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第2話 諦めません


「ネリ。私はそろそろ仕事に戻らないといけないんだけれども……」

 

 未だ空間の温度を底冷えさせるような空気を放ち続けるエルシオ様を見て、母は気まずそうに私に視線をやりました。この猛獣じみた王子様の下に私一人を残していくべきなのか、葛藤しているようです。


「その娘も一緒に連れて帰れ」


 エルシオ様から飛び出た鋭いナイフのように尖った言葉が、母にさらに追い打ちをかけました。

 彼女の瞳に浮かぶ逡巡の色が濃くなったように見えました。

 しかし、私はここで簡単に引き下がるわけにはいかないのです。


「いいえ。私は時間が来るまでは絶対にここを離れません」

「なっ……!」


 母は私の中の揺らぐことのない決意を認めたのか、微笑んで頷くと、部屋を出ていったのでした。


 この広いお部屋に、エルシオ様と私だけが残されました。

 エルシオ様はまさかこの国の王子である自分の意志に抵抗する者が現れるとは思いもよらなかったのか、二の句も告げずに、絶句して私を見つめていました。

 

 エルシオ様があどけないお顔で、私のことを穴の開く程に見つめていらっしゃる!


 燃えるような紅蓮の瞳でそんな風に見つめられたら私、日なたにさらされたアイスクリームみたいにとろけてしまいます。


 私が頬をじわじわと赤く染めていく中、彼の目つきは時間が経つにつれて段々すわっていき、気づけばまたあの見る者を凍えさせる氷の表情に戻ったのでした。しかし、その氷の相貌の下に秘めたる熱い心を知っている身としては、殺人鬼にも見えかねないそんな表情にですらうっとりしてしまいます。

 

 何といっても、画面越しに何度もお会いしてきた彼と、今こうして画面を隔てずに対峙している。

 たとえ今すぐ消えてほしいと願っているかのような蔑みの視線を向けられてすら、彼と紛れもなく同じ空間にいるというその事実だけで、私は天にも舞い上がれる程嬉しいのです。

 これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。

 私はついゆるみそうになった口元を引き締めて、彼に声をかけました。


「エ、エルシオ様。何をして遊びましょうか?」


 無言。


 エルシオ様は私から顔をそむけるようにくるりと振り返ると、膝に置いていたらしい読みかけの本を手に取り、視線を本に落としました。


 清々しい程の完全スルー! 本当に有難うございました!


 私はぺたりと床に座り込むと、目の前で私の存在をなかったこととし、本を読みふけり始めたエルシオ様をぼんやりと眺めました。

 

 流石に、初っ端から意思疎通を交わすのは難しかったようです。 

 普通の五歳児の女の子だったらここで相当心が折れそうなものですが、なんといっても私は前世の記憶所持者であり、実の精神年齢は二十三歳。これしきのことは、もはや微笑ましくすら思えます。しかも、相手はかのエルシオ様なのです。どんなことをされようと嫌いになる方が困難です。

 

 私は立ち上がって歩き出すと、私に背中を向けて本に没頭している彼の背後に立ちました。

 私が近づいてきていることはとっくに察しているはずなのに、エルシオ様は全く反応を示しませんでした。この部屋に響くのは、時折彼がひらりと本のページを捲る音だけ。

  

 私は思い切って、エルシオ様の横から首を突き出して、彼が夢中になっている本に目を落としました。

 政治、国家、国政等、政治にまつわる厳めしい単語がずらずらと並んでいるのを見た瞬間、胸を衝かれました。

 休憩の時間ですら立派な国王になるべく勉強に励むとは……なんと気高い御心なのでしょうか。


 未だ、彫像のように美しい横顔をこちらに向けようともしないエルシオ様に、私はフランクさを装って声をかけました。


「何のご本をお読みになっているのですか?」

「…………」

 

 予想はしていましたが、またしてもスルー。


 むう……これは、口を聞いてもらえるようになるまで中々の長期戦を強いられそうです。

 それに私は、このように空気として扱われることにも、多少は慣れて……。

 ううん、今はあんなつまらないことを思い出している場合ではありません。

 今は、隣の彼の休憩時間が終わってしまう前に、どうにか一言でも交わせるかどうかが大事なのです。


 というわけで。

 その後も私は、エルシオ様に折りを見ては声をかけましたが、結果は全敗でした。

 エルシオ様はビスクドールのごとく美しいご尊顔を私に向けることすらなく、休憩時間が終わるや否や、侍従さんに呼ばれて剣術の稽古に出かけていきました。その時に一緒に部屋から追い出されて、私はとぼとぼと自分のお部屋に戻ったのでした。


 初めてエルシオ様とお会いしたこの日は、約一時間ほど彼のお部屋に滞在させていただきましたが、その間、一言も口をきいてもらえませんでした。


 翌日も、その翌々日も、似たような日々を繰り返しました。

 私は、来る日も来る日もエルシオ様の休憩時間になると母に連れられて彼の元を訪れては、彼と一緒に過ごしました。そして、同じ空間にいながらにして一言たりとも会話を交わせないという超絶ドエムプレイを繰り返し続けてきました。私たち二人の様子を傍から見ている人物がいたとすれば、どんなに冷たい人間でも彼のあまりの無愛想な様を咎めたことでしょう。

