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刹那  作者: 谷内 朋
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 九月に入り、蕪木はエマの外出許可を得て空家となっている沖野家に向かう。エマがこの街にやって来たのは四歳、当時は父親も元気に働いていてマイホームに夢を乗せていた頃だった。

「ホントにおうちにむかってるの?」

「あぁ、エマの記憶とは随分と違うのか?」

「うん、あんなにおおきなたてものとかなかったもん」

 エマは蕪木運転の車の中で、落ち着かなさげに窓に貼り付いて景色を眺めている。この様子だと退院してここに戻ったところで馴染めるだろうか? 蕪木の脳裏でそんな不安が頭をよぎる。

 それからほどなく沖野家に到着し、蕪木は車庫のシャッターを開けて車を入れた。車庫の裏口からそのまま敷地内に入り、かつて倫子が使っていた鍵で家の中に入る。

「あれ? うちこんなにひろかった?」

 エマは蕪木に用意してもらったスリッパに履き替えて慣れた様にずんずん奥へ入っていく。

「一度プロに掃除を頼んだんだ。かなりの物が壊れてて処分したからな」

「そうなの? ぼくのおへやのも?」

「いや、エマの部屋はそのままだ」

 上がってみるか? の言葉にエマは頷き、自ら率先して階段を駆け上がる。

「ぼくここからおちたんだよ」

「あぁ、そうだったな。その時は奇跡的に無傷だったんだぞ。当時診察してくださった先生も驚かれていたよ」

 そうなんだね。エマは無邪気な笑顔を見せて迷わず自身の部屋の前に立つ。

「エマ?」

 後ろに付いていた蕪木の甥っ子の変化に気付く。エマは部屋の中を凝視したまま中に入ろうとしなかった。視線は奥にあるベッド一点に集中しており、瞳孔が開いてしまっている。

 迂闊だった! 蕪木の脳裏に二ヶ月前の出来事がフラッシュバックする。固まっている甥っ子に慌てて駆け寄るも、エマの顔色が青くなり、口を抑えてしゃがみ込んだ。

「エマッ!」

 エマは胃の中の物を吐き出していた。嘔吐したのはその一度だけだが、喉にまだ何か支えているのかなかなか咳が治まらない。とにかくありったけの量のティッシュを使って嘔吐物を片付け、収納部屋に残してあったウェットシートで床を拭き直した。

「下に降りよう。動けるか?」

 エマは時折咳き込みながらもその言葉に頷いた。二人は一階に降り、キッチンに置いてあったペットボトルの水を開封した。

「これで手と口を洗え、タオル取ってくる」

 キッチンでエマの手を洗い口をゆすがせ、蕪木は持参していたタオルを引っ張り出した。


 もしかして思い出したのか?


 手と口を洗い終えたエマにタオルを手渡し、まだ咳き込んでいたので背中をさすってやると少しずつ落ち着いてきて咳もしなくなった。

「おじちゃん。たいいんしたらここにすまなきゃダメ?」

「いや、進藤家に移る予定だ。四日後にここは空になる」

 蕪木はエマを慰めるように体をさする。エマは安堵の表情を見せ、はやくここからでたいと言い出した。何か思い出したのか? 気にはなったがこの場では聞かないことにして沖野家を後にした。


 病院に戻った二人は瀬戸山にこの事を報告した。エマはすぐさまベッドで休むことになり、進藤夫妻も呼び出してエマを引き取り家を売りに出そうという話に収まった。

「潜在意識というやつが拒絶する以上、医師としてはあそこに戻るのはお勧め出来ません」

 瀬戸山の言葉に一同は頷く。頼子の父政雄(マサオ)は沖野家は事故物件扱いで多分売れないだろうと言ったが、エマを引き取る事は二つ返事で快諾した。

「部屋も余ってるしな。一聖、お前も来るか?」

「そうしなさいよ、エマの事考えたら悪い話ではないでしょ?」

「考えておきますよ」

 蕪木は苦笑いしつつ、それも悪くないなと思った。それから事は順調に運び、エマの退院とともに蕪木も含めた五人での生活が始まった。


 月日は流れ、進藤家で暮らしているエマは断片的にではあるが記憶を取り戻していた。それでも二十歳をとおに過ぎている自覚がいまいち持てていないようで、まだまだ幼さが残ったままの状態だ。

