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ここ、どこ?
長い暗闇から一転し、視界は白一色に変わった。ぼんやりとした状態の中現状を理解しようと首を動かそうにもびくともしない。
「エマ?」
白一色だった視界に別の色が加わり、それらがよく知る親戚の面々である事に気付くのに数秒の時間を要した。ここは何処なんだろう? “ボク”は一体どうなってるんだろう?
「いっせい、おじちゃん?」
「そうだ、ここが何処か分かるか?」
「おじちゃんの、びょういん。でも、どうして?」
この場所には何度か来たことがあった。もちろん患者としてではなく、“いっせいおじちゃん”こと蕪木一聖の親族として託児施設に出入りしていたので壁と天井の色に見覚えがあった。
「エマ、どこか痛む?」
今度は母親と同年代らしき女性が声を掛けてくる。この人知ってる、でも何かが違う……“エマ”は違和感を覚えつつも記憶にある名前を呼んでみることにする。
「より、ちゃん?」
良かった……“よりちゃん”と呼ばれた女性はホッと安堵の笑みを浮かべた。それからエマは問い掛けに答えようと痛む箇所を探してみるが、体の自由そのものが利かず、ん〜と難しい顔をした。
「からだ、ぜんぜんうごかない。いたくはないんだけど……」
「無理もないよエマ、結構な大怪我だったんだから」
よりちゃんこと頼子の隣で泣きそうな表情を浮かべている可愛らしい女性を横目で見るエマだったが、見覚えが無いのかキョトンとしている。
「おねえさん……は、どちらさまですか?」
「えっ?」
彼のその一言にその場に居る全員が固まった。
「やぁねぇ直子よぉ、きっとお化粧のせいで印象が変わって見えてるのよ」
「なおちゃんなの?」
「そうよ、そんなに印象違う?」
直子と言う名の若い女性はおどけてみせながらも悲しそうな表情を浮かべている。
「だって、がっこうは?」
「えっ? っとぉ、今日は日曜日だから休みだよ」
えっ? 今度はエマが不思議そうな顔をする。
「きのうがもくようびだからきょうはきんようびじゃないの?」
「いいえ、七月十六日日曜日よ」
頼子はケータイを取り出して待ち受け画面を見せると、エマの表情から生気が消える。
「エマ、十日も意識戻らなかったんだよ」
直子はエマの顔をじっと見つめて涙をこぼす。
「ホントなの?」
蕪木がゆっくりと頷いたのを確認したエマは、天井に視線を移したまま動かなくなった。
「エマ?」
蕪木の声に反応せず、しばらくそのまま天井を見つめていたエマは、悲しそうな声でポツリと呟いた。
「おとうさんと、おかあさん、どこにいるの?」
「……」
その問いに一同は何も答えられない。ただ目の前にいる甥っ子の様子がおかしい事には全員が気付いており、正直に答えても納得させられるのか? という思いが頭をかすめてしまうのだ。
「ねぇ、どうしてだまってるの?」
「エマ、今から叔父さんが言う事をよく聞いてほしい。まず今日は二〇○○年七月十六日、そこは強制的に納得してほしいんだ」
蕪木は意を決したように備え付けの椅子に座ってエマと視線を合わせる。体は怪我をしている以外特に激変した所は無いが、今見せている表情……特に目が小さな子供の様に純粋な感情がだだ漏れになっている。
「えっ? 二〇✕✕年じゃないの??」
エマの口から十二年前の西暦を聞かされて、頼子と直子は驚いた表情で互いの顔を見合わせていた。
「あぁ。それとこれが何か分かるか?」
蕪木はポケットに入れていた掌サイズの四角の物体を見せてやるが、エマは見覚えが無いと首を傾げている。
「なにかのゲームき、かな?」
「これはスマートフォンっていう電話もインターネットも出来る機械なんだ。因みにこれは十日前までお前が使ってたものだ、幸い壊れず今も使えるぞ」
「これが、ぼくの?」
「あぁそうだ」
蕪木はスマートフォンをエマに手渡した。彼にとっては見覚えの無い代物のはずなのだが、それは思いのほか手によく馴染んでいた。
