽しいけど、好きっていうのとはちがうと思う」
「ふうん」
その晩、楓花は耳元に響いた菜帆の声「カズが好き」を思い返した。
菜帆からすると、あたしはカズが好きみたいに見えるのかもしれないけど、そんなんじゃないと思う。でも自分の気持ちって、自分のものなのによくわかんない。
糸電話をした三日後の朝、菜帆といっしょに教室に入った楓花は、後ろのホワイトボードを見て体が固まった。でかでかと相合傘の絵があって、傘の下に楓花とカズの名前があったからだ。
「なにこれ!」
楓花は怒りながら落書きを消した。周りの男子たちは「お熱いですね~」とひやかしてくる。しばらくして登校してきたカズは、男子から話を聞いて「うへ~」と変な声を出した。
「お、おれが池田と? いや、ありえへん、ありえへん」
顔の前で手をひらひらと振るカズに、 楓花も「あたしもカズとなんてありえへんし」と言ってやった。
こんないたずらするのって、いったい誰よ? そもそも、あたしがカズと仲いいって思ってる人がこのクラスにいるわけ?
そう考えて、はっとした。この前菜帆に、カズが助けてくれた話をしたところだ。隣の菜帆を見ると、気のせいか少し元気がないように見える。そういえば、今朝は一緒に登校しながら、いつもより口数が少ないように感じた。
「菜帆、もしかして、あたしとカズのこと、誰かになんか言うた?」
菜帆はびっくりした顔で楓花を見返した。
「あたしが? なんでそんなこと言うんよ」
「だって、この前糸電話で、カズのこと菜帆に聞いてもらったもん」
「あたしは何にも言ってへん」
菜帆は悲しそうに顔を背けて自分の席に行ってしまい、楓花もかっかとして、自分の席についた。
その日は落書きのせいで変にカズを意識してしまった。カズの方も同じだったようで、いつもならカズからプリントをもらうときに何かしらのちょっかいがあるのに、今日は普通に黙って手渡されただけだった。楓花にとって、息苦しい今の席での楽しみがなくなって、つまらない気分だ。
休み時間も帰り道もいつもいっしょだった菜帆だけど、今日はお互いに避けあっている感じで、楓花は一人ぼっちだった。隣の貴弘は楓花とカズに「お前ら、ラブラブやったんか」とねちねち言ってくるし、そんなときに限って、給食は大嫌いな玉ねぎが入った八宝菜だ。菜帆に手伝ってもらうわけにもいかなくて、楓花は吐きそうになりながら、八宝菜を牛乳といっしょに飲み込んだ。
菜帆と一緒に登校しなくなってから二週間がたった。お母さんには「最近、菜帆ちゃんと一緒に学校に行ってへんの」と聞かれて、答えられなかった。
よく考えてみれば、菜帆は楓花の秘密の話をばらすなんてことはしない。最近クラスのみんなは人を冷やかすのが好きで、〇〇と××がラブ、なんてしょっちゅう話題に上る。きっと楓花とカズのことだって、誰かが冗談半分で適当にからかっただけだ。
楓花は何度か謝ろうとした。明日こそ、明日こそ、と思って学校に行く。チャンスを見つけて菜帆の近くに行って「ごめん!」って一言いえば、多分それで元に戻れるはずなのに。カズとのくだらない噂はあっというまに消えたけど、楓花と菜帆の仲だけは元通りにならない。
今日もごめんが言えなかった、と楓花はため息をついた。机の上に置いた糸電話の紙コップを眺める。初めて糸電話をしたときは、学校から持って帰った真っ白い紙コップを使ったけれど、何回かやるうちに「もっとかわいい絵が描いてあるのでやろう」ということになって、それぞれにかわいい紙コップをお母さんに買ってもらった。楓花の手元にあるのは、動物のイラストが入った紙コップ。楓花が使うのはネズミの絵で、菜帆はゾウの絵のものを使う。菜帆が持っているのは、大きなハート模様がプリントされたもので、ピンク色が楓花用で、水色が菜帆用。糸電話をしようと誘った方が、紙コップに重りを付けて窓越しに、えいっと投げ渡す。
菜帆はどう思ってるんやろう。今みたいなときこそ、菜帆と糸電話がしたい。
糸電話は、大きな声のときはびりびりと糸が鳴り、ひそひそ声だと耳がこそばゆくなる。糸を伝って相手の息遣いも届くから、そのときの気持ちがわかりやすいのだ。楓花は、ピタッと閉じた菜帆の部屋のカーテンを見て、机の上の紙コップを指でぴんっと弾いた。
「菜帆ちゃんの家、急に引っ越しが決まったらしいよ」
お母さんから話を聞いて、楓花は慌てた。今日、菜帆は学校を休んだ。隣の家だから、昨日からいつもとちがう気配は感じていて、知らない人が菜帆の家に出たり入ったりしているのは知っていた。
「転校先が二学期制でちょうど今日から始まるから、菜帆ちゃんは一足先に新しい学校の方に移ったらしいよ。荷物は、菜帆ちゃんのお母さんが後からまとめて送るんやって」
楓花は自分の部屋に駆けあがり、窓を開けて菜帆の部屋の窓を見つめた。ギンガムチェックのカーテンを背にして、窓ガラスにメモが貼られていた。
「ポスト見て」
楓花は今度は階段を駆け下り、玄関横のポストに飛びついた。大急ぎで開けると、中にハート模様のピンクの紙コップが入っていて、その中に小さなメモが折り込まれていた。
「糸電話、楽しかった。引っ越しするかもって知った日、楓花に言おうと思ったけど、けんかして言われへんかった。新しい連絡先、わかったら伝えます」
楓花はハート模様の紙コップを見た。ピンクのコップと水色のコップは、赤い糸で結ばれていた。
(了)