雲と晴
むかし、昔。
ずーっと昔。
まだ国境さえなく、今はいない多くの動物が生きていたころ。
世界が禍によって破滅にまで追いやられたことがあった。
荒れ果てた大地と底知れぬ闇の中で人間たちはなぜこのような禍が己の身に降りかかるのか、何をすれば再び平和に生きることができるのかを考えた。
そして、それが私利私欲にまみれた人間が自らの生まれてきた意味を見失っていることに対する神の怒りだと解釈した彼らは、神へ生贄を差し出すことを決める。
当時最も高いとされていた山の頂上に作られた祭壇には、山の麓の村に住む齢十三の少年二人が立つこととなった。
ついにその日、人類の願いを背負い、二人の男児が祭壇に横になった瞬間、青と赤、二色の稲妻が祭壇を直撃する。
あたりには轟音が響きわたり、地響きとともに大きな揺れが人々を襲い始める。
その衝撃で山は崩れ、大量の水が流れ出したと思えば木々が炎に包まれていく。
やがて、発生した濃い霧と煙が晴れた時、
そこには二人の男児と思わしき人物が水と火を背負って立っていた。
水を操る力と火を操る力をそれぞれその身体に宿した少年たちは、その強大な授かりもので瞬く間に世界に光を取り戻してゆき、そして世の中が再び平和に包まれた時、静かに姿を消していったのだという。
「って話を、病院でおじいちゃんから聞いたんだけどさ」
長い話を終えた少年の声がやけに反響した。
栗色のくせ毛を弄びながら、その少年はいちご牛乳のストローを咥える。
下校時間の過ぎた教室には初夏の夕焼けによるオレンジ色の西日が差し始め、相対する二つの人影をどこか幻想的に伸ばしていた。
「ふーん…」
数秒後、窓の外を見つめながらも飽くことなく話を聞いていた黒髪の少年が、静かな相槌を返す。
それきり訪れる沈黙。
しかしそれは気まずさを感じさせるものではなく、まさに沈黙こそが会話ともいえそうな二人の親密な関係性が織りなす心地よさを含んでいる。
その静けさはしばらく続いた。
一人は乾ききった喉を潤してくれた手元のいちご牛乳のパックへ視線を落としつつ。
一人は窓際の自身の席に座り、ガラスの向こうに見えるさざ波を数えつつ。
ゆったりとした時が短い針を少し進めようとした、その時。
突如、ガラガラという音と共に教室へ踏みこんできた女子生徒の茶色いローファーが二人の視界の端に映り込んだ。
「来たか…」
どちらともなくそっと呟き、二人はゆっくりと立ち上がる。
「なん、で、まだ、いるのぉ…?」
二人と対峙する形となった女子生徒の話し方はどこかおぼつかないもので、濃い紫色に染まった瞳と相まって彼女が“例のウイルス”に感染していることが手にとってわかる。
「なんでってそりゃあ、俺たちはお前を狩らないといけないからさ」
「お前のためにわざわざこんな時間まで残ってたんだ、あんまり長引かせてくれるなよ」
強気な姿勢で言葉を吐く二人の少年。
橙の光が、制服を纏う彼らの右腕につけられた腕章の文字に反射して煌めく。
「それは…だめ。わたし、には、やりたいこ、と、ある、の」
少女は焦点の合わない紫色の瞳を揺らしながら、静かに否定の意を示した。
少年たちは彼女のそのどこか悲しげな表情に、顔を見合わせる。
栗色の髪をもつ少年が何か言いたげに黒髪の少年へと視線を送った。
「だめだ、祥雲。俺たちのやることは一つだ。…さっさと行くぞ」
その意思を汲み取った黒髪の少年は祥雲と呼ばれた少年から目を背け、敵意のこもった鋭い眼光で女子生徒を見据える。
祥雲も、一瞬だけ床に視線を落とすと、意を決したように顔を上げる。
「そうだな。わりい、晴姫。いつものでいくか」
「ああ」
短く会話を交わし、二人は構えをとる。
すると、祥雲の右手は青い光を伴う水に、晴姫の左手は激しく燃え盛る炎に包まれた。
「いくぞ!」
祥雲がそう叫べば、少年たちは同時に動き出す。
「一発目」
女子生徒の正面に回った晴姫が、奇妙に燃焼する左手で彼女の腹を容赦なく殴る。
