汚れっちまった悲しみに
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
中原中也 『汚れっちまった悲しみに』
ユーミンがこの詩を詠んで思うかもしれません。
リフレインが叫んでいると、と。
しかし、たとえ繰り返され、雨ざらしや野ざらしになったとしても、汚れっちまったり、汚れてしまったりしない場合があります。
悲しいとき・・・・・・、夕日が沈んだとき・・・・・・・
悲しいとき・・・・・・、夕日が沈んだとき・・・・・・・
悲しいとき・・・・・・、夕日が沈んだとき・・・・・・・
この夕日は、沈んでも、目を閉じても、脳裏に映発します。いつもここから。このリフレインの端緒はどこでしょうか?僕にはそれが解ります。昭和にわたったひとつの黙約です。
「ナポリタンがアンデス風であるならば、いつもの場所は南風です」
背番号のないエースがアルプスの隣で自問自答していますね。
文学は川のようなものです。川のどの部分がそれに値すると言うことはできません。なぜなら、絶え間なく流動するからです。祖父において、川は大衆を流れました。父において、それは純になりました。僕において、中間にならなくて何になるでしょうか?
いつものここ、そこは三丁目、この夕日は、三丁目の夕日です。その空は洗い立ての平八の背中のように広く夢があります。
何故、神風が吹かなかったですか?何故、日本は太平洋戦争に負けたのですか?
それは江田島が十人いなかったからです。日本に必要だったのは、一隻の戦艦大和よりも、十人の江田島でした。でも、江田島は一人だけです。一人だけでも江田島がいたということは、たとしえようもないことです。持ってゆく場のない感情や思考、不条理の叫び、どうにもならないザイン、そういったものは全て、大地のような優しさで受け止めてくれる江田島の腹に正拳突きすればいいのですから。
汚れっちまった悲しみに、セピア色の空は、私が男塾塾長、江田島平八であーる!
「何を考えているんだ?」
とRがいつもの気概のある口調できいた。
僕は、下唇を噛んでいた。アルプスは少しずつ熱を帯びてきた。喚声がわいて、バッタが空を切り、白球がミットを箆深く射る刹那の乾いた荘重な音がひびいた。
『愛するが故に見守る愛もある』
と僕はニッポンア・ニッポンという名の美しい鳥の墓碑銘に刻んだ台詞をタッチした。