愛情と感情
「ここか」
「どうやらそうらしいわね」
ロアたちは今、父の所有だという、建物の前に来ていた。
あの騒ぎはまだ完全には収まっていないようで、人は町の中心にある現場に集まっているようだ。
町のすみにあるこの建物周辺にはまるで人気がない。
兵士たちもあの騒ぎを収めようと必死で、本格的な調査にはまだ入っていないようだった。
古めかしいながらも、頑丈なつくりをしたその建物に人の入った形跡がない。
ロアとドールは顔を見合わせると、鉄で出来た扉を押し開けた。
「ケホッ、ケホッ」
「大丈夫?」
「ああ」
中はホコリっぽかった。
ロアはむせかえりながら中に踏み込む。
扉から差し込んだ日が部屋の全容を明らかにしていた。
粗末な机、椅子、ベッド。
蜘蛛の巣が張られた天井からぶらざがるランプ。
母の姿は何処にもなかった。
「二階か?」
「そのようね。まだここにいるとは決まったわけじゃ無いけど」
部屋の奥には古びた階段があった。
試しに一段目に足を乗せてみると、キシリと微かにきしむ音がした。
これくらいなら抜けることはなさそうだ。
それでも、用心しながら一歩一歩慎重に上ってゆく。
ドールもそのあとに続いてきた。
「ホイッ、と」
ようやく全段を上りきると、二階の部屋に出た。
分厚い本がぎっしりと詰まった本棚、物が散らかった机。
その影で倒れる女性……。
その姿が目に映った瞬間、ロアは叫んでいた。
「母さんっ!」
転がるように駆け寄って、母の安否を確かめる。
必死に揺り動かすと、母は微かに呻いた。
「ううっ」
「母さん、大丈夫? 聞こえる?」
ロアが呼び掛けていると、母はうっすらと目を開けた。
焦点が合っていないようだったが、声でわかったのだろう。
掠れた声で呟いた。
「ロア?」
「そうだよ。母さん、俺だよ」
母の焦点が合いはじめた。
意識がハッキリしてきたのか、その表情が驚きに変わる。
「ロア、どうしてここに」
「母さんを助けに来たよ。大丈夫かい?……ドール、ナイフを貸してくれ」
ロアはドールからナイフを受けとると、母を縛っていた縄を切った。
母は解放されてからもまだ、状況が理解できていないらしかった。
「でも、あなたどうやって。それに、あの人は」
「全てドールに助けてもらった。もう心配はいらないよ」
そこで、ようやく母はもう一人の存在に気がついたようだった。
小さな少女を見上げて、首をかしげる。
「あなたは?」
「ドールと呼ばれている。彼の手助けをした」
「手助け……」
まぁ、信じられないだろう。
この少女が殺人鬼だときいても。
ロアだって、普段なら笑い飛ばす自信があった。
ましてや母は今目覚めたばかりで混乱している。
その結論に至る可能性は限りなくゼロだ。
「母さん、父さんはもういないんだ」
「あなた、さっきから何言っているの。母さん、よくわからないわ」
おそらく、今の言葉なら察することができたかもしれない。
しかし、母は惚けて答えた。
今度は信じたくないというのと、完全に情報を整理できていないとの半々だろう。
母さんはどう思うだろう。
この少女に頼んで殺してもらったのだといったら。
怒るだろうか。
悲しむのだろうか。
それとも、笑うのだろうか。
ロアはその先に起こりうるあらゆる結末を想像した。
なかには辛い未来もあった。
しかし、言わないという選択はない。
辛くとも父が死んだのは自分の罪だと理解していたからだ。
罪はこれから償っていかなきゃならない。
その為には一番近くにいた母には伝える義務があった。
「母さん。俺、父さんを殺したんだ。ドールに頼んでさ」
ロアは母の顔を見ることが出来なかった。
俯いたまま、自分の犯したことを告白した。
そして、母の裁きを待った。
「そう」
しばらく経って、返ってきた答えは短かった。
なんの感情も含まない淡々とした声。
どういう表情をしているのだろう。
ロアはそっと顔を挙げた。
「あっ」
母は泣いていた。
ボロボロと涙を流していた。
目が合うと母は優しく微笑んだ。
「ごめんね」
母が選んだのは謝罪だった。
てっきり、ロアは怒られる可能性が一番高いと思っていた。
母は震える声で続けた。
「私がしっかりとしないせいで、あなたをここまで追い詰めてしまった。本当にごめんなさい。あの人ときっちり区切りをつけて置かなかったから」
自分を責め続ける母。ロアは首を振った。
「いや、母さんに責任はないよ。自分が望んでやったことだ。結局は何も解決すらしていない。また、村に帰ってきて働きづめの毎日さ。母さんがいなきゃ、困る。ノアたちにはこれ以上苦労させたくない」
