悪夢と贖罪
ロアは一人、暗闇の中に立っていた。
そこは闇以外には何もない場所。
ロアはそこを行くあてもなく彷徨っていた。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。
ロア自身、何のために歩いているのかわからない。
ただ、漠然とした「歩き続かなくては」という強迫観念に囚われていた。
そして、歩く、歩く、歩く。
遂にロアは歩き疲れて、足を止めた。
棒になりそうな足を投げ出して、その場に座り込む。
ロアは深いため息をついた。
「ここは、また」
そう呟く声には不安が入り混じっていた。
ロアは周囲を見回す。
だが、そこには一向に変わらぬ闇が広がるだけだった。
「ロア」
ロアが諦めて、再び立ち上がろうとした時だった。
不意にその背後から声がかかった。
ロアは聞き覚えのある声に、ビクリ目に見えて大きく肩を震わせた。
そして、恐る恐る振り返る。
「……父さん」
そこにあったのは懐かしい父の姿だった。
まだ優しかった頃のように、彼は優しく微笑む。
彼は笑顔のまま、再びロアに声をかけた。
「やぁ、大きくなったね。ロア。大分男らしくなったじゃないか。元気だったかい?」
「……なんで」
ロアは呆然と言った。
どうして、父がここに。
いや、なんで今更優しくなんか。
言いたいことは幾つもあったが、それが形を成すことはなかった。
唇を開いても、その間から溢れるのは掠れた息だけだった。
「なんでって、なぁ」
ロアの父は困ったように頬を掻いた。そして広い肩を申し訳なそうに縮める。
「ロア、まだ怒っているのか。まぁ、仕方ないよなぁ。俺はそれくらいのことをしたんだから。今更、戻って来るなんて都合のいい話があるわけがない。あんなの、言い訳にしかならない」
「何を、言って」
「父さん、ロア達には情け無い姿を見せたくなかったんだ。だから、立派になってから、またロア達に会いたかった。でも、そんなのただの自己満足でしかないよな」
「父さん、止めてよ」
そんなの聞きたくない。
ロアは切にそう願い、耳を塞ぐ。
こんなこと……残酷なこと言われたら、自分のしたことは何だったのかわからなくなる。
しかし、父は笑顔で話を続けた。
「だから、ごめんな。これからはお前達や母さんが楽できるように頑張るから。許してくれとは言わない。だけど、せめて一緒にいてくれ」
この通りだ。父は頭を下げた。
ロアは思わず後ずさってしまう。
優しい父が、憧れていた父が今目の前にいる。
そう思うほどにロアは罪悪感に苛まれた。
耳を塞ぎながら、咄嗟に謝る。
「ごめんなさい」
「なんで、お前が謝るんだ。俺が悪いのに。やっぱり、俺のことが受け入られないのか」
今度は父が悲しそうな顔をした。
ロアの胸がさらに締め付けられる。
もう一歩下がって、同じ言葉を繰り返した。
「違うんだ。ごめん。ごめんなさい、父さん。俺……」
「何も怯えることはないだろう。さぁ、一緒に行こう」
「ごめんなさい。俺、やっぱりどうしようもなくて」
「ロア」
父の手がロアに近づいてきた。
ロアはそれから逃れるように、身を引く。
「一緒に行こう」
父は尚もそう言い募る。
父の優しい笑顔がだんだん崩れていく。
怒りを堪えるかのような、苦しんでいるような。
一歩近づくにつれ、ロアの存在を認めなかった時の父の顔に近づいていった。
その場から逃げようとするロアの手を彼の父はガッチリと掴んだ。
「一緒に」
「……ッ!」
ロアが力一杯振り払おうとしても、その力は凄まじく、離れなかった。
息を飲むロアの前で、父の顔はドロリと溶け始める。
その溶けた黒い塊はロアに向かって襲い掛かってきた。
「クルンダッ!」
「ヒッ!」
ロアは悲鳴を上げた。そして、その場に尻餅をつく。
動けなくなったロアに闇が纏わり付いた。
「オマエモ、イッショニ!」
「父さん、ごめんなさい」
視界が闇に覆われ、手先が冷たくなる中、ロアは声を絞り出した。
声が出なくなっても、心の中で謝罪を繰り返す。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
意識が薄れる中、父の声が聞こえた。
「オレハ、オマエヲユルサナイ」
「うっ、くぅ」
ロアは呻き声を上げながら、ベッドの上で跳ね起きた。
目に浮かんだ涙と額に滲んだ汗を拭って、頭を左右に振る。
「また、あの夢か」
ロアは窓の外を眺めながら、ため息をついた。
