古川さんの話をしよう【今日の長崎は被爆72年】
私は生まれも育ちも長崎県民です。
今日書くから意味がある。
だから、書きます。(書かなきゃいけないかなって気になったんです)
まず、
長崎県内の小中高校は例外なく本日が登校日です。
とっかかりとして、コレのお話から。
他県では登校日がバラバラだって、社会人になって他県出身者と仕事するまで知りませんでした。
ただ、広島は8月6日固定ですよね。
同じ理由で長崎も8月9日固定。
どちらも、原爆の日です。
忘れてはいけない日だから、です。
多くの方が一瞬で亡くなった日。
広島は1945年8月6日、午前8時15分。
長崎は1945年8月9日、午前11時2分。
当日に限らず、この年、広島と長崎では原爆が原因で合計20万人以上の方が亡くなりました。
赤ちゃんからお年寄りまで、何の例外もなく、「そこに居た」というだけで亡くなってしまったのです。
今日は「戦争って、駄目だよね」と、学ぶための日です。
長崎の学校では原爆が炸裂した午前11時2分になると、体育館に集合した全校生徒が戦争で犠牲になった方々へ黙とうします。
私も子供の頃からそれは当然として学んで来たし、毎年午前11時2分になると、長崎県内のいたる所で1分間、サイレンが響きます。
私も、今日午前11時2分に黙とうします。
さて本題。
古川さんの話をします。
わたし、魚釣りが趣味なんです。
お休みの日に、一人で釣り竿握って防波堤に腰掛け、のんびり魚釣りするのが癒やしなんです。
中年女性が一人でのーんびり魚釣りしていると、同じく防波堤へ釣り糸を垂らしに来たオジサマ方が気軽に声を掛けて来て下さり、世間話に花を咲かせるんです。
それもまた楽しくて、防波堤へ出掛けてます。
お互い約束してそこへ集まるわけで無し、たまたま居合わせる顔馴染みの釣り仲間、とでも言うんでしょうか。
防波堤でよく見かけるオジサマに、古川さんというおじいちゃんが居ました。
釣果の話や、地元の話、家族の話、色々お話をしてたんですが、ある夏の日に古川さんがぽつりと、
「私ね、被爆者なんですよ。」
仰ったんです。
驚きました。
長崎市内に住んで居れば、被爆者の方とお会いする機会はそれなりにあるのかもしれません。
でも、県北地域の佐世保市在住のわたしには、実際に被爆者の方を目の前にする機会は無かったんです。
しかも、古川さんは平戸出身と仰っていたので、まさかその日に長崎市内に居たとは思いもしませんでした。
その日、古川さんは「学徒勤労動員」として、軍用品関係の工場で作業をしていたそうです。
午前11時頃、10代半ばの古川さんは仲間たちと工場の中で作業をしていました。
お昼前、一番仕事がノってる時間帯です。
同じ年頃の学徒勤労動員として働く相棒の男の子と二人で工場の機械を操作して作業していた時、工場の窓の外が真っ白に輝いたそうです。
次の瞬間、何が起きたのかも判らず、古川さんの体は工場の床に叩き付けられて転がって行ったのです。
あっという間の事で、工場の職員の方に声を掛けられて立ち上がるまで、呆然としていたと。
古川さんは体を起こして立ち上がり、工場の中の惨状を目にしました。
自分の向かい側に立っていた、同じ年頃の学徒勤労動員として働く仲間の男の子の上半身が無くなっていたそうです。
見渡すと、体が五体満足では無い死体があちこちにあり、それらはすべて、同じ学徒勤労動員として働いていた子供達でした。
古川さんは、「偶然」助かったのでした。
おそらく、「物陰」になったので助かったのだろう、と。
助かったと言っても、古川さん自身、全身大怪我をしていたそうです。
当時、助かってよかったとかそんな事を思う余裕も無かったし、よかったのかどうか判らない、とも。
ここまで話し、古川さんは困ったような顔で、
「なんでこんな話しちゃったかな。ごめんなさいね、こんな話。」
そう言って、海面にぷかぷか浮いているウキを見つめながら申し訳なさそうにしていました。
辛そうに感じたので、わたしは「貴重なお話をありがとうございました」と伝え、わたしが趣味で物を書いている事も話し、
「いつか、何かの形で書いて、誰かに伝えてもよいですか?」
と訊ねると、古川さんは静かに頷いてくれました。
偶然助かった古川さん。
推測はできます。
目の前に立っていた子が、古川さんを「物陰」に隠してくれたのではないか、など。
古川さんは被爆者手帳を持っていませんでした。
「今更申請したところで、ねぇ。 この歳まで元気にして来れたのだし、これから先、体にガタが来るのは〝普通〟でしょ?だから、被爆者手帳、要らないんです。」
辛いから、持って無いんでしょ?
口から出ませんでした。
釣り竿を握っていた手に、古い引き攣れた火傷の傷跡があったように思います。
その後、古川さんと防波堤でご一緒する事は無かったのですが、その時ご自身に「癌があってね」という御話もされていました。
可能なら、またお会いしたいと思いますが、おそらくそれは叶わないと、なんとなく予感がしています。
今日、書かなければと思ったのは、多分、予感のせいでしょうかね。
広島長崎の原爆で亡くなられた皆様が安らかに眠ってくださるよう、黙とうしたいと思います。
田上富久長崎市長 平和宣言
http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html
平成29年8月9日 長崎平和公園で行われた長崎平和式典で、安倍首相出席の場で読み上げられた平和宣言です。
ぜひ、全文通して読んでいただければと思います。
■平成29年度 平和祈念式典 平和宣言より【抜粋】
私たちは決して忘れません。
1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。
黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。
十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。
そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。
原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
世界各国のリーダーの皆さん。
被爆地を訪れてください。
遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。
もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。
語るためには思い出さなければならないからです。
それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。