真実と少女
「ちょっと、意外だったかもしれないわね」
「そうか?」
「ええ」
ロアは火の前に封筒を翳した。
すると、封筒の中身が影となって浮かび上がってきた。
どうやら、中に入っているのは手帳らしい。
ドールは少し目を見開いて、その様子を見ていた。
「まさか、燃やすわけじゃなかったなんてね」
「当たり前だ。あれだけのことをしておいて、逃げるわけにはいかない」
ロアはそう言い切ると、封筒の封を切った。
そして、封筒をひっくり返すと中の手帳を手の平に落とした。
手帳は黒い革張りのものだった。
端々は擦り切れていて、如何に使い込まれていたかが伺える。
パラパラとページをめくって見ると、殆ど最後までが文字で埋まっていた。
「これが、父さんの」
一ページ目を開くと、そこには几帳面な文字が並んでいた。
元々、商人の子ということもあって、ロアは字を読むことが出来る。
始めのページには父の商人としての心得が書かれていた。
次のページには取引のことが。
日付を見ると、まだ父が家にいる頃のことだった。
主な内容としては、最近は仕事が上手くいかないことが書かれていた。
ロアは次々とめくっていく。
それに連れ、仕事の内容が多かった文面がギャンブルの内容に変わっていった。
「あっ……」
やがて、父は家を出た。
こんな現実は認められない。
もう、こんな情けない姿は見せられない。
涙の跡が残る文面にはそう書かれていた。
ロアは嫌な予感がして、手帳を閉じてしまいそうになる。
しかし、ここで止めてしまったらこの手帳は二度と開けないだろう。
もしかしたら、そうした瞬間ドールに燃やされてしまうかもしれない。
ロアはそう思って、根気強く文字を目で追った。
やがて内容は父がやり直す過程になった。
まずは今までに失った人脈を取り戻すことに始まる。
最近に近づくにつれ、だんだん軌道に乗り始めたことがわかった。
そして、驚いたことに僕と再会した時の事まで書かれていた。
「全て上手くいったのに、アイツラを見るとまたあの時のことを思い出す。苦しくて、堪らない。俺があいつと結婚したばかりに、俺の商才は衰えた。あいつさえ、いなければ俺は完璧になれるのに。……なんて、身勝手な」
ロアはその部分を読み上げて、眉を顰めた。
ロアの中で忘れていた憎しみが再び湧き上がってくるのを感じた。
怒りを堪えながらも、読み進めていくと、母を連れ去ろうと計画されていくのがわかった。
雇う人や、母を閉じ込める場所、それらに必要なお金。
そういったものが日付が変わっていくにつれ、父の元へ着々と集まる。
そして、一ヶ月前に遂に決行に移った。
「久々に見る、彼女の顔……いや、妻の顔は痩せ細っていた。かつて、村一番の美女と謳われていた頃の面影は残っているものの、年齢のわりに大分歳を取って見えた。俺はすぐに妻を殺そうとした。俺の人生の中で唯一の汚点だった、あの日々を消すために。俺の人生を完璧にする為に。だが」
ロアはその次の言葉が目に映った瞬間、思わず声を失った。
自分が目にしたものが信じられなかった。
「それは出来なかった?」
そこからは声に出さず、食い入るように文字をむさぼり読んだ。
その字を追う間中、父の声が耳の奥で響いた。
『なんと言えば良いのだろうか。
彼女を見た瞬間、俺は泣き出したくなった。理由はわからない。
胸には今まで忘れていた懐かしさがこみ上げ、涙が頬を伝った。
傷だらけの妻の手を握りながら、俺は涙が止まらなくなってしまった。
ああ、やはり彼女は俺が一度、愛した女なのだと、急に思った。
家を出てからがむしゃらに立て直そうと走ってきたが、俺の求めていた現実はこんなものじゃなかったはずなのだ。
少なくとも、人を殺してまで手に入れる人生など、俺が真に欲するものじゃない。
商人として人を騙したことはあったが、人殺しはそれらの罪に一線を画していた。
情けない姿を見せたくないが為に家族を捨てて、家を出た臆病者の俺にはそんなことは出来るはずがなかった。
俺は一体、今まで何をしていたのだろう?
