預言の聖女は侍女に仮面を剥がされた模様④
物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもお馬鹿さんですよ。
(by:モリエール 「女学者」)
ヴィクトリアは平然とした表情で、予備のカップに自分の分の薬草茶を入れて、立ったまま遠慮なく口元に運びながら、
「冗談です。さすがにおかしなものが混入されていないか、きちんと精査し、厳選した上でお出ししているので問題はございません」
むせ返っているローレンス王太子相手に、いつもの淡々とした眼差しと口調とでもって言い含める。
「――どうぞ。これ以上、テーブルクロスにシミを作られては洗濯の手間が大変ですので」
ついでのようにローレンス王太子の汚れた口元を拭う白のハンカチを差し出すのだった。
「お前のせいだろう、お前の!」
かつがれた……と知って、憮然とした態度で口元を拭うローレンス王太子。
なお、元来手づかみで食事をするのが普通であり、カトラリーにナイフはあってもフォークはごく最近まで存在しなかったため、テーブルクロスで汚れた手や口元を拭うのがマナーとされていた時代が長かったため(いまはナプキンが添えられている)、パーティなどにおいてはあまり汚れに頓着しない――特に王侯貴族の場合は純白のテーブルクロスと同一生地、デザインのナプキンともども使い捨てにする(純白のテーブルクロスを貴族以外が使うのは禁止されている)――のが常であった。
さすがに日常使いのテーブルクロスは、よほど汚れが落ちない限りは洗って使ってはいるものの、実際に仕事をするのは洗濯メイドの仕事となる。
「まあ今回の薬草茶は冗談ですが、常識や医学なんて殿下の言動並みに朝令暮改でコロコロと変化をいたしますので、何が正解かは神ならぬ身には絶対確実とは明言できませんね」
ついでのように付け加えるヴィクトリア。
「ヴィクトリアの口から神とか出ると、質の悪い冗談か冒涜にしか聞こえんな」
思わず半眼でそう呟くローレンス王太子。
「そんなことはありません、私は敬虔な真聖堂教会の信徒です(名目上は)。冒涜というなら、世の中には神の聖名において誓った婚姻関係を、勝手に破棄するような破廉恥漢もいるのですから、それこそ冒涜であり涜神ではないかと愚考するしだいですね」
そう臆面もなく言い放たれた、身に覚えがありまくりのローレンス王太子は、再度きまり悪げにハンカチで口元を拭った。
「まあ、それはともかく、水の話が出ましたのでついでですが――」
それから入浴に関する因習に関連して、アドゥース人は入浴を好んでおり、体を清潔に保つことは社会的な義務とされているのに対し、フォルトゥム王国とその周辺国には、古くから『皮膚に水が浸透することで病毒の影響を受けやすくなる』『毛穴から体液や活力が出て行き、代わりに病毒が入る』などという迷信が起因になり、『入浴は健康に悪い』と最近まで思われていた……という俗説について、説明をするヴィクトリア。
「まあ要するに水質と気候の違いですね。フォルトゥム王国周辺は気候が乾燥している上に、一般的には硬質の水ですから、毎日体をゴシゴシ洗うと、肌はカサカサ、髪はギシギシになってしまいます。なので、体を洗う回数は少ないほうがいい、ましてや湯に浸かる必要はないというのが、一般的な感覚でしたから」
なお、現在はフォルトゥム王国でも『温水は体内の循環を促進し、病気の治療に役立つ』という概念が広まり、温水浴が推奨されている(もっとも下水の類は無造作に道路に流され、地面に吸収されるか、側溝を流れ流れて市民の生活用水であるフルフィウス川へと垂れ流しとなるのであるが……)。
「硬水? 確か口当たりが重くて癖の強い水だろう? 普段飲んでいる茶は結構口当たりがいいと思っていたが……」
気を取り直したローレンス王太子が、ティーカップを片手に首を捻る。
途端、嘆息をするヴィクトリア。