 

 一週間ほどして、ようやく彼に話しかけるという正攻法では駄目なのだと気づいた私は、どのように振る舞ったら彼の注意を引くことができるのか、部屋に戻った後、頭を捻って考えていました。


 ちなみに、彼に遊び相手として認めてもらうことそのものを諦めるという選択肢は、頭をよぎったことすらありませんでした。


 今は完全に他人に心に閉ざし切りのエルシオ様だけれども、それは、周りの厳格すぎる環境によってそうせざるをえなくなっているだけなのだと、私は知っていたからです。


 本当の彼は、不器用なだけですごくお優しい。

 それだけじゃない。

 あの人は、燃え立つ火のような激しさで相手ごと呑みこんでしまうように、貪欲に人を愛するのだ。

 まるで相手のことを自分の魂の半分と思い込んでいるかのような、狂気じみているとすら思えるその愛し方に前世の私は深い感銘を受け、気づけばテレビ画面の前で涙を流しておりました。


 初めてエルシオハッピーエンドルートをクリアした時のことは、一生忘れません。

 魂をゲーム画面に奪われてしまったかのように頭がぼうっとし、涙が止まりませんでした。

 少し経って、一本の長編大作を読み終えたかのような達成感とともに、ついに終わってしまったのだという淋しい気持ちがない交ぜになって、嗚咽を漏らしました。


 その時の胸に深く突き刺さってくるような感動を忘れることができなくて、私は脳が焼き切れるほどに『ときめき★王国物語』を繰り返しプレイしました。素晴らしい物語というのは何度読み返しても胸に迫ってくるような感動を与えてくれるもので、私はエルシオが幸福を掴むその様を見届けるごとに、自分のことのように幸せな気持ちで満たされたのでした。


 そんな前世の記憶を持つ私からすると、エルシオ様と同じ空間にいられて、同じ空気を吸っていられるというだけでこの身にあまる幸福ですので、どんなに彼に手酷く無視されようと苦痛であるどころか、そんな冷たい表情にときめきすらしていたのですが、周りの目からは私たちの関係はさぞ奇妙に映ったことでしょう。


 このまま、ディーン家の娘という立場をほしいままに活用し、エルシオ様のお姿を日々まぶたの裏に焦げ付きそうな程に見つめているというのも悪くないのですが、できれば彼と会話を交わせる程度の関係にはなりたいところです。

 

 一緒に過ごす時、エルシオ様はいつも、貪るように本を読んでいらっしゃる。

 しかし、盗み見たところ、その本の内容はいつも八歳の子供が読むにしては難解で、厳めしいものばかりです。本を読んでいる時の彼の表情も死んだ魚のようで、本の世界に没頭しているというよりかはただ字面を追っているようにしか見えませんでした。


 そんなお姿を見ていて、ふと、ゲームでのエルシオも読書家として知られていたことを思い出しました。

 

 ゲームでも、最初はヒロインであるティアに対してことごとく氷のように冷たいエルシオですが、ティアの清らかな魂に触れて段々と心を動かされていき、徐々に彼女に心を見せ始めるようになります。

 

 このエピソードは、二人の距離が縮まり始める時のものです。


 たまたま王城の図書室で、熱心に本を読みふけるエルシオの姿を見かけたティアは近づいていき彼に声をかけます。エルシオは、彼女の気配を察した瞬間に急いで本を閉じて、隠すのです。


『ええと……何故、隠すのですか?』

『……お前には関係ないだろう』


 ふいっと顔をそむける彼から、ティアは回り込んでひらりと彼の手からその本を抜き取ります。


『何をする!』


 その本は、十歳の子供が読むようなファンタジーものの児童書でした。

 皆から氷の王子と呼ばれ畏れられている二十歳の男が、よもやこんなにファンシーな内容の本を手に取っているとは夢にも思わなかったティアは、絶句して固まってしまいます。


 本を奪われてタイトルまで確認されたことに動転したエルシオは、見る見るうちに白磁の頬を林檎の如く赤く染めていき、呆けているティアから本を奪い返します。そして、睨みつけるように彼女を見た後、段々とその綺麗な弧を描いた眉をしょんぼりとさせていき、視線を床に落として諦めたように言うのです。


『…………軽蔑、しているのか』

『いいえ、違います』

 

 ティアの清水のように透き通った声に、彼は弾かれたように顔をあげます。


『私も昔に何度もこの本を読みました! 大好きな本なんです』


 その時の彼は、驚きのあまり言葉も出ないのです。

 彼女は、唖然としているエルシオに向かって『読み終えたら感想を教えてくださいね! 約束ですよ』と花のように微笑んでみせるのです。

 これ以降、二人は本の感想を分かち合える仲間としてもより結びつき、縮まっていくのです。


 ああ。

 何度思い返しても、胸がドキドキしてしまう名シーンです。甘酸っぱくて、蕩けてしまいます。


 このエピソードからも分かる通り、今は知識武装をするための読書しかしていないこの世界のエルシオ様も、根本的にはもっと自由な読書を楽しみたいという願いを秘めているはずです。

 

 ここまで思い至った時、私の頭に、彗星のごとく素晴らしいアイディアが飛来しました。

 この作戦は、実行してみる価値がありそうです。


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