婚約破棄されましたから復讐……しようと思いましたが可愛い悪魔と出会ったから止めました。
お久しぶりです、前の投稿から時間が立っておりますが楽しく読んでいただければ嬉しいです。
ガルド王国の王都にあるハルムド公爵家の館にある地下室では今一人の少女が一心不乱に見るからに怪しげな儀式を行なっている最中だった。
少女の名前はクレア・ロア・ハルムド、このガルド王国でも一二を争う大貴族であるハルムド公爵家の長女であり元・王太子の婚約者であった、そんな彼女が何故こんな怪しい儀式をしているのかといえばそれは復讐のためだ。
今年で十七歳になるクレアは十歳の時に王太子である第一王子カインの婚約者として次期王妃に選ばれてしまってから七年間それこそ寝る間も惜しんで厳しい王妃教育に励みながらもカインの婚約者として様々な公務をこなすなど忙しい日々を送ってきたのだが、それが十日前に突然終わることになった。
その日は王城でパーティーが開かれ多くの貴族たちが出席していたのだがその最中に何を思ったのか婚約者である王太子カインがクレアを自分が心から愛する子爵令嬢ネルマを醜い嫉妬に駆られてイジメたうえに殺そうとしたとして突然糾弾し始めてしまったのだ。これに対してクレアは真っ向から自分は何もやっていないしネルマという子爵令嬢の事も今初めて知ったと反論するとカイン達の証言に矛盾があることを指摘し無罪だと主張したが残念ながらクレアの言うことは信じられることはなくそのままカインによって一方的に婚約破棄をされてしまったのだ。
これまで婚約者であるカインの為にと血が滲むような努力をしてきたのに自分の知らない間にポッと出てきたネルマに全て台無しにされてしまったクレアは怒り、カインとネルマに復讐することを心に決めたのだが子爵家の出であるネルマはともかくカインは腐っても王族だ、危害を加えようものなら公爵家といえど重罰に処されることになるのは間違いない。そうなれば自分だけでなく家族や親しい使用人達までに咎が及ぶことを理解していたためにクレアが取った行動は神頼みならぬ悪魔頼みだった。今行なっているのは悪魔を召喚するための儀式であったが行っているクレア自身も悪魔を呼び出せるなどとは少しも思っていないだろうことはこの場を見れば誰にもでも分かることだろう。
まず血で描かなければならいはずの魔法陣に使われているのはただの赤い染料であり複雑な魔法陣の代わりに描かれているのは丸や三角などを適当に描いているだけ、左右に雄牛と雄山羊の頭蓋骨を飾らなければならない場所に置かれているのはデフォルメされた牛と山羊のヌイグルミが飾られており極めつけに生贄の代わりに置かれているのは食欲を刺激する香ばしい香りを発している丸々と太った七面鳥のローストチキンだ、こんなもので悪魔を呼び出せたならある意味それは一種の才能だろう。
「この生贄をもって我が前にその姿を見せ給え!汝は偉大なる魔なり!」
決められた呪文を叫び右手に食事用のナイフ持ち大きく振り上げると目の前にあるローストチキンに振り下ろしそのまま暫くの間無言で待っていたがやはり何も変化はなかった。
「ハァ……やっぱり悪魔なんているはずがないわよね……いたとしてもこんな儀式で出てこられてもそれはそれで嫌だしね」
気晴らしのつもりで行なったことだったが終わってしまうと急に私は何をやってるのだろうと虚しくなってしまい肩を落として地下室から出ていこうとしてローストチキンに背を向けたまさにその時、クレアしかいないはずの地下室に姿の見えない何者かの声が響き渡った。
「我を呼びし者は汝か人間の娘よ?」
その声はまるで幼い子供のようにも年老いた老人のようにも聞こえる何とも不思議な声だった。
「っ!?誰!!てっえ?えええ~!?」
突然の響いた声に慌てて地下室内を見回すがやはり誰もおらず怪しいところもなく空耳かと思ったクレアだったがあることに気付き驚きのあまり目と口を大きく開けて淑女らしからぬ変な声を上げて固まってしまう。
なんと落書きのように描かれた魔法陣の中心にある生贄が薄っすらと赤い光を纏っていたのだ!