「……いまさら言うまでもありませんが、王宮には二百年前のベルナルディタ王妃の発案で、ここより二十リーギュ(1リーギュ≒4㎞)離れたプルポンス湖から、延々と水路や水道橋を通して水道を流しておりますので、常に豊富で清潔な水があふれています。一般庶民のような飲んだら腹を壊すような代物をお出しするわけはないでしょう」
ちなみに一般庶民は王都の中心を流れる大河フルフィウス川の水か、共同井戸を生活用水に活用しているが、前記の通りフルフィウス川は下水の代わりとしても垂れ流しにされているので、あまり清潔とは言えない水を使わざるを得ないのが実情であった。
「ついでに専用の水洗トイレ(ビデ付き)と、下水道も完備されておりますから。衛生的にも一般市民とは隔絶していますし」
「ほぉー」
いまさら初めて聞いたような顔で祖先の偉業というか、庶民をなおざりにした搾取の所業を聞き流し、その産物である淡麗な軟水で煎れられた薬草茶を口に運ぶローレンス王太子。
生まれた時からこの生活が当然なので、これといって感慨はない様子であった。
なお、こうしてローレンス王太子が口にする水は、水道の水を単純に沸騰させたものではなく、その日の水の状態や当人の体調、気温、そして飲み物の種類に応じて、ヴィクトリアが王宮内にある井戸水やら何やらをブレンドさせて、ベストのもの……と判断したものが使われているのが常であった。
そういった裏事情をわざわざ明かして、自分の手柄のように誇ることのないヴィクトリア。
『王宮に仕える使用人たるもの、ただ十全の仕事をすればいいというものではありません。十二分の満足を得られてこそその資格を持てるのです。そして、決して苦労している素振りを見せてはいけません。そのため必要なのは常日頃からの努力しかないのです』
壁際で一連の様子を眺めていたエミリエンヌは、なるほどこれが王家に仕える専用侍女の嗜みなのか、と密かに感嘆し同時に、
『――まあ、もっともローレンス殿下は案外バカ舌ですので意味はありませんが、世の中わかる人間はわかるものですので、ちょうどいい練習台だと思って、今後は殿下のお茶に関してもおいおい下準備を手伝ってもらいます』
割と身も蓋もない内情をぶちまけられたのを思い出して、戦慄するのだった。
「それと聞くところでは市内は下水道がろくにないので、汚物を避けるためにハイヒールを着用しないと歩けないとのことですから、私としましては公衆衛生の問題もありますので、王都における下水道の整備は急務かと存じ上げます」
「なるほどなぁ……。まったく……そういった市井の問題こそ憲兵隊のキエザ子爵は問題視して、俎上にあげて欲しいものだが、足元のことなど眼中にない輩だからなぁ。――というか予算がないだろう? 増税でもするつもりか?」
薬草茶を飲みながら、ヴィクトリアの問題提起に顔をしかめるローレンス王太子。
「まさか。ただでさえ知識階級を中心に貴族制度に対する不満の声がある昨今、議会ではなく王家の一存で増税を決めた……などとなったなら、下手をすれば国が滅びます。まあ現在の税制はいろいろと不合理な部分がございますので、今後は鉈を振るう必要はございますが、それはそれとして、現在王家に計上されている予算配分にも、かなりの無駄がございますからそこを削って、余剰分をもって議会に通して呼び水とされてはいかがでしょうか? どうせ十年、二十年がかりの大事業となるのですから、きっかけさえ与えればよろしいかと」
要するに音頭を取ったという名声を得て、後のことは後世へ丸投げですね――と、ぬけぬけと良いとこどりを示唆するヴィクトリアの甘言に、その手の虚飾や自己顕示欲の強いローレンス王太子は覿面に興味を示してその気になった。
「なるほどなぁ、王都内での事業となれば雇用の面でも……いや、ちょっと待てっ。なんでヴィクトリアが王家の予算内容なんて把握しているんだ?」
ふと我に返ったローレンス王太子の問いかけに、ヴィクトリアはキュウリのサンドイッチ(かつてはキュウリが高級品だったために財力を示すための定番だったが、今日では様式美に堕している)をナイフとフォークを使って行儀よく齧りながら、何でもない口調で種明かしをする。