今まで俺の全てだった商売が、急にくだらないものに思えてきた。
思い返してみれば、妻や子供達は俺がいくら落ちぶれても、ずっと側にいてくれた。
まだ次があると、どうしようもない俺を笑って許してくれた。
薬で眠らされた妻の手にはまる指輪は、まだその頃の様に支えてくれる。
そういった証であるかの様に思えて。
俺は突如として溢れた感情を抑え込む事が出来なかった』
「父さん……」
ロアは呆然としていた。
父の意外な姿に、驚くことしか出来ない。
お前のことなど知らないと言っ放った父と優しかった頃の父の残像がロアの視界の中で重なった。
これは幻覚だろうか。
すぐ側に涙を流す父がいる様な気がした。
『俺は男として、最低なことをした。
養うべき家族を捨て、自分勝手な行動をとった。
これは許されざる罪だ。
目が覚めた今ならわかる。
でも、今更過去を変えられないのも、また事実。
重要なのは、これからのことだった。
とりあえず、俺には彼らに会う資格はない。
ロアも大きくなっていたし、俺のことを憎んでいる年齢だろう。
これからは毎月お金を送るとして、後のことは悪いが妻に任せる他ない。
目が覚めたら、全て話して精一杯の謝罪をしよう』
手帳は終わりに近づきつつあった。
ロアの嫌な予感が最高潮に達する。
不自然に一行開いた、後の文が最後だった。
『先程、ロアが訪ねてきたので、今一度ペンを置いた。
彼は正義感の満ちた表情で俺を睨みつけながら、母の場所を聞いた。
全て話して、謝罪することも考えたが、それは俺には卑怯に思えてならなかった。
散々家族を放って置いて、今更許せなどと、なんと都合の良い話か。
それでもきっと、優しい彼のことだから、許してしまうのだろう。
自惚れかもしれないが、妻に似たあいつのことだ。
そうなる可能性はあった。
だが、俺は許されてはならないと思う。
この罪は一生をかけて償っていかなくてはいけない。
だから、俺はロアの憎む対象であり続ける。
先程も母さんを返して欲しくば商売敵の一人でも殺してこいと言って、追い払った。
彼は正義感が強く、優しい子だから、俺とは違って人を殺しはしないだろう。
妻は目が覚め次第、返すつもりだ。
さて、全て終わったら、今度は何をしよう?
彼らの為に出来ることはないだろうか?
とはいえ、俺には商売しかない。
お金が集まれば、どんな者でも父親がいなくても暮らせるように、何処かへ寄付してみようか。
それがいいかもしれない。
ロアには苦労をかけてしまったが、トアやノアがもっと伸び伸びと育っていけるような世の中を作れれば、間接的にも彼らの為になるのかもしれない。
これが、今後の俺の生き方だ。
死ぬまで許されない罪の贖罪の方法だ。
明日は新しい商談が舞い込んでいる。
朝は早い。
これから、頑張ろう』
父はそう呟くと、最後に少し笑って、フッと消えた。
ロアは何も考えられずに、その父が消えた虚空を見つめていた。
「嗚呼」
そのまま、どれほどの時間が経っただろうか。
不意に手帳に書かれていた全てが、真っ白だったロアの頭に雪崩れ込んできた。
母の手に縋り付いて泣く父。
決意を新たに、手帳を書く父。
ロアを罵倒した父。
そして、鮮血を散らす父。
「ああっ、ああ!」
ロアは叫んだ。
頭を抱え込み、床の上に蹲る。
「そんな、そんなことって」
あるわけがない。
ロアは首を頻りに左右に振った。
目の前に現れた真実を受け入れられずに、目を瞑る。
しかし、網膜の裏に焼き付けられた父の姿はロアを苦しめるばかりだった。
「そう。貴方の父親が犯した過ちも真実であり、それを償おうとしたのも、また一つの真実。貴方が関わったあの事件には二つの側面があった」
「でも、俺はこんなことをしたかったわけじゃ」
「そうでしょうね。でも、これは変わらない事実よ」