「ふふふ、まさか我の質問を無視するとはな小娘にしてはいい度胸だ気に入ったぞ!我は人間を堕落に導きし者!怠惰を司る大悪魔の一柱であるヒツージ!さあ我を呼びし者よ汝の「大変申し訳ありませんが人違いです!」名を……は?え、人違い?」
「はい、そのとおりです。私は貴方を呼んでなどおりませんのできっと出てくる場所を間違えてしまったのではないのでしょうか?」
自分で呼び出しておいてなんだが本当に悪魔が出てきてしまったとなるとただの気晴らしでは済まない大事だった、そのため何とか悪魔にこのまま帰ってもらおうとクレアは今まで王妃教育で培ったポーカーフェイスを使い内心の動揺を隠しながらもしれっと嘘をついた。
「そ、そうか呼ばれたと思ったのだが我の勘違いだったのか……これは騒がせてしまってすまなかったな」
「いえいえ、お気になさらずに。誰にでもあるような間違いですから私は気にしておりませんので」
よかったどうやら上手く騙せたようね、このまま帰ってくれそうだわ、そうクレアが安心したのも束の間。
「てっそんなはずがあるかっ!この嘘つきめ!間違いでも勘違いでもなく確かにお前が俺を呼んだんだろうが!」
「きゃあぁあ!?」
怒りを露にして響くその声に呼応するかのようにローストチキンが一際強い赤い輝きを放つと地下室であるはずなのに突風が吹き荒れると同時に白い煙が立ち込めクレアの視界を遮った。
「さっきからよくも我のことを馬鹿にしてくれたな小娘! だがそれもこれまでだっ。お前の愚かな行為の代償がどれだけ高いものか今教えてやるからな!」
なんとか声がする方に視線を向けると煙のなかに先程まではいなかったはずの何者かの影が見えた。
(まさか本当に悪魔が出てくるなんてどうしたらいいのよ!? いえ、それよりもなんでローストチキンなんかで来るのよ!)
次第に煙も晴れていきぼんやりとローストチキンの前に立つヒツージと名乗った悪魔の姿が顕になっていく。
「さあ、愚かな人間よ!この大悪魔ヒツージ様の恐ろしき姿を見て震え上がるがいい!」
「え!?そんな、これってこの姿ってっ……きゃぁ~~~~!?」
完全に煙が晴れハッキリとヒツージの姿がクレアの目に映ると衝撃のあまり叫び声を上げていた、それもこれも全ては初めて見たヒツージのそのあまりに恐ろしき身の毛のよだつ姿のため……ではない。
「すっごく可愛い!それに毛もふわふわのもこもこで本当に可愛いわ!」
「うわあっ!?止めろこらっ我は大悪魔なんだぞっこの無礼者が!てっ本当に止めっちょっと待っ!どこ触っあ~~~~~っ!?」
そのあまりに可愛らしく愛らしい姿のためだった。
悪魔ヒツージの容姿はまるで羊のようだったが、ただの羊ではない、一メートル程の二足歩行するデフォルメされた羊なのだ。黒く大きなつぶらな瞳に三等身の丸みを帯びた体に短い手足を見るからにフワフワモコモコで柔らかそうな毛皮が覆い、角と蹄は触れた者を傷付けないようにか先が丸くなっている。
そんなヌイグルミのような体に身に着けているのは子供が作ったかのような黄色く丸い王冠に大きな蝶ネクタイと引きずる程に長い赤いマントとまるでマジシャンが持っていそうなステッキだった。
その姿に我慢することが出来ずクレアは気づけばヒツージを両手で抱きしめ頬ずりをしていた。
「いいわ!もう本当に最高よ!ああっこの手触りの良さったらもう!ダメっ一度触ったらもう離すことなんて出来ないわ!」
「ふっ巫山戯るなよこの痴女っいいから離せ!てか離してくださいこの通りお願いだからぁーーー!」
「ダメ!無理!不可能!離せるはずがないでしょ!お願いだからもう少しもう少しだけこのままでいさせて!時間にしてあと一時間位このまま抱かせて!」
「全然少しじゃな~~~~~~~い!!」
何とかクレアの魔の手から脱出しようと足掻き短い両手(前足?)をブンブンと振り回しながら悲痛な叫びを上げるがクレアの耳には全く届いていなかった。