「ぐ、」
「今度はこっちだ!」
しかしすぐに体勢を立て直した祥雲がそう言いつつにやりと不敵に笑えば、ビー玉サイズの水の塊が銃弾のごとく女子生徒に打ち込まれた。
弾自体は弾けるが、その威力によって女子生徒はバランスを崩し、地面に倒れ込む。
「あっけないな、ラスト行くぞ」
そして、冷たい言葉と冷たい瞳で敵を見下す晴姫の隣では大きな火柱が赤く渦巻いており――――
「ま、って」
「あ?」
紫色の瞳が小さく動いた。
彼女を飲み込む寸前で停止した火柱の劣らぬ威力のせいで飛び散る火の粉をその身で受け止めながらも、女子生徒は消え入りそうな声で疑問を口にする。
「なにもの…? どう、して、わたしの、こと、がわか、る、の?」
祥雲と晴姫は再び顔を見合わせた。
祥雲の窺うような視線に、晴姫は黒髪を揺らして説明拒否の意を示す。
「うーん…それは、俺たちが学園警察で、水を操る力と火を操る力を受け継ぐものだから、としか言いようがないなあ」
眉尻を下げながら困ったように笑う祥雲が律義に答えを紡ぐ。
「いみ、わか、らな、い」
だが、それに対する女子生徒の返答は、
「わからなくていい」
晴姫の声と大きな火柱によってかき消されていった。
二人の少年の右腕では「学園警察」の文字が炎の光に反射して煌めいていた。
@ @ @
「瑞城さん、今のお孫さんですよね? なんのお話をされていたんですか?」
「ああ、ちょいと伝説の話を」
「伝説って、この島に伝わるあの話ですか? 水を操る力と火を操る力っていう」
「看護婦さんも知ってるんか?」
「ええ、私も祖父から何度もその話を聞きましたから」
「そうか…。数百年に一度、その力を受け継ぐものが生まれるって話も?」
「はい。ですがさすがにそれはあり得ないと思いました。現代社会にそんな能力を持った人なんていませんよね」
「やはりあんたもそう思うんか…」
「瑞城さん?」
「なんでもない。それより食事を運んでくれんか?」
「あっ、はい、今持ってきますねー…」
北陸から日本海側にほどなく離れた島―――希帝。
人口は一万人ほどで、島の内部には大型のショッピングモールや娯楽施設なども多数存在する、発展した離島だ。
その広大な面積には豊かな自然も息づいており、特に島の南部に位置するビーチはきれいな海と白い砂浜を有しているため島外からの観光客も多く訪れる人気スポットとなっている。
瑞城祥雲と比向晴姫も、この島に住所を持つ人間の一人だった。
希帝で生まれ、希帝で育った生粋の希帝島民である二人は十六まで年を重ね、現在は島で一番大きな学園にて高校二年生を営んでいる。
しかし、彼らは普通の高校生ではなく、
「よ、学園警察! 昨日はお手柄だったな!」
「さすが学園警察! これからもがんばれよ!」
「いつもありがとー、学園警察!」
「これからも学校を守ってね、学園警察!」
理事長から直接に学園を守ることを命じられているスーパー生徒組織、学園警察のメンバーの一人なのである。
とはいっても学園警察のメンバーは二人、つまり彼ら以外にその腕章をつけている者はいないのだが。
「昨日…?」
「なんだろーな」
明くる日の登校途中、校舎へ足を踏み入れるためには回避不可の上り坂を進みながら、声をかけてくる生徒が口々に言う“昨日の手柄”の意味がわからずに二人は首をひねっていた。
「おはよー! さくちゃん、はるちゃん!」
そんな二人の背中を勢いよく叩いたのは、祥雲と同じクラスの少女、希野時雨だ。
「時雨! おはよ」
「はよ」
彼女は普段から祥雲や晴姫と行動を共にしている、笑顔の絶えない明るい女子生徒で、男女問わず人気を集めている人物だが、同時に――――
「この坂上りきったらさっきコンビニで買ってきたメロンパン食べるんだぁ~! すっごいおいしいんだよ!」
「時雨、今日の朝ごはん言ってみ」