「……」
エマは自身の持ち物を手にしている事で幾分気が紛れている様だが、それより何よりどうしても知らせなければならない事がまだ残っている。蕪木は一つ息を吐き、甥っ子の手を取ってエマ、と名前を呼んだ。
「それとな、お父さんとお母さんは二週間前に亡くなった。葬儀も初七日も済ませてる」
「そんなわけないよ、だっておかあさんとでんわしたもん」
「電話? エマ、その内容を覚えてるか?」
エマはまだ事実を理解していない様子だったが、それでも気丈に頷いておとうさんがじこにあったと説明した。
十二年前……そうか、あの時の事か。
エマの話には蕪木にも覚えがあった。当時エマの父親は高速道路で玉突き事故に巻き込まれて半年ほど怪我の治療を余儀無くされ、その間に勤めていた会社をリストラされたのだった。
「おとうさん、たすからなかったの?」
事実ではなかったものの、今はそうしておいた方が良さそうな気がしてあぁと頷いた。
「おかあさんは?」
「お祖父ちゃんとお父さんが一気に亡くなられたショックで発作を起されたの」
その問いには頼子が答える。その日にエマの祖父が亡くなった事と、度重なるアクシデントによるショックで母親が発作を起こしたのは事実だった。エマの記憶がそこまでしか無いと分かった以上それで話を摺り合わせる事にする。
「おかあさんまで……」
ううぅっ。エマはスマートフォンを手にしたまま顔を覆い、呻き声を上げながら涙を流す。大人たちは怪我をしていない部分を擦ったりティッシュで涙を拭ったりしながら必死に宥めていた。
「記憶喪失か」
泣いているうちに眠ってしまったエマを進藤姉妹に任せてきた蕪木は、同期入職で心療内科医の瀬戸山充浩に甥っ子の事で相談を持ち掛けていた。
「こういう事ってよくあるのか?」
「まぁ事例は無くもないよ、最近は過度なストレスによるものの方が増えてるけど。エマ君の場合は怪我が原因の可能性も十分に考えられるから、脳外科の美濃先生にも知恵を頂いた方がいいだろうな」
「美濃先生か」
確か春に異動してきたばかりの……エマが搬送された時に執刀してくれたほぼ同世代であろう女性医師で、救命救急センターでの勤務経験があるとかで見事なオペさばきだった。
「俺から話をしておくよ」
「ありがとう、宜しく頼む」
蕪木は瀬戸山と別れ、エマの居る病室に戻った。
ぼくねちゃってた?
エマが目を覚ますと辺りはすっかり暗くなり、三人の大人たちも既に帰宅したようだった。
みんないなくなっちゃった。
ぼんやりした視界のまま目をキョロキョロさせて辺りを見回すと、沖野さん。と声が掛かって静かにドアがスライドされる。
「?」
「脳外科医の美濃です、夜間巡回で来たのだけれどもしかして眠れない?」
長身で細身の女医が室内に入りエマに声を掛ける。エマは勤務医と分かると警戒していた表情を少し弛ませた。
「いま、おきました」
「そう。どこか痛いところとか不便な事は無い? それに汗を一杯かいてるわ、包帯を取り替えて着替えましょう」
美濃はエマの顔の汗をハンカチで拭うと、少し熱があるわね。と呟いてそっと右手首に触れる。
「七度八分ってところね。支度をしてくるから少し待っていてね」
「はい」
患者である青年がこくんと頷いたのを見届けてから、美濃は病室を出てPHSでナースに指示を飛ばし、医務局にもこの後の業務内容を報告しておいた。
美濃の指示で準備万端で病室にやって来た男性看護師二名が手際良くエマの体を拭き、シーツの取り替えの為一旦簡易ベッドに移動させる。一人がシーツを取り替え、もう一人は美濃の助手にまわる。
「沖野くん、包帯を取り替えるわね」
「はい」
エマの返事を合図に彼女は素早く包帯とガーゼを取り外して患部を診る。怪我の治りは順調そうだと安堵の表情を微かに浮かべると速やかに新しいガーゼを当て、丁寧に包帯を巻いていく。
もう少し関わるべきだったかしら?