実はクレアは可愛いものが大好きで特にモフモフしたものに目がない少女だったのだ。だが王太子に婚約者に選ばれて以来、次期王妃になる者として隙を見せてはならないと厳しく教育されてからは、自分好みの可愛いものがあっても必死に無関心を装い気がないように振る舞い続けてきたのだ。だが今はもう婚約を破棄されたために気にする必要もなく、またこの場には二人しかいなかったこともありヒツージの願いは残念ながら叶うことはなくクレアの暴走が止まることはなかった。
狩る者と狩られる者、本来あるべきはずの二人の立場が逆転した瞬間だった。
―― それから一時間後 ――
「はぁ……なんて素晴らしい触り心地だったのかしら!まるで夢でも見ていたかのような素晴らしい時間だったわ!出来ることならあのままずっと触っていかった……」
嫌がるヒツージが何度も止めるように訴えても止まらず思う存分にヒツージをモフり続けたクレアの顔には先程まであった憂鬱な陰りなど微塵もなく、どこまでも満足気な幸せそうな笑みが浮かんでおり肌も心なしか艶めいているように見える。
「ぜぇぜぇ…お、おのれ小娘!はぁはぁ、よくも俺っいや、我をここまで辱めて……ぜぇぜぇ…くれたなっ覚悟は出来てるんだろうな!」
一方、まさにヌイグルミのようモフられ続けていたヒツージの方はどうかというと、力無く床に倒れ伏し肩で大きく息をし震えながらクレアを睨んでいる。
「その本当にごめんなさい、あまりに私の好みの姿をしていたから、つい我を忘れてしまって、悪気はなかったのよ」
「ならその手は何だよその手は!?悪いと思ってるならまずその手を何とかしろよ!どう見てもまだ我を狙ってるだろ!」
震えながら自分を見上げるヒツージにまたも胸がキュンと高鳴り、本人も気付かないうちクレアの目は獲物を狙う肉食獣のようになり、両手の指をワキワキと動かしながらジリジリと迫るその姿とヒツージが涙目になってることもあって、まるで婦女子を狙う変質者のようになっている。哀れな獲物となってしまったヒツージは何とかして魔の手から逃げようと後ずさり距離を取ろうとするが、そう広くない地下室のため直ぐに壁際に追い詰められてしまった。
「……なにもそんなに逃げようとしなくてもいいじゃない……」
「そんなことを言うなら今直ぐにその手の動きを止めろよ!いや、それよりも我を呼んだ理由が何かそれをまず聞かせろ!」
「まあまあ、そんなことはどうでもいいじゃない」
「よくない!我は一時間以上もお前に辱められたのだぞ!呼ばれた理由くらい聞かないと納得できるか!」
「そんな辱めなんて大袈裟な……ですがそう言われては仕方ないですね。少し長くなりますがお話しましょう」
強く説明を求められ仕方ないとばかりにクレアは今までのことを話して聞かせた、自分が公爵家の娘でありこの国の王太子カインの婚約者だったこと、それが突然現れた泥棒猫こと子爵令嬢ネルマのせいで婚約破棄されてしまったこと、そしてちょっとした気晴らしのつもりで悪魔召喚を試してみたら本当に出てきてしまい驚いた事などを全て話し終えると黙って聞いていたヒツージは力なく床に手をつくと滝のような涙を流して泣き出してしう。
「よ、ようやく初めて召喚されたのにそれがただの気晴らしの遊び半分だったなんて……しかも生贄がローストチキン? 確かにここに来る前から美味しいそうな良い匂いがするなぁって思ってたけどいくらなんでもそれはないよ……」
「あらこのローストチキンは我が公爵家で腕を振るってくれている自慢のシェフが作ってくれたものなんですよ。温かい時はもちろんですが冷めてからでも十分美味しいんですから。はいどうぞ食べてみてください」
流石に激しく落ち込むその姿に悪いことをしてしまったとクレアは話を変えるために生贄として捧げていたローストチキンを切り分けるとフォークと一緒にヒツージに渡した。
「ふんっ!こんなもので我の機嫌が直ると思っているのか!何だこんなものっ!」
もう自棄になっているのか渡されたフォークを掴むとローストチキンを乱暴に刺し口に運び、そして叫んだ。
「むぐむぐ、ゴックン。おっおーーーーーーーー!? 美味いっ本当に美味いぞこれ!」
次々とローストチキンと口入れては美味しい美味しいと喜ぶその姿にまたも癒やされながら、クレアはうっとりとした笑みを浮かべ黙って食べ終えるのを待った。