満月は既に西に傾きかけていたが、まだ沈むまでには時間がありそうだ。
ロアが目が覚めたのは真夜中だった。
家の中もしんと静まり返っている。
ロアは足音をたてぬようにゆっくりとベッドの中から抜け出した。
同じ部屋の中では弟のトアが寝ている。
まだ小さいトアをこの時間に起こしては可哀想だ。
ロアはそう思い、物音に細心の注意を払った。
部屋の隅にかけられているコートを羽織ると、自室とリビングを抜け、外に出る。
これ以上は眠れそうにない為、気分転換をするつもりだった。
「あれからもう一ヶ月か」
ロアは村の外れにある丘を登っていた。
自らの白い息が立ち上るのを眺めながら、この一ヶ月のことに思いを馳せる。
この一ヶ月はロアにとって、かなり大変な時期だった。
溜めていた仕事を猛烈な勢いでこなし、悪質な借金とりを追い払い、ユリメールに行っていた間のアリバイ作りに奔走した。
幸い、父はよく村の者に恩を売っていたし、母も優しいと人気だ。
ロア自身もよく働くとあって、評判はいい。
皆快く、口裏合わせを承諾してくれた。
しかし、そこまでしたのにも関わらず、兵士達は来なかった。
いや、来たには来たのだが、それは只の父が亡くなったという知らせのみだった。
それどころか、あの時は追い回してしまってすまないとまで謝られた。
これにはロアも母も顔を見合わせて驚いたものだ。
ドールはよっぽど上手くやってくれたらしかった。
「でもなぁ」
ロアとしてはそれが釈然としなかった。
自分の犯してしまった罪は大きいハズなのに、誰も自分を責めてはくれない。
これでは、自分のしたことがないことにされているみたいで、ロアは怖かった。
何が、というと自分がその罪深さを忘れてしまうことだ。
こんな環境にいては、自分はいつかこの罪の恐ろしさを忘れてしまうのではないか。
そして、いつかはまた同じ過ちを繰り返してしまうのではないか。
それがロアにとっては酷く恐ろしかった。
「一体、いつまで俺はこうしていられるんだろう」
丘の頂上に着くと、ロアは腰を下ろした。
冬の枯れ草がロアの手のひらをチクチクと刺す。
でも、それ以上にロアの良心が痛んだ。
忙しいせいで最近は起きている間、そのことを考えずに過ごしていた。
しかし、何時までもそういうわけにはいかない。
その焦燥が毎晩、あの悪夢となってロアの前に現れていた。
「だけど、一ヶ月か。ドールとの約束ももうそろそろだよな」
あの小さな銀色の少女は一体、今何をしているのだろう。
あれから一ヶ月経つが、未だに彼女からの音沙汰はない。
果たして、大変な目に遭っていなければいいが。
そんな事を考えていたせいか、ロアはふと視界の端に銀色の光を見た気がした。
星や月の光に霜が反射したのだろうか、と思ったが、今度は草がカサカサと揺れた。
「あれ」
流石に気の所為ではなさそうだった。
ロアはその方向……丘を少し下ったところに目を凝らした。
暫く見つめていると、また草がカサカサと揺れた。
間違いない。
そこに何がいる。
ロアは思い切って声をかけた。
「誰だ」
「……ロア?」
僅かな間をおいて、聞き覚えのある声がかえってきた。
ロアは驚いて、立ち上がる。
すると、草陰からは見事な銀髪を持つ少女が現れた。
「ドール?」
「やっぱり、貴方だったのね。良かった」
その答えにロアも彼女が一ヶ月前に会った少女だと確信した。
ドールはほんの少し口元を緩めて、ロアの元に駆け寄ってきた。
「ドール、久しぶり」
「ええ。暫くぶりね。キチンと会えて良かった。」
間近に見る彼女は見るからにボロボロになっていた。
前に見た時には綺麗に整えられていた服は擦り切れ、酷いところは綿や金属が外に張り出していた。
ドールの酷い有様にロアは思わず言葉を失いかけた。
「その傷は一体?」
「ああ、これ? ユリメールでちょっと……ね」
大丈夫、とドールは手をヒラヒラと振ったが、どう見たって大丈夫そうじゃない。
ロアは慌てて、ドールの手を引いた。
「とりあえず、うちに来い。応急手当てをしよう」
「そうね。確かにこれは少し縫わないと大変かもしれないわね。貴方が心配するほどでもないけど」
ドールは肩をすくめた。
その仕草は前よりも人間臭くなっている。
ロアはそこに気がついたが、とりあえずは家に連れて行く事にした。
今ここで話すよりも、家の中の方が話しやすい、と思ってのことだった。
「さぁ、入って。小さい家だけど」