「えっと、トースト四枚、一枚目はマーガリンで、二枚目はいちごジャム、三枚目はあずきホイップで、四枚目はフレンチトーストにしてもらったの! それから炊飯器の中に入ってたごはんを、えーとお茶碗大盛りで三杯くらいかな? 食べて、お味噌汁飲んで、あ、最近健康のためにグリーンスムージー飲んでるんだよ! これすごいオススメ! それから~…」
とてつもない大食漢であった。
「いや、もういい。俺が悪かった」
想像するだけで胃もたれがしてしまう量に、質問者でもある晴姫はため息をついて制止を促す。
「ほんと、細いのによく食べるな~」
「ほめても何にも出ないよ、さくちゃん」
祥雲の言葉に思わず見惚れてしまうほどの綺麗な笑顔を見せながら、時雨は照れたように金色の髪を耳にかけた。
それをしばらく見ていた晴姫は表情一つ変えずに感想を口にする。
「おまえ、黙ってればかわいいのにな」
「なっ!? え、そ、そ、それははるちゃんだって一緒でしょ!」
そんな晴姫の呟きに、一瞬でゆでダコのように顔を真っ赤にさせてしまった時雨が大きな声で反論を叫んだ。
校門を目前にした通学路での大声は、多数の生徒をこちらに振り向かせる。
「なんだよでかい声出して」
突然の彼女のうろたえように少し驚いた様子の祥雲が晴姫の発言と同じくどうしたの、と聞けば、時雨はゆっくりと俯いて今度は先ほどとは対照的に消え入りそうな声でなんでもない、と言った。
鈍感な二人の少年の頭上にはクエスチョンマークが浮かぶ。
「……え、えーっと! そ、それじゃあ、私、先に行くね!! あの! メロンパンだし! メロンパンだしね!! それじゃあ! またね!」
そう言い残し、抜群の運動神経を駆使して去ってしまった乙女の背中を見つめながら、二人はなおさら表情に浮かぶ疑問の色を濃くする。
「女子ってのはわかんねーな」
「わかんないなあ」
「メロンパンだしってなんだ」
「そこかよ?」
他愛ない会話を交えつつ、目的地までの残り数十メートルの距離を縮めようと時雨に合わせて小さくしていた歩幅を戻し、再び歩き始めると。
「おーーい! 祥雲ーー! 晴姫ーー!」
背後から、名前を呼ぶ男子生徒の叫び声が耳朶を揺らした。
振り向けば、黒ぶち眼鏡がよく似合う小柄な少年がこちらへ走ってきているのが見える。
「おお、風雅」
「聞いたよ!!」
少年は二人の元へ辿り着くなり先刻の時雨に負けぬ大きな声で周囲の空気を震わせた。
それは晴姫のクラスメイトである彼―――槌谷風雅だが、落ち着きがあって頭の回転が速い普段の雰囲気とは異なり本日は少し興奮しているようだ。
ここまでの道のりを走ってきたことで乱れた息を整えようともしない。
「何を?」
「昨日! 祥雲たちのクラスで盗みを働こうとした女の子を捕まえちゃったらしいね! いや~、やっぱりすごいなあ二人とも! 僕の自慢の友達だよ!」
昨日。
二人はようやくそこで納得をした。
今朝口々に賞賛を浴びる手柄とは、誰もいない教室で一人の女子生徒を蝕むウイルスと拳を交えた昨日のあのことだったのだと。
彼らには、学園警察のほかにもう一つ、世界に生を受けた瞬間から背負っている重要な役目があった。
それは、“人の欲望に巣食うゼロウイルスによる破滅から世界を救うこと”だ。
何者かによって今も生み出され続け、感染すれば自我をなくし力だけを求める獣へと変貌してしまうゼロウイルス。
二人はこの現代の禍を、自らの体に宿る水を操る力と火を操る力をもって打ち倒さなければならない。
それが彼らの決められた運命であり、使命であり、義務だったのである。
彼らが中学生になった四月、二人は出会い、そして自分の運命を知り、受け止めた。
自身を危険にさらしても学園や島を守ることで己の義務を果たそうと決意したのである。
家族や友人にさえこの事実を言わないまま、力を継ぐ者たちは二人だけで重い役目を担いだ。
神に愛された少年達は今も頼れるのは互いのみの状況で戦いを続けているのだ。
運命を、疑う術すら知らないまま。
――――後に待ち受ける、悲劇も知らないまま。