「ふぅ、ごちそうさまでした!ありがとうな!こんなに美味しいものを食べたのは久しぶりだ!」
「ふふふ、どういたしまして。満足してくれたようで私も嬉しいわ、お菓子もあるけど食べる?」
「いや、流石にそれは悪いからいいよ。それより話を戻すけどクレアは王太子の婚約者だったけど変な女に王太子を取られて婚約破棄されたんだよな?」
「……ええ、そうですわね。」
可愛らしい姿に癒やされていたがその言葉にまたも暗澹たる気持ちになってしまうクレアだったがヒツージは全く気づいてはいなかった。
「そうか、それは良かったなクレア!」
「な!?ちっとも良くなんてないわよ!いくら悪魔でも言って良いことと悪いことがあるのよ!」
無邪気に本当に婚約破棄されたことを喜んでいるのか、まるで祝うかのようにパチパチと短い前足で拍手するヒツージに、カッとなったクレアはその丸いモコモコの頭を左右からガシッと掴むと思いっきり振り回す。
「ヒィイイイーーーー!!待ってっ止めてくれっ!?」
短い手足をバタつかせながら必死になって許しを請うが怒ったクレアは聞く耳をもたず、結局止めてもらえたのは目が回り立っていられないほどに振り回された後だった。
「ううぅ、ひどい目にあった……」
「貴方が変なことを言うからよ!婚約者を奪われた挙げ句に人前で婚約破棄されたのに良かったなんていうから悪いのよ!」
「待ってくれ少しでいいから落ち着いてくれ!今どうしてそう思ったから教えるからさ!」
ヒツージはまた振り回されたらたまらないと必死だった、そしてコホンっと咳払い一つして腕を組みながらクレアの正面に移動する。
「えーとだ人間と悪魔では考え方が違うのかもしれないけど別に結婚するだけが女の幸せってわけじゃないだろ?」
「まあ、それはそうでしょうけど……」
口では同意するが、内心では十歳の時に婚約者に選ばれてからの七年間、毎日のように行われてきた厳しい王妃教育が全て無駄になってしまったことに対する憤りがあった。それを感じ取ったのかヒツージはさらに言葉を続ける。
「クレアの気持ちも分かるよ。七年間も頑張ってきたのをポッと出の変な女のせいで台無しにされたんだから怒るのも当然だと思うけどよく考えてみてくれ、クレアは今年で十七歳でいいんだよな?」
「? そうだけどそれがどうしたのよ?」
「ふむ、確かこの国の貴族達の平均寿命は六十五歳程だったから、それを考えると大雑把にだが後四十八年くらい人生が残ってることになるわけだよな?」
「単純に考えればだけどそうなるわね」
それがどうしたのかと内心首をひねりつつも相槌を打つと、ヒツージはズイっとステッキをクレアに突きつけならが真顔で言い放つ。
「今まで聞いた話から察するとクレアの婚約者の何だか王太子はかなりのクズだぞ。王族ということを笠に着てやりたい放題で身勝手な馬鹿でしかも女好き、そんな男と結婚して残りの長い人生を幸せに生きれると思うのか? 我にはどう考えても無理だと思うんだがな」
「っ!?そっそれは……」
その鋭い指摘に強い衝撃を受けてよろめく。それもそのはずヒツージの指摘はもっともであり、今迄も何度も頭をよぎりその度に必死になって否定していたことだったからだ。
婚約者として七年も側にいたのだからカインのことは本人以上によく知っていた。結婚して正式に夫婦になればあの性格が良くなるのかと聞かれれば答えは間違いなくならないと断言できる自信があった。カインの性格が良くなることなどクレアには全く想像できず、それどころか王位につけば更に悪化するだろうことは目に見えている。そのことを踏まえて改めてカインと結婚して王妃になった後の生活がどういったのものになるのかを真剣に想像してみた。
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「陛下!どうかお願いですからもう美人と見たら手当たり次第に女性に手を出すのは止めて下さい! 国内外で陛下は色欲王と呼ばれて問題になってるんですよ!このままでは間違いなく後継者争いが起こって大変なことになりますよ!」