「お邪魔するわ」
ドールは恐る恐るといった様子で、家の中に入ってきた。
ロアは一足先を歩いて、椅子に座るように促す。
「ありがとう」
ドールは柔らかい口調で礼を言った。
そして、二言三言交わした後で、自らの傷を縫い合わせ始める。
ロアはその向かいに座って、暫くそれを静かに見守った。
二人の間にある音は鋏を開く音と、暖炉の火が爆ぜる音のみになった。
「ドール」
一時間程、そんな静寂に包まれた時間が過ぎた。
ドールが針を握る手際は良く、その頃にはもう殆ど作業を終えていた。
「なに?」
ドールは手元から顔を上げた。
ロアの視線がドールの鏡のような瞳に跳ね返った。
「その傷、どうしたんだ? 一体何があった?」
それが、この一時間、聞くに聞けなかったことだった。
ドールは前とは全くと言っていいほど、変わっていた。
仕草も、言葉の選び方も、表情の変化も何もかもが。
それにロアは戸惑っていたのだった。
ドールはロアの質問に自嘲するように儚く笑った。
一ヶ月前には出来なかった感情表現が少し上手くなっていた。
それでも、他人と比べるとその起伏は小さいが、ロアが感じ取るには十分だった。
「これ、ね。これは私の罪の証よ」
「罪の、証」
その言葉にロアはドキリとした。
自分が求めているものだ、と思った。
ドールはロアが繰り返した言葉に頷いた。
「そう。私はね、あの事件の処理を終えた後、貴方の父親と一緒にいた助手の婚約者と、その前に殺した人の家族の元を訪れたの。全てを打ち明け、謝罪するためにね。別に許してもらえるなんて、思っていなかった。ただ、私にはその義務があると思ったの」
「……ああ」
そういうことか。
ロアはドールが全て語り終える前に、傷を負った理由を察することが出来た。
椅子の背もたれに寄りかかって、板を張り合わせただけの天井を仰ぐ。
そして、ドールが言う前にその答えを口にした。
「その人たちに付けられたんだな」
「そう。前に殺してしまった人の家族には街を出るまで信じてもらえなかったけれど、助手の婚約者の方にはこの傷を付けられた。罵詈雑言と合わせてね。まぁ、当然よね。私はそれだけのことをしたワケだし、彼女にはその権利がある。そうでしょう?」
ドールは同意を求めるように首を傾げた。
ロアは何の反応も示さない。
しかし、彼女もそれを意に介さず、傷を愛おしげに撫でるだけだった。
何事もなかったかのように、また話し出した。
「彼女は泣いて、叫んで私を何度も殴った。あの人を返して。お前なんて殺してやる。そう言って。でも、私が死ねないのは貴方も知っての通りよ。それが三日三晩続いた後、彼女は呆然としていたわ。可哀想なほど窶れて。最終的に、彼女はなんて言ったと思う?」
ロアは分からずに素直に首を振った。
すると、ドールはフッともう一度笑った。
「貴女は死神なのね。だから、殺せないんだわ。少なくとも私では。でも、幸い貴女はこのことを許して欲しいようだから、もっと辛い罰を与えてあげる。……生きて生きて、生き続けて、あの人を殺した罪を償って。一生重い罪を背負ったまま、苦しんで生きなさい。決して、簡単に死ぬことは許されない。今日刻んだ傷がそれを何時までも貴女に警告を与え続ける。だから、貴女は逃げずに、それに向き合って……とね。そうよ、私は彼女に生きることを許容。いえ、強要したのよ」
「そう、だったのか」
つまり、彼女は今現在、生きること自体で罪を償っているのだ。
あれだけ自己証明にこだわっていた、この少女が。
その変化の元は恐らく、彼女が別れ際に言っていた通りだろう。
ロア達との関わり合いの中で、ドールは自分がしてきた殺しを罪と認め、戦うことを選んだのだ。
「そうか。ドールは」
しっかりと罪と向き合っていた。
それに比べて、自分はどうだろう。
ロアはそう思うと自分が情けなく思えてきた。
なんだかんだ言いつつも、ロアは逃げていた。
環境のせいだとか、忙しいからだとか何かしらの理由をつけて、それを遠ざけていた。
本当にその罪を償いたいと思うのなら、その償い方を自分なりにでも探してみるべきだったというのに。
ロアは我が身を振り返って、心底呆れた。
首を振って、頬を叩く。
自分は現状に甘えていただけだ。
そうとなればやることは一つ。
罪の償い方を考える。その一点に尽きた。
「俺はどうしていくべきか、だよな」
パッと思いついたのは死ぬことをだった。