ドールは淡々と告げた。
ロアが逃げ出そうとするのを目の前に立って、道を塞いでいた。
「逃げ出そうたって、無駄よ。これが貴方の選んだ道。今更目を反らすことはそれこそ、罪になる」
「そんなのあまりにも残酷過ぎる! こんなこと、無理だ。俺は」
ロアの焦点は既に合っていなかった。
そのままフラフラと立ち上がり、外へ出て行こうとする。
このまま逃げ出すつもりだった。
彼は知らずと、彼の父と同じ過ちを犯そうとしていた。
しかし、ロアには彼の父とは違うことが一つあった。
「大馬鹿者」
パシリ。
と、乾いた音が薄暗く狭い部屋に反響した。
同時にその場に落ちた言葉は酷く冷徹だった。
ロアはその場に尻もちをついていた。
そして、自分を見下ろす小さな少女を呆然と見上げていた。
「馬鹿者。ここで逃げたら、貴方は一生また苦しむことになる。貴方の父や、私のようにね。それがわからないほど、貴方は愚かではないでしょう。だから、キチンと事実を見つめなさい。その後に逃げようが、どうしようがそれは貴方の勝手だけど、今逃げ出すのは私が許さない。いいえ、逃げ出すなら私が貴方を罰する」
「でもっ!」
「黙りなさい。言い訳は聞かない。貴方は更生した父親を殺す事件に関与した。いい加減にわかりなさい」
ドールの抑揚のない声は、鋭利な刃となって、ロアの心に突き刺さった。
ロアはそれ以上、何も言えずに黙り込む。
父を殺した。
その事実は少し冷静になってみれば、すぐに受け入れることが出来た。
まぁ、これは既にわかっていたから問題はない。
だが、父が更生していたという事実だけはどうしても受け入れ難かった。
正確には認めてしまえば自分のしたことが、もっと重い罪になってしまうような気がして、途轍もなく怖かったのだ。
ロアは目を瞑った。
自分に拒否反応を起こす本能に刷り込むように、何度も自分に言い聞かせた。
お前は父からやり直すチャンスを奪ったのだ。
分かり合える可能性を全て失ったのだ、と。
「俺は」
幸せになれたかもしれない未来を壊してしまった。
そう、結論にたどり着いたところでロアはスッと目を開いた。
気がつけば、目の前にはドールの顔があった。
「ごめん、ドール。俺、また間違うところだった」
「ええ、そうだったわね」
「ああ。だから、その……ありがとう。目を覚まさせてくれて」
「いいのよ。気がついてくれたなら。ところで、ロア」
「なに?」
ドールはロアをジッと見つめていた。
ロアはそれにたじろぎながらも、笑顔を浮かべる。
彼にとって、それは感謝のつもりだったのだが、ドールはどこか怒っている様子だった。
「無理はしなくていいのよ。貴方が罪を犯したのは私のせいでもあるの。私があの日、気まぐれを起こさなければ貴方はきっとあの日、本気で人を殺そうとは思わなかったはずよ。貴方の父親が書いていたように、貴方は罪を犯すには優しすぎる。だから」
「違う。それは何度も言ったけど、俺自身の責任だ。ドールが気にすることじゃない」
「貴方はそう言うでしょうけど、実際私が貴方の父親を殺すように示唆したのは違いないわ。だからね、貴方は無理しなくていいの」
ドールはそう言って、白く細い指先でロアの頬に触れた。
そして、人形らしさの欠片もない、柔らかな表情で微笑んだ。
「なにも、私は全て背負うとは言ってないわ。私には背負わなくちゃいけない罪がまだ幾つもあるんだから。でも、それが少し増えることなら気にならない」
「ドール、それは許せない。ドールは」
「違うわ。エレナ、よ。私の本当の名前は。そう呼んで」
「えっ?」
ロアは思わず目を見開いた。
ドールにそれ以外の名前があるとは思っていなかったのだ。
ドールは尚も笑って言った。