「殿下との婚約以降、ある程度の閲覧が可能になりましたので、王家の財布の中身については、十日ほどで裏も表も完全に掌握できましたけれど? 国家予算の方も過去五年に遡ってほぼほぼ、どこから圧力がかかったのか、誰に利権が流れたのか、確固たる証拠集めの段階ですね」
そう言って含み笑いをするヴィクトリアを前にして、夏だというのに寒気を覚えるローレンス王太子。
「おいおいおいおいっ、王妃教育ってそこまでやるのか!?」
「なにを馬鹿な。そんなわけないでしょう」
「…………はあぁぁぁっ!?!」
「そもそも王妃の役割とは何か? と言えばぶっちゃけ跡継ぎを生む事がぶっちぎりの一番で、続いて国王陛下の補佐――それもあくまで政治には口出ししないで、人間関係の円滑化と交渉の場を作ることがそのニになります。あとは最近は新聞がありますので国民向けの花瓶の花になることが、その三といったところでしょうね」
細い指を三本立ててそう断言するヴィクトリアに対して、腑に落ちない表情でローレンス王太子が尋ねる。
「……じゃあ『王妃教育』ってのはなんなんだ?」
「高位貴族の令嬢であれば当然の嗜みとして身に着けるべきマナーと教養、王侯貴族の顔と名前と人間関係や人脈などの情報といったところですね。それが充分であるかどうか、王妃様など王族の女性がチェックを行い、不足分があれば補足するところが俗にいう『王妃教育』です」
要するにまともな高位貴族の令嬢ならば、ほとんど必要のないことです。と、付け加えた上でヴィクトリアはさらに続ける。
「仮に『王妃教育がつらい』と泣き言をいうような令嬢がいれば、それはつまり実家において、まともな教育がなされていなかったということですので、そんな家から妃を娶ることなどありえないことです。本人がいくら望んでも、常識的に考えて野猿を王妃に据えるなど、周りが許すわけがないでしょう?」
暗にナタリア嬢を引き合いに出してあてこすられたローレンス王太子は、第三者の目もあることで、普段のように取り乱すわけにもいかずに自制するしかなかった。
「ちなみに王立貴族学園というのは、元来家の事情などで向学の志はあっても、十分な貴族教育が施せない下級貴族の子弟や、上級貴族のマナーを学ばせたい中級貴族からの要望によって開設されたものですので、すでに十分な教育を受けた王族や門閥貴族、高位貴族の令息令嬢にとっては、成人する前の猶予期間といった意味合いが大きいですね」
『ですから、殿下のようなスカポンタンでも、先に積み重ねられた帝王教育のお陰で、〝優秀な成績”がとれていたわけです』
そう暗に視線で続けるヴィクトリア。
「ついでに将来の貴族社会や社交の場を模倣する、試行錯誤の場という側面もあり……まあ、中にはここで羽目を外し過ぎてボロを出す阿呆もいるので、殿下もよくお分かりかと思いますが、実のところ知らずに篩にかけられているわけですね」
ヴィクトリアの説明に思うところがあって反駁するローレンス王太子。
「ちょっと待て! お前、ブリセイダとの婚約を破――白紙に戻す時に」
エミリーの存在に思い至って『破棄』と言いかけた言葉を正す。
「『連日のお妃教育も必死に頑張って』いる分の『浪費していた時間に対する補填も含めて、莫大な違約金を支払らわなければならない』と言ったよな! 本来専用の教育などないという、お前のいまの説明と矛盾してるじゃないか!?」
「それでも連日のように王宮に招かれ、王妃様を筆頭に王族の方々や女官長様などから、出来不出来を審議させられ、なおかつ必要もないのに殿下に合わせて貴族学園にも通学されていたのですから、無駄な時間を費やされたのは確かでしょう。あの時も申しましたが、本来時間というものは他に何ものにも代えがたいものです。ましてや花の盛りの七年間ですよ。そのあたり殿下はまったくご理解いただけないようでしたので、多少話を盛ったのは確かですが……」
「ぐ、う……うむ……」
白々しいヴィクトリアの説明を受けながら、再度、歯噛みするローレンス王太子。
(もしかしてこのために第三者を連れて歩いているんじゃないだろうな?)