「そうね。ありがとう」
でも、と母は言った。
「もし、あなたが捕まりそうになったら、私が殺したと言うわ。それだけは許して。私はあなたの為に何もしてあげられないから」
ロアも泣いた。
思い切り、泣いた。
いままでため続けていた涙が次から次へと溢れでた。
母はそんな彼の頭をそっと撫でていた。
その傍ら、ドールは無表情でそれを眺めていた。
母を助け出すことに成功し、父が所有する建物から出て、数分。
ロア達はドールに連れられて、人目を避けながら街中を歩いていた。
「ねぇ、聞きました? 奥さん、今朝の事件のこと」
「ええ、聞きましたとも。殺人ですってね。物騒な世の中だこと」
「怖いですね。うちの子供達がそんな目に遭わなきゃいいのですけど」
「まったくです」
ロアの近くを通りすがった女性はそんなことを話していた。
決して自分達を見て話しているのではないと思っても、ことを起こしたのが自分達なだけに、どうもビクビクしてしまう。
隣を歩く母も顔色を悪くして、それを聞いていた。
「やっぱり、騒ぎになっているのね」
「うん。アレだけのことをしたんだから、当然と言えば当然だよ。それくらい、俺達は……いや、俺は罪深いことをしてしまったんだ」
ロアはそう言って、唇を噛み締めた。
母がそれを心配そうに見守る。
ロアは父が殺された瞬間のことを思い出していた。
遠ざかっていく父の背中。
その後ろに迫るドールの姿。
そして、あたりに飛び散る鮮血。
今思えば本当に一瞬のことだった。
ロアが想像していた父の死に様はもっとこう、苦しむ姿だった。
その末に今までのことを全て謝罪し、また優しかった頃の父に戻ってくれる、というような。
そんな淡い期待がロアにはあった。
もしかしたら、父が死ぬことは自らが本当に望んでいたことじゃないのかも、とすら。
全てが終わった今はそんな風に思っていた。
今となっては、もうどうにもならないことだが、ロアはそんな甘い幻想を抱いていた。
しかし、人の命はロアの想像以上に儚かった。
ロアの中にあった父はどれだけ落ちぶれようとも、やっぱり憧れで、天才の商人だった。
どんなに魅力のないものでも、父の口から溢れる言葉はたちまちそれを魅力的にしてしまう。
幼い頃のロアはよく、それを魔法のようだと感じていたものだ。
大きくなって、今の事情を知り、どれだけ父が憎らしくなってもそれ以上の憧憬が彼の中にはあった。
今ではロアの心にポッカリと空いた穴がそれを物語っていた。
ロアはそこで首を振った。
いや、今重要なのはそこではない。
確かに父には憧れていた部分はあったが、自分はそれ以前にとんでもないことをしてしまっている。
それから逃げず、受け止めなくてはならなかった。
自分は罪を犯してしまった。
それも、一つの存在を世の中から消し去るという、恐ろしい罪を。
そう思うと、ロアはこれからどうしていけばいいのかわからなかった。
これだけの重い罪を背負って、これからも今まで通りの暮らしを送るなんて、ロアには想像し難いことだった。
やっぱり、この街の兵に身を差し出すべきではないか。
その思いが胸の内にチラついたが、多分それでは母を支える人がいなくなってしまう。
エナ達が自分達で生きていけるようになるまでは、まだそういうわけにはいかなかった。
「ドール」
それに、ロアにはもう一つ放って置けない問題があった。
それは目の前を歩く銀色の少女のことだ。
彼女はロアの呼びかけに、少し間を置いた後で反応した。
何かを考えているらしく、先程から様子がおかしい。
やはり、自分がやらせてしまった殺人に何かしらの影響を受けたのだろうか。
ロアが不安に思っていると、ドールが振り返った。
「ごめんなさい。何か用?」
ドールは相変わらずの無表情だ。
しかし、短いながらも殺人という大きな出来事を共に乗り越えたロアにはそこにある僅かな変化に気がついた。
彼女の瞳には「迷い」があった。
それが何かまではロアには知り得ないことだったが、ドールは確かに何かを迷っている。
ロアはそう確信していた。
「ううん、少しドールのことが気になっただけだ。どこか不安そうだったから」
すると、ドールは僅かに眉を持ち上げた。
驚いている、とロアにはわかった。
「どうして、それを」
やはり、ロアの解釈はあっていたらしい。
ドールの言葉からはそれを察することが出来た。
ロアは一つため息をついて、尋ねた。