「黙れ!私にはこの国の王として王家の血を絶やさぬようにする義務があるのだ!そのためには私の血を引く子供を一人でも多く成さねばならないのだ邪魔をするな!」
「陛下!国庫がもう少なくなっておりますからこれ以上無駄遣いはお止めください!どうしてそんなにご自身の像を作るのですか!しかも若干背を高くしたり足を長くして格好よく作らせてますし!」
「五月蝿い!王国中に私の像を置いて頭の悪い愚民どもに誰が一番偉く格好いいかを教えてやっているのだ!金が無くなりそうだというなら適当な理由で増税でもして愚民どもから搾り取ればいいだろうが!」
「陛下!遊んでばかりいないでちゃんと仕事をなさってください!陛下の承認待ちの書類が山のように溜まっております!他にも謁見希望などやるべき事が山積みになっているのですよ!」
「断る!王である私が何をしていようが私の勝手だろうが!仕事だと?そんなものは宰相や大臣達にやらせておけばいいだろうがっ。何のためにいると思っているのだ!いや王妃なんだからお前が代わりに自己責任でやればいいのだ!」
「陛下!他国からの使者が!」
「嫌だ!面倒だから帰らせろ!」
「陛下!」
「知らん!」
「……っ!」
「…っ!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「うわぁー」
考えれば考えるほどに問題ばかりが次々と思い浮かび、そこには幼い頃に夢見たような幸せな結婚生活の欠片も見あたりはしなかった。
ただの婚約者でしかなかった時でさえも、カインの代わりに仕事をしたり馬鹿騒ぎの後始末を押し付けられ休む暇さえないほどに忙しかったのだ。あのまま王妃になってしまっていたら今までの比ではないほどの苦労が待ち受けていただろうことは想像に難くない。
「……そうね、あなたの言うとおりだわ。あのまま馬鹿王太子と婚約を続けて結婚していたら残りの人生を無駄にするところだったわ。それを考えればちょっと腹立たしいけど婚約破棄されたお陰でたったの七年ですんで良かったと思うべきよね」
そう思えばあれほど憎らしかった泥棒猫のネルマがまるで自分の代わりに生贄になってくれた聖女のようにクレアには思えた。
「うんうん、何も女好きの馬鹿王太子に付き合って自分の人生を棒に振ることなんてないんだからな。クレアはまだ若いんだからそんな奴のことなんて忘れて何か自分の好きなことをやってみたらどうだ? きっと楽しいと思うぞ」
「ん~そう言われると今まであの馬鹿のせいで出来なかったことって本当に沢山あるのよね」
クレアはヒツージと話しているうちに段々と楽しくなってきた。これまでは王太子の婚約者という立場があったためにやってみたいことがあっても我慢するしかなかったが、もう婚約者ではなくなったのだから自分の好きに生きてもいいはずだとそう思えてきたのだ。
「どうやらもう大丈夫そうだな」
「ええ、貴方の話を聞いてなんだかスッキリとしたわ。ありがとうねヒツージ」
「そうか、なら良かった。じゃあ俺はそろそろ帰らせてもらうぞ」
「えっ!?どっどうして?もっと此処にいてくれていいのよ?ローストチキンだってまたあげるし他にももっと美味しものだってあるのよ!」
せっかく出会えた自分好みの容姿をした喋るヌイグルミを手放すものかと引き止めようとするが、無情にもヒツージは短い首を横に振った。
「俺はこれでも立派な大悪魔なんだぞ? もう用もないみたいだし、これ以上ここにいるわけにはいかないだろ」
「なら私とちゃんとした契約をしましょう!それならいつまでも一緒にいられるでしょ」
「それはダメだ。もしも正式に契約したら俺はクレアから何か代償として貰わなきゃならなくなるけど払えるのか?」
「代償……」
公爵家の娘といえどクレアが個人的に動かすことできる金額などそう多くはないのだ。ましてヒツージは見た目は可愛いヌイグルミでもれっきとした悪魔だ。お金などではなくもっと別なそれこそ人間の生贄を要求してきても不思議ではない。だがその危険性を考えてもクレアにはヒツージを手放すという選択肢などありはしなかった。必死になりながらなにか良い方法はないかと考えていると、ヒツージを呼び出す前に読んでいた悪魔召喚のことが書かれた本の内容を思い出し一つの考えが浮かんだ。