随分短絡的な考えだとは思うが、目には目を歯には歯を、とも言う。
あながち間違ってはいないように聞こえた。
しかし、出来ればそれは避けたい。
家族のこともあるが、その最たる理由はドールの話があった。
ロアには今のドールの話が死ぬことは償うことを放棄する、ということであるような気がしたのだ。
ならば、その選択肢は消えた。
次に思い浮かんだのは、ドールと同じ償い方だ。
この場合、ロアはその婚約者の元に赴き、かつ父を失った家族……つまり、我が家に身を差し出さなくてはならない。
しかし、これもダメだ。
優しい家族はロアを罰しようとはしなさそうだった。
特に彼の母はそれを許さないだろう。
最悪、自分を罰しろと言う可能性もあった。
それに、婚約者のところへ行くのもあまり良いとは言えない。
先程のドールの話を聞くに、彼女は相当精神的ダメージを受けているそうだ。
そこにノコノコと出て行ったところで、彼女は混乱するだけだろう。
行くにしたって、暫く時間を置く必要があった。
「ねぇ、ロア。どうしたの?」
考えこみ黙ってしまったロアにドールは怪訝そうな眼差しを向けた。
ロアはそれに気が付いて、顔を上げた。
そして、少し考えた後、今の疑問をドールに向けてみる事にした。
自分なりの償い方を見つけた彼女なら、何かしらの答えをくれるのではないか。
そう、期待して。
「なぁ、ドール。俺、どうやったら償えるのかな」
「償うって、父親のこと?」
「ああ」
すると、ドールはそのまま時を止めたかのように動かなくなった。
ロアはドールに何が起こっているのか分からず、不安になる。
何も出来ずに数十秒が経過した。ドールが再び口を開いた。
「貴方が罪を背負う必要は無いと思うのだけれど」
「いや、そんなことはない。俺があの人を殺したようなもんだ。俺がドールに頼まなければ良かったんだから。ドールへの罪もある」
「それだって、私が勝手にやった事よ。私は別に貴方のせいだとも思っていないし」
そう言われれば、ロアも返す言葉が見つからなかった。
そもそも、二人の間であの事件に対する認識が違った。
ロアはそれを知って、落胆した。
「ドール、それでもなんだよ。俺がそう思う限りはこれは罪なんだ。だから、俺はそれを忘れてしまう事が堪らなく怖い。また、同じことを繰り返してしまうんじゃないかって」
ロアはそれを想像して、ブルリと震えた。
たった一人殺しただけでも重い罪なのに、また人を殺してしまう。
今回は直接的ではないものの、ロアはだんだん自分が人間じゃなくなっていく錯覚に囚われた。
ドールはロアの苦しげな告白を聞いて、また動かなくなった。
どうやら、この空白の時間は彼女が考え事をしている時間らしい。
また数十秒置いて、彼女は重々しく言った。
薄暗い闇の中、ドール瞳が暖炉の火を反射して光った。
「貴方は、そんなに罪を背負いたいの?」
「……ああ。その必要はあると思っている」
「本当に、その覚悟はあるの? 自己満足したい、なんて生半可な覚悟じゃ出来ないってこと、わかっている?」
「わかって……いるつもりだ」
「後悔、しないでよ」
ドールはそう言うと、何処からともなく一通の封筒を取り出した。
そして、それをロアの前へ滑らせる。
封筒は何の柄も書かれていない、シンプルなものだった。
「これは?」
「貴方の父親が書いたものよ。中身は自分で確かめなさい。もし、自分の中に甘い気持ちがあるのなら、今ここで燃やしてしまうことをお勧めするわ」
さぁ、どうする?
ドールの目が挑戦的に細められる。
厳しさを含んだその視線にロアはゴクリと唾を飲み込んだ。
ドールの瞳から逃げるようにツッと視線を落として、封筒を見つめる。
よく見ると封筒には厚さがあった。
一体、何が入っているのだろう。
ロアは暫しそれを思案した。
手紙だろうか、それともお金?
しかし、ロアはどちらも違う気がしていた。
手紙ならこの分厚さは考えられないし、ドールは父が「書いた」と言っていたから、お金もない。
とはいえ、それ以上の可能性もロアには思い付かない。
漠然とした嫌な予感の他には、封筒からは何も読み取れなかった。
ロアは一度、封筒を手に取った。
そして、ちらりと暖炉の火にも目を向ける。
「へぇ」
ドールはそんなロアの様子に興味深かげに呟いた。
ロアはガタンと音を立てて、立ち上がっていた。
ドールの目が追いかける先には暖炉がある。
ロアは部屋を横切り、暖炉の前にしゃがみ込んだ。