彼女に罪を負わせてしまったのは、他でもない自分。
少しでも彼女の力になれればと思った。
だが、それを聞く資格が自分にはあるのか、と問われればそれは違うような気もする。
ロアはそんな迷いを抱えていた。
しかし、それ以上にどうもこの少女のことが気になっていた。
「表情見てればわかるさ。ドール、何を悩んでるんだ?」
ドールは珍しく、この質問に口ごもる様子を見せた。
言っていいものか、戸惑っているらしい。
よっぽど動揺しているのか、今までに比べると感情が顕著に表れていた。
「え? ええ……そう。少し、考えていたの。今まで私のしてきたことを」
「やっぱり、俺の父親のこと、気にしているのか」
「そう、なのかもしれない。でも、違うのかもしれない」
「それって、どういう?」
ロアはドールの曖昧な返答にキョトンとした。
しかし、ドール自身もよくわからないのか、首を振る。
「なんと言えばいいのかしら。貴方の父親のことはそのキッカケだと言える。けど、その本質ではない。この意味、わかる?」
「うん? つまり?」
ドールの言いまわしは小難しすぎて、ロアにはイマイチよくわからなかった。
ドールは少し唸ってから、言い直した。
「つまり、私は貴方の今回の事件に対する姿勢を見て、少し考えさせられたのよ。こんなの、初めてだったから」
そう言って、ドールは俯いた。
ロアは何も言えない。
今度ばかりはドールの考えていることが何もわからなかったからだ。
何も言わずに、ロアはドールの言葉の続きを待った。
「私ね、今まで汚い理由ばかりで人を殺したいと願う人の仕事を請け負ってきたの。例えば、誰々があの事業に邪魔だの、自分を振った男を殺して欲しいだの。そう言う勝手な都合ばかりを見聞きしてきた。だって、自分の存在を証明する。私が人を殺すのはそれだけで十分だったから」
その気になったから。
自分をなぜ、助けてくれるのかと聞いた時、ドールが放った言葉だ。
あれを聞いた時はあまりに衝撃的だったものだから、ロアもはっきりと覚えていた。
そしてそれは、今も変わっていないらしい。
それが次の彼女の言葉で分かった。
「貴方を助けたのは本当にたまたまだった。ちょうど一つ仕事を終えた帰り、路地裏に隠れていた貴方を見つけた。その時に私は貴方が人を殺したがっていないことを察した。アレだけ苦しそうな顔をしていたんだもの。すぐにわかったわ」
ドールの言い方はまるでロアの内心を見透かしていたようだった。
あの時はロア自身、かなりナーバスになっていた自覚がある。
ドールにも揚げ足をとるような発言ばかりしてしまった。
そこにロアは一抹の恥ずかしさを感じながら、ドールの話を聞いていた。
「私はそこで、少し気まぐれを起こした。貴方のような優しい人間を私は見たことがなかったから」
「俺が、優しいだって?」
「ええ。少なくとも、私が見てきた中ではね。人を殺すということにアレだけ正義と、信念と、弱さと、儚さを持った人間は見たことがなかった」
あの時、私が受けた衝撃は凄まじいものだったわ。
ドールはそう語りながら、ロアにクルリと背を向けた。
そして、再び歩き始める。
それにロアと彼の母がついていった。
母はロア達のやり取りを黙って見守っていた。
「そうして、貴方に関わっていくうち、私は何度も貴方に予想を裏切られた。人間だと呼び、私の殺しを止めようとした。あまつさえ、説教まで」
そこで、ドールはフッと息をついた。
もしかしたら、今のは笑い声だったのかもしれない。
ロアはそんなことを考えたが、彼の目では今のドールの表情を見ることは叶わなかった。
「それで、オマケに私は見ることが出来なかった家族愛まで見せられて。本当に困惑した。私の目指していた人間はこんなに美しいものを持っているのかと、信じられなかった」
「ドール」
ロアはたまらず声をかけたものの、なんと言えばいいのか、続く言葉が出て来なかった。
今のドールの後ろ姿はそれくらい儚く見えたのだ。
吐き出された言葉は今までの彼女の苦しみが内包されていた。
「私の今までしてきたことは、やっぱり間違っていたのかしら。私の目指していたのは、結局なんだったのか。今ここにいる私はなんなのか。それが、もうわからないの」
微かに彼女の肩が震えたのがロアには見えた。
その声音も淡々としていたように聞こえて、少し揺れていた。
不安。
その二文字が今、彼女の小さな肩に重たくのしかかっていた。
「なぁ」
ロアは言った。
ドールが立ち止まる。
そこは日の射さぬ、暗い路地裏だった。