「ねぇ、ならこういうのはどうかしら。私と契約してくれるなら貴方の名前と姿をこの国中に広めてあげるわよ」
「なあっ!?それは本当か!本当に国中に名を広めてくれるのか!」
その提案に電流でも流されたかのように体をピンっと伸ばし詰め寄ってくるヒツージを抱き上げる。
「ええ、もちろん本当よ。嘘なんか言わないから安心して」
先程までなら暴れて離せと文句を言っただろうヒツージだが、今は何度も本当か? 嘘じゃないのか? と聞いてくるその姿を見てクレアは自分の考えが当たっていたことを確信した。
ヒツージは自分のことを大悪魔と呼んでいたがそれは嘘だと分かっていた。本によれば大悪魔と呼ばれるようになるにはある程度の知名度が必要だと書かれており、それも複数の国で語られるほどでなければならないらしいが、ヒツージという名前もヌイグルミのような愛らしい容姿をした悪魔のことも全く聞いたことがなかったからだ。
それに本当に大悪魔ならこんな子供の遊びのような儀式でしかも生贄の七面鳥は調理済みのローストチキンだ、こんなもので出てくるはずがない。いや、出てきてほしくなどないし本当に出てきたのが大悪魔だったとしても絶対に認めたくなどない。
そして先程の『ようやく初めて召喚されたのに』という言葉から察するにヒツージの正体は知名度などまったくない下級悪魔であることはクレアには簡単に予想できた。
そしてそれは当たっていたようだと笑みを浮かべるのだがヒツージはやっぱりダメだと力無く呟くと項垂れ首を振り抱かれていた腕から降りると床に頽れた。
「俺は大悪魔だなんて言ってたけどそれは嘘なんだ……実はただのしがない下級の夢魔なんだよ。力も弱いからできることといったら夢を操るから眠らせることしかできないし、眠らせるにしても本人が少しでもいいから眠りたいと思ってくれなきゃ無理なんだ……」
(う~ん、下級だってことは分かってたから別にいいのだけど出来ることがその二つだけというのは……)
懺悔をする罪人のように床に座り両手を合わせ目を潤ませながら語るヒツージの、予想していたよりも大分低い能力にどうすればいいかと悩む。もう少し色々なことができるのでないかと期待していたのだがこれではあまりにも使い道がない。やはり契約するのは止めたほうがいいかもと思いチラリと横目でヒツージを見ると、まるで捨てられた子犬のような目をして自分を見上げている姿があった。
その姿に改めて胸を撃ち抜かれ、やっぱり無かったことになんてとても言うことができずにクレアは覚悟を決めた。
「ねぇ貴方の能力についていくつか質問があるのだけど、まず眠らせるのには本人の意志が必要だってさっき言ってけどそれには人数制限とかはあるの?」
「それはないぞ!条件さえ揃えばどれだけ多くいても眠らせることが出来るのが俺のたった一つの自慢だからな!」
「そうなのね、なら次だけど効果範囲はどうなの? どれくらいの距離までなら貴方の力は届くのかしら?」
「えーとだな俺の視界の範囲内だけだけど予め力を込めたものに触ってもらえれば距離は関係なくなるぞ!でもそうすると相手がより強く眠りたいと思ってくれなきゃダメなんだ」
「なるほどなるほど、じゃあこれはどうかしら?」
「ああこれなら」
「………」
「……」
この後、クレアは一時間近くもヒツージに質問してはメモを取り、その能力で何が出来るかを考え込んだりしていたが、やがて名案が思い浮かんだのか勢い良く立ち上がり拳を突き上げると笑い声を上げた。
「ふふふ!いける!これならいけるわよヒツージ!貴方の名前を確実にこの国中に広げてみせるわ!だから安心して私と契約を結びなさい」
「そうか分かった!ならば我夢魔ヒツージはここにクレア・ロア・ハルムドとの魂の契約を結ばん!さあ、結ぶ気があるのなら俺の両手と自分の両手を合わせてくれ!」