そんな彼の疑心暗鬼を見抜いたかのように、ヴィクトリアがちらりとエミリーを一瞥した。
「先ほどの話に戻りますが、私の場合は貴族教育――いろいろとひっくるめた『王妃教育』――はとっくに終わっていますので、特別に国王陛下や元老院に許可をいただいて、ある程度実務的な部分へ携わる許可をいただいています」
『女性には政治の事はわからない』と、いまだに軽視するきらいのある王侯貴族の社会において、言うまでもなくこれは異例の事である。
これは周囲も認めざるを得ないほどヴィクトリアが才能豊かであったことと、当人から婚約するにあたって条件として挙げられたもので、王家はともかく元老院としては「お嬢さんのおままごと」程度の見識で黙認されたものだが、まさか当人たちも早々と自らの政治資金や賄賂の流れを把握され、素っ裸にされた後だとは、この時点では知る由もなかった。
なお、女性を政治に携わらせない実際的な理由としては、例えば王妃を他国から輿入れさせた場合、公然と他国に通じる間者を受け入れたも同然となるため、国の重要な部分にタッチできないように予防線を張るという意味もあった(フォルトゥム王国の場合は、それを警戒して最初から王妃は国内の侯爵家以上の貴族の令嬢からしか受け入れないという土台を作っている)。
「そこらへんも目処が立ちましたので、外交のための人脈作りをするため、王妃様からそろそろ社交界にデビューしてはどうかとお話があり、そのため今後は殿下の侍女としての仕事を別の者に割り振る必然性が出てきたため、増員をかけたわけです」
王妃の重要な仕事として、先ほどヴィクトリア自身が二番目の例に挙げたように、人的交渉の要になるというものがある。
これは王妃自身が交渉をするのではなく、パーティや夜会、サロンを主催した際に面識のない貴族や外国の要人を紹介したり、サロンに出入りする者たちとの会談の窓口になることを意味する。
「えっ、ヴィクトリア。お前、社交の場に出るのか!? あれだけ嫌がっていたのに?!」
いままで頑なに表舞台へ立つことを固辞していたヴィクトリアの、思いもかけぬ変節に思わずローレンス王太子は驚愕の声を張り上げた。
途端にカップを置いて嘆息をするヴィクトリア。
「……いままでは前の婚約者の手前、はばかっていただけです。時期的にそろそろほとぼりも冷めましたので、今後を見据えて人脈を広げてはどうかと……密かに王妃様とアルカンタル公爵家でも下準備を進めていたこともあり、来月の国王陛下主催の定期晩餐会に出席する予定です。ローレンス殿下のエスコートで」
「聞いてないぞ!」
寝耳に水という感じでカップを叩きつけるように置いて、椅子から立ち上がるローレンス王太子。
「? いま言ったじゃないですか」
「いやいや、普通手紙のやり取りとか、贈り物を贈るとか、貴族的な約束事っていうか、情緒ってものがあるだろう!?」
「乙女ですか、貴方は(嘆息)。そんな迂遠なやり取りなど必要ないでしょう。こうして直接話しているわけですし。第一今更白々しく手紙で愛の言葉とか……もらったら殿下の目の前で音読しまくりますよ、私は」
肩をすくめて言い放ったヴィクトリアに、こいつならやりかねんと危惧したローレンス王太子の勢いが目に見えて消沈する。
そんなローレンス王太子に向かって、メイド服のままのヴィクトリアがまるでドレスを着た淑女のように、完璧なカーテシーを決めた。
「――ともあれ、当日はよろしくエスコートお願いします、殿下」
「あ、あ……ああ、お任せあれ」
それで精彩を取り戻したローレンス王太子が、お手本のようなボウ・アンド・スクレイプを返す。
ここだけ切り出すと、まるで芝居の一場面のような絵になる光景に、ただひとりの観客であるエミリーは大いに盛り上がるのだった。
2/21 プロローグと矛盾があるというご意見がありましたので、若干内容に追加しました。
他にも厳しいご意見をいただきまして身が引き締まる思いです。
精進を怠ったつもりはないのですが、自分の事はなかなか気づけないものですね。