「もう、良いんじゃないか?」
「……どういうこと?」
「だから、もう。そんな自分の存在を証明するとか、難しいこと。考えなくても、良いんじゃないかって」
今まで黙って話を聞いていたのはロアの方だったが、今度はドールの番だった。
ドールはいかにも人形然とした仕草でコテンと首をかしげる。
ロアは急に人形らしくなったドールに苛立ちながら、言葉を続けた。
「君はただの人形じゃない。そうやって悩んでいる以上、そこには意思がある。ただの人形は意思がないから人形なんだ。つまり、君は人形じゃない。それを認める者もいる。だから、もうそれを証明する必要はないだろ」
「でも」
「それに、その考えに固執しているのは他ならぬ、君自身じゃないか」
「……そんなこと!」
「ある、だろ。現に俺は君をもう人形だとは思っちゃいない。一人の人として、君のことを本気で考えている。じゃなきゃ、こんなことは言わない」
ドールに反論の余地はなかった。
ドールは完全に黙り込み、ロアを見つめていた。
ロアはその視線を真正面から受け止めて、自らの思いを伝えた。
「なぁ、ドール。本当にすまなかった。俺の背負うべき罪を君に押し付けてしまった。これは永遠に許されざる罪だ。君には本当にひどい事をさせた」
「それは、いいの。私が引き受けると言ったから。貴方の罪じゃない」
「いや、俺には責任がある。俺が君に断れば良かっただけの話だったんだからな。責任をとらせてくれ。お願いだ」
「どういうつもり?」
「だから」
ロアはドールの手を取った。
そこから伝わる感触はまだ柔らかく、幼い肌だった。
ロアはそれをギュッと握りしめて、ドールに言った。
「俺たちと一緒に暮らさないか?」
「なっ、何を言って……」
ドールは少しの沈黙の後、僅かに口を開いた。
拒否の言葉へ唇が動く。
しかし、その前にロアの握る手に更にもう一つの手が重なった。
彼の母の手だった。
「私も賛成よ。貴女は私達の為に手を汚してくれた。貴女さえ良ければ、私も貴女の為に何かをしてあげたいの。だから、来てちょうだい」
「母さんもこう言ってる。どうだ、来てくれないか?」
「でも、私は」
「おいっ、見つけたぞ!」
ドールが何かを言いかける直前で、突如路地にそんな声が響き渡った。
途端、ロアの心臓が一気に跳ね上がった。
振り返ってみると、今来た道の先に兵士の姿があった。
やはり、外見は向こうに知られていたらしい。
まぁ、当然だろう。
ロアはともかく、ドールはすごく目立つ容姿をしている。
騒ぎが収束した後は、もうそろそろ兵士達が動き出す頃だと思っていた。
予定としては、その前に街を去ろうとしていたのだが、想像以上に時間がかかったせいで見つかってしまったらしい。
ロアは思わず舌打ちした。
「チッ、こんな時に」
「仕方がないわ、走って!」
ドールの掛け声を合図に、ロア達は駆け出した。
後ろからは数十人の兵士達がゾロゾロと追ってくる。
それをドールの助けを借りる事でなんとか、かわした。
「これから、どうする、つもり、だ」
ロアは上がる息の合間にドールに聞いた。
一方、対照的に余裕を見せるドールが答える。
「この先に、兵士のいない街からの抜け道がある。そこから貴方達は逃げて」
「貴方達って、ドールは?」
「私は、奴らの足を食い止める。ついでに、貴方達の疑いも晴らすから」
ドールのアレだけ軽い身のこなしと殺しの技術があれば、確かに兵士達の足を止めることは出来るだろう。
しかし、疑いの晴らし方はどうもロアにはわからなかった。
「疑いを、晴らす?」
「私に殺しを依頼してくる奴らのコネを使う。簡単よ」
ドールはハッキリした口調で言った。
確証はあるらしい。
それでも、ロアに一つ気がかりがあった。
先ほどの提案の事だ。
あれについてはまだ答えを貰っていない。
それを考えていると、行く先にその出口らしき通路が見えてきた。
時間は残り僅かだ。
ロアは思い切って、聞いた。
「ドール、さっきの答えだが」
ドールは少し沈黙した後、答えた。
「……一ヶ月よ」
「一ヶ月後、だな」
「ええ。それまで貴方達のところまで一度行くわ。でも、私には」
ドールが足を止めた。
つられて、ロアたちも足を止める。
背後に視線を向けると、かなりの数の兵士が見えた。
ドールが顎で先を示す。
「まだ、この街でやるべきことが残っている。だから、行って」
「信じてるぞ」
「ええ」
俺は母の手を取って再び走り出した。
銀色の髪を靡かせ立つ、少女を残して。