クレアの自信に満ち溢れた宣言と力強い笑みに感極まったかのように震えながら、ヒツージは万歳をするかのように両手を高く挙げると、クレアは迷うことなく自分の両手とヒツージの両手に合わせた。するとヒツージの体がいっそうモフモフとなり光を放った。それはまるで怪しい宗教にはまってしまった信者とその教祖のような光景だったのだが残念なことに二人はその事実に気づくことはなかった。
「よしこれで契約は成立したぞ、クレアこれから二人で頑張っていこうな!」
「勿論よ!私達はいつまでも一緒だからねヒツージ!」
「「はははははーーーーーっ」」
二人は一度気合を入れるかのように右手を突き上げると同時に笑い声を上げ、今後の事を決めるために地下室を後にした。
その日は一日中クレアの明るく楽しげな笑い声が屋敷に響くことになり、それを聞いた使用人達は王太子に婚約破棄されて以来ずっとふさぎ込んでいたお嬢様がようやく元気になってくれたと大喜びしたが、一つだけ不思議そうに首をひねることがあった。それはいつ買ったのか分からない大きな羊のヌイグルミを抱いていたことだったが、直ぐにお嬢様が元気になったのなら何でもいいかと静かに見守っていたのだった。
その後ヒツージと契約を交わしたクレアがまず最初に行なったことは、王太子カインとの婚約を正式に破棄することだった。カインが行った婚約破棄はカインの独断であり国として決定ではないため未だクレアは一応とはいえ婚約者のままだったからだ。国王夫婦や大臣達は、カインの婚約破棄宣言についてハルムド公爵家に正式に謝罪し莫大な慰謝料を支払うから、なんとかクレアに婚約者を続けてもらおうと動いていたが、クレアはこれを拒否し婚約破棄を受け入れる旨を伝えたのだ。国王はあくまで婚約を続けてほしいと承諾を渋ったのだが、これに対してクレアはカインを庇い今まで黙っていた、これまで婚約者であるはずの自分がどれほど苦労してきたか、またどのような扱いを受けてきたのかを国王や両親、居並ぶ大臣達の前で全て話すと、それを聞いた誰もが驚き何も言うことが出来ず場は静まり返ってしまった。何故なら語られた内容はあまりにも酷く、まるでクレアのことを便利な小間使いとしてしか見ていないような内容であり、とても婚約者にするような扱いではなかったからだ。
これを聞いた大臣達は次の王になるはずの王太子カインの度し難いほどの愚かさに呆れ言葉を失い、クレアの両親であるハルムド公爵夫婦は長い間大切な娘が受けていたあまりにも酷い扱いに激怒し不敬だと分かりながらも国王と王妃を睨みつけていた。だが国王と王妃にしてもクレアが語ったことは衝撃的なことだった。なにせ今まで二人の仲は良好であり、今回の騒動は若者にありがちな一時の気の迷いだろうと甘く考えていたのに、本当は違うと知らされたのだから無理もない。
国王は慌てて謹慎を命じていたカインを呼び出すと怒鳴りつけクレアが語ったことが事実なのかと尋ねると、カインは全員が鋭い目で自分を見ていることにも気づかずに悪びれた様子もなく全てを認めたのだがその態度はその何が悪いのだと言わんばかりのものであった。
もはやカインを見る公爵夫婦の目は激しい怒りと殺気で満ちており、まだ婚約者であるはずのクレアでさえも汚物でも見るかのような嫌悪感しかない顔でカインを見ていた。これには流石に国王もこのままでは婚約を続ける続けないの騒ぎでは済まないことになると察し、その場で二人の婚約は速やかに破棄されることになった。それも異例のことにこの婚約破棄の非は全て王太子側にあることを認めてのことだった。
この後ハルムド公爵家には王家から莫大な慰謝料や領地が与えられることになり、クレアは両親に頼み支払われた慰謝料の半分を貰うとそれを資金としてこじんまりとした寝具専門の店を開いた。それを知った貴族達は婚約破棄になった令嬢が暇つぶしのために遊び半分に始めただけだろうと笑う者も多かったが直ぐにその考えを改めることになった。
クレアが店を開いた頃、王城では国王をはじめとして多くの高官達が不眠症に悩まされていた。その理由は未だに王太子に指名されているカインと、カインの強い希望と多くの貴族の前で婚約者にすることを宣言してしまったために仕方なく婚約者の立場になった子爵令嬢ネルマが引き起こす数々の問題行為のせいだった。