美濃はエマの執刀をして最初の二日ほどしか診察する事が出来なかった。以前から決まっていた大手術が二件立て続けに入っていたからなのだが、こうなる事が分かっていればここまで他人任せにしなかったのかも、と薄い後悔が脳内を支配し始めていた。
もちろん代わりに担当した他の医師や看護師にはきちんと指示をしていたし、経過報告はカルテにも記載されていたので現状は把握していた。しかし漸く目が覚めたかと思えば、十六歳の男子高校生が五歳までの記憶しか残っていなかったと言うではないか。
「先生、シーツの張り替え終わりました」
その声とほぼ同時に最後の患部に包帯を巻き終えた美濃は、後の作業を看護師たちに任せる事にする。エマの着替えをテキパキとこなす彼らから離れ、先程からポケットの中で震えているPHSを手に取った。
「お疲れ様です。……分かりました、すぐ行きます」
彼女はPHSを仕舞ってから着替えを終えたエマに声を掛けた。
「怪我の方は順調に治っているから、もう少ししたら抜糸しましょう。それと熱っぽい状態はもう少し続くと思うけど、病気じゃないから安心してね」
「はい、ありがとうございます」
美濃はエマの返事に微笑み返すと新たなる患者の元へ向かった。
それから五日ほどでエマの傷口は完全に塞がり抜糸が行われた。
「痛いところは無い?」
美濃は時々作業の手を止めてエマに優しく声を掛ける。
「いたくはないけどムズムズします」
「皮膚に糸が通るって独特の感触があるから。痛い時は遠慮無く声を掛けてね」
「はい」
エマはおとなしく座って抜糸が終わるのを待つ。
あれからエマの記憶に変化が無い様で、相変わらず五歳児のままの話し方をしている。会話そのものに淀みは無いし、聞いた事に対する受け答えもしっかりしている。美濃はエマとの会話で外傷によるものではないとほぼ確信していた。
「あのね、せんせい」
何かしら? 美濃は作業の手を休めずに返事をする。
「ぼく、じゅうにねんまえからタイムスリップしたんだよ」
「えっ?」
美濃自身もびっくりする様な素っ頓狂な声を上げてしまい、手元が狂いそうなのを必死に抑えていた。
「どうしてそう思ったの?」
彼女は一度中断してエマと向き合うよう移動する。エマが何故そんな事を思ったのか、専門外ではあったが、医師として興味の引く話の様な気がした。
「う〜ん、うまくいえないんだけど……ぼく、かいだんからおちてめがさめたらじゅうにねんたってるって。おじちゃんも、よりちゃんも、なおちゃんもみんなとしをとってるの。せとやませんせいもちょっとしらががはえててね、ぼくのからだもおっきくなってるんだ」
話をしているエマの表情はとても生き生きとしていた。今のエマ自身は五歳だと認識しているが実際は十六歳、自動二輪免許証と保険証を確認しているので間違いない。
「でもね、なおちゃんが『とおかかんねむってた』って。とおかとじゅうにねんじゃけいさんがあわないもん。だからたましいだけがじゅうにねんのじくうをこえて、にゅういんしてるおとなのぼくのなかにたましいがはいったんだとおもうんだ」
子供の想像力って凄すぎる、と感心している場合ではない。五歳のつもりで目を覚まして、いきなり十二年後と言われたらショックの一つも受けるだろう。一夜明け、二日三日と過ぎていっても状況は変わらない。今日が二〇○○年七月二十一日だと言い聞かせても恐らく納得は出来ていない筈だ。きっとエマなりに今の状況をどう受け止めてどう咀嚼しようか、無意識に考えを巡らせていたのだろう。そして彼なりに見付けたのがタイムスリップという一つの“仮説”なのかも知れない。
「沖野くん」
美濃はエマの手をそっと握る。
「ほんの少しだけ、抱き締めてもいいかしら?」
「うん、いいよ。ぼくせんせいだいすきだから」
こんな事初めてする……美濃はエマの頭をそっと撫でてから細い体を抱き締めた。初めのうちから嬉しそうに抱き着いてきたのだが、そのうち何かを思い出した様で表情を曇らせていく。エマは美濃の肩に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らしながらせき切ったように泣きじゃくった。
「ここでは我慢しなくていいの、瀬戸山先生にもお話ししましょう」
「うっ、ひくっ……しんじてくれるかな?」
「大丈夫、彼ならきちんと話を聞いてくださるわ」
美濃はエマを優しく宥めて普段なかなか見せない笑顔を向けた。陰で“鋼の女”と呼ばれているだけに自分でも分かるくらいに固い笑顔だったと思う。それでもエマは涙を拭って機嫌を直し、あと少しだけ残っている抜糸を再開させた。
「それにしてもタイムスリップとは」
翌日エマと面会をした瀬戸山は、昼食時間を利用して蕪木に話の内容を聞かせた。
「そうか。フフフッ」
「何だ? 気持ち悪い」
瀬戸山は思いっ切り嫌そうな視線を向けるが、蕪木は気にする事無く少しばかり上機嫌の様だ。
「いやさ、記憶が無くても覚えてる事ってあるんだな、と」
「あぁ、過去の記憶が消えてても日常的にしてきた事は案外忘れないものらしい。そう言えば何もかも忘れて赤ちゃん化した患者には出会った事が無いな」
「なるほどな、エマは子供の頃からああいった類のものが好きだったから」
ふむ。瀬戸山は尖った顎を軽く摘む。何か考え事をしている時の彼の癖だ。
「使えるかも」
「何がだ?」
「エマ君の好きなもの、抜糸も終えて脳内検査の結果が出たらリハビリが始まる。確かゲームが好きだったろ?脳と手先のリハビリにはなるだろう」
「あぁ。あとアルバムも考えてたんだが」
「悪くはないが、ちゃんと年齢を追って時間を掛けるようにした方が良い。いきなり今に近い写真を見せるのは止めておけ、記憶と記録のギャップで自殺を選ぶ患者だって居るんだからな」
瀬戸山は顔を引き締めてそう言い切った。