「私ね、昔は人間だったの。でも生まれつき、体が弱くって早くに死んじゃった。その後、私の死体はヒトの体を使う人形師に拾われてね。こうやって、生き返ったの。でも、私はそれからというもの、どうしたらいいのかわからなくって。モノ扱いされて、罵声を浴びせられて過ごす日々を繰り返すうち、私は自分が何なのかわからなくなってしまったの。それは、解放された後も」
「それで、あんなこと」
ドールはロアの漏らした呟きに、深く頷いた。
今にも泣き出しそうな、それでいて嬉しそうな表情で、彼女は頷いた。
その様子を見るに、十歳の少女、エレナであることは疑いようがない。
もうドールという呼び名は、まるでふさわしくなかった。
「最近まではエレナという名さえ思い出せなかった。でもね、貴方と会って少しだけど昔のことを思い出したの。私も昔、誰かにああいう風に愛されていたのかなぁって。私はそれを思い出せて嬉かった。だから、貴方の言う責任とやらはそれで、おあいこ。むしろ、感謝したいくらいなの」
エレナはそこで、ギュッとロアを抱きしめた。ロアはあまりに唐突なその抱擁に固まってしまう。
しかし、エレナの腕は暖かかったからか、次第に気持ちが落ち着いていった。
「私も貴方の罪を半分背負う。貴方が独りで苦しむ必要はない」
「……だけど」
ロアはエレナの腕をそっと抱き寄せた。
そして、少しの間の後、胸の内に溜め込んでいた感情を吐き出した。
「ドール……いや、エレナ。君は本当に強い。自分の罪を背負いながら、人の罪も背負おうとするなんて、俺には到底出来ないことだ」
「それでも、やらなくちゃ。それが私に選べる最善だから」
「そうだよな。俺も本当ならそう思わなくちゃいけない。向き合い、贖罪の方法を探していく。そうあらなきゃいけないんだ。だけど、俺は」
ロアは手帳に視線を落とした。
そこには父の涙の跡が残るページが開かれていた。
そこに、新たにシワが刻まれる。
ロアの手に力がこもったせいだった。
「まだ、受け止められないんだ。理性ではわかっているのに、俺の臆病な部分がまだその事実を拒否している。君もあれだけのことをしてくれたというのに」
クシャリ。
紙が握られる音と共に、ロアの顔が悔しげに歪んだ。
彼は己を責めるように、拳を自分の膝に打ち付ける。
「情けない、よなぁ。俺には泣く資格なんてないのに」
その膝の上に黒いシミが出来た。
涙がロアの頬を伝っていた。
必死に止めようと何度も拭うものの、何故か止まらない。
ロアは自らの目を強く擦った。
そのせいで目元が赤くなる。
ロアは嗚咽を漏らしながら、叫んだ。
「止まれよ。止まれってば」
俺には泣く資格なんてない。
罪を犯したのは俺なんだ。
被害者ぶって泣くなんていけない。
ロアはその一心で涙を止めようとした。
「止まれ、って」
「ロア」
エレナはより一層強く、ロアを抱きしめた。
片手でロアの腕を掴み、もう片方でロアの背を優しく叩く。
ロアは余計に泣き止もうとするものの、それは叶わなかった。
エレナはそんなロアに諭すように言った。
「大丈夫。ゆっくりでいい。まだ受け入れられなくてもいい。泣くのを我慢しないで」
「ダメ、なんだ。そんなの、逃げ、だろう?」
「いいえ。それは逃げとは言わない。キチンと罪に向き合っている証拠よ。しっかりその罪の重さがわかっているからこそ泣けるのだから」
貴方は大丈夫。
しっかり、罪を償える。
エレナはそう言い切った。
ロアはその自信たっぷりの暖かい言葉に、また涙が止まらなくなる。
しかし、今度は止めることはしなかった。
まるで小さな子供のように思い切り。
ロアはエレナの腕の中で、全ての思いを吐き出すように大声で泣き叫んだ。
「ロア、大丈夫。まだ貴方には未来がある。それがどれだけ辛いものであろうとも、そこには道がある。私もその貴方の道に交わった者。だから、私はずっと祈っている。貴方の未来に光があらんことを」