なかでも一番の被害者は誰であるかと言えば財政を司っている財務大臣とその部下の財務官達だ。ただでさえ公爵家に中位貴族どころか高位貴族でも真っ青になりそうなとんでもない額の慰謝料を支払うことになり、国庫は底を突きかけ増税も検討されていたのだが、こんな馬鹿らしいことで増税しては民の信頼がなくなってしまうと財務大臣は様々な部署に頭を下げて必死になってやり繰りしていたというのに、そんなの知ったことじゃないとばかりにカインとネルマは自分達の楽しみのためだけに湯水のように大切な税金を使い込んでいるのだ。
そのせいで以前はでっぷりと太っていた財務大臣は今ではストレスのために食欲もなく夜も眠れなくなってしまったためにミイラのように痩せ細ってしまっていた。そんな財務大臣の元にある日クレアから昔お世話になったお礼にと自分の商店で取り扱っているという寝具一式が送られてきた。不眠症になっていた大臣だがせっかくの贈り物なのだから使わないのも悪いと早速使ってみたところ、その日は今まで眠れなかったことが嘘のようにグッスリと眠ることができた。次の日もそのまた次の日も心地いい眠りにつくことができた。そのことに財務大臣は不眠症が治ったのかと考えたが不思議なことにクレアから送られた寝具以外で眠ろうとしても眠ることはできなかった。
実はクレアが送った寝具一式にはヒツージの魔力が込められており大臣はそのお蔭でぐっすりと眠ることが出来ていたのだが、そんなことは知らない大臣は素直に寝具の質が素晴らしいのだろうと感心し、同じように不眠症に悩んでいる部下達にその話をするとあっという間に王城内に広まり、クレアが販売している寝具を使用すればどんなに不眠症に悩まされていても直ぐに眠りにつくことが出来ると噂になった。そのためカインのせいで不眠症に悩む王城勤めの者達がこぞってクレアの売っている寝具を買い求めだしたのだが、その噂は国王にも届き直ぐに自らも使用しその使い心地を確かめると大いに満足し『クレアの店の寝具は最高だ! あれらがなければ予はまともに眠ることもできん!』と絶賛したものだからそれを知った貴族達の間ではクレアの店は王家御用達の店として認識されるようになり多くの貴族が詰めかけるようになるとクレアは次に庶民をターゲットにした支店を開いた。
可愛らしいマスコットキャラクターを発表しそれと同時に質は落ちるが庶民でも買えるお手頃価格の商品を用意して売り出したのだがこれも飛ぶように売れていき、創業して僅か数年でクレアの店の名とマスコットキャラクターはあっという間に王国中に知られるようになった。
ちなみにそのマスコットキャラクターだがモコモコの柔らかそうな毛皮をした三等身の丸い体にどこかのヒーローのような赤いマントを身に着け短めのステッキを持った羊だった。このマスコットキャラクターは子供や女性に大受けし、直ぐ抱き枕やイラストが入ったシーツなどが作られるほどの人気者になっていったが、その名前は覚えやすいようにか見た目そのまま安直にヒツージと名付けられた。
後年大商会の会長となったクレアの隣にはいつも等身大のヒツージのヌイグルミが寄り添うように置いてあったのだが、このヌイグルミにはいくつか不思議な話が囁かれている。その中でも最も有名なのはクレアの家族や使用人達が見たというこれだ。深夜誰もが眠りについているような時間帯にクレアとヌイグルミのはずのヒツージが二人で楽しげにお茶をしていたと言うのだが、それが本当かどうか今でも分かっていない。ただ一つだけ言えることは開業から二百年が過ぎた今でもヒツージは人々に健やかな安眠をもたらしてくれる妖精として王国中の人々に知られ愛される存在だということだ。
余談だがクレアに婚約破棄を突きつけた王太子カインはそのあまりの素行の悪さから廃嫡され平民となり、開拓民として未開の地に送られ一人寂しい一生を過ごした。そして子爵令嬢ネルマも国で一番戒律が厳しい修道院に入れられその生涯を閉じることになったが二人の死を悼む者は誰もいなかった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。