 しかし進藤家にとってはある意味好都合だった。他の家族が仕事を持っていてなかなか家事に手が回らない分、エマは記憶喪失になる前から家事をしていた事もあっててきぱきとこなし、今では留守を任されるまでの信頼を勝ち取っている。

「エマが居てくれて助かるわ」

 職場では重役を務めている晴子はすっかりエマに頼り切っている。政雄も孫にあたるエマにデレデレで、自身の趣味に付き合わせるのが楽しくて仕方がないらしい。

「甘やかしてんだかこき使ってんだか……」

 職場で異動を希望して九州から実家に戻ってきている頼子はそんな両親に呆れ顔だが、家事仕事が苦手で内心ではエマに頼っていた。それでも思うところはあるようで、このままで良いものかと気には掛けている。

 蕪木もその点は気になっているところではあるのだが、エマ自身が何の不満も無く今の生活を楽しんでいるので特に口を挟まないようにしている。甥っ子が元気で明るくいてくれるのが一番良い、現時点ではそう考えていた。

 エマ自身は今のこの生活に十分満足していた。週に三度病院に通って瀬戸山と色々な話をしたり、入院当時リハビリトレーナーとして世話になった杉浦や、今は彼の部下として働いている久慈と会うのも楽しみの一つだった。

 外部からの助言に釣られてアルバイトもしてみたりした。しかし慌ただしい空間に居る事で潜在意識に余計な刺激を与えてしまうのか、度々頭痛を起こし短期間で辞めざるを得なくなる状態だった。

「無理はさせない方がいい、まずは外出に慣れよう」

 瀬戸山の助言で、エマは蕪木のいる緩和ケアのボランティア活動を手伝うことになった。そこで一つの出会いがあり、彼の生活がほんの少し変わっていく。


 緩和ケア病棟の多目的ルームに集まった患者たちが思い思いに過ごしている中、エマを含めたボランティアたちがお菓子と飲み物を振る舞っていた。その中に独り窓際に佇んて外の景色を眺めていた女性に、エマが紅茶とクッキーを運びに行く。

「お一ついかがですか?」

「ありがとう、頂くわ」

 綺麗に化粧を施してセンスの良い服を纏った女性がうっすらと微笑み返してきた。年の頃は七十代と言ったところか。既に白髪の方が多く皺も深くなっているが、座っている姿勢はとても美しく気品が漂っている。エマはその姿にほんの少し見惚れていた。

 ボランティア仲間の話によると、その女性は半世紀ほど前は誰もが認める人気女優で今は演劇を中心に活躍しているらしい。類稀なる美貌で多くの男性との浮名を流し、八十歳をとおに超えた今でも見舞いに来る男性が後を絶たないそうだ。

「○○の会長がお見舞いに来られててびっくりしたわ」

「今でも現役なのは尊敬しちゃうわ、独身らしいからその辺は自由だしね」

 やっぱり普通のお婆ちゃんじゃなかったんだ。部屋着一つ取ってもお洒落でセンスも良く、毎日綺麗に化粧をしてほんのりと香水を使っているようだった。エマはほんの合間にチラッと女性の姿を確認すると、いつしか彼女の周りのは多くの男性が取り囲んでいた。


 数日後、エマは心療内科での検診で病院にやって来ていた。このところ何かを思い出したという事は特に無く、何時何があったかを雑談のように色々と話しただけだった。

 初めのうちはそれこそ催眠療法を使ったりして記憶を取り戻そうという試みも行われてきたのだが、それが元なのか一時期頻発する頭痛に悩まされるようになり、これ以上の治療はエマの負担になると現状をつぶさに見守る形に切り替えている。

 彼が事故を起こして七年になる。両親の七回忌を過ぎても当時の記憶は戻っておらず、亡くなっていること自体どこか他人事の様に感じている風に瀬戸山には見えていた。


 今更記憶を取り戻していいものなのか?


 医師としては本人にとって記憶が穴ボコなのは決して良いことではないと思う。しかし両親の自殺現場を目の当たりにし、葬儀をぶち壊しにした挙句自殺未遂……これから先生きていく上でその記憶が必要かと言われるとそうとも思えない。


 このまま新しい人格で生きていった方が案外幸せかも知れないな。


 瀬戸山は自身の無力さを嘆きそうになった。

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