人間違い
職場の喫煙所には今、五人の人間がいる。各々煙とともに疲労やストレスを吐き出している。
私は彼らの機微を観察しながら、同じようにして煙草を咥えている。
「サエキ、この間船橋で女と歩いていたろ」
最年長のクシロという男が私に言った。めちゃくちゃに書きなぐったような皺を顔面に纏っている。太い眉毛で、眼光が鋭い。胡麻塩頭をごしごしと掻き毟ると、煙草の灰が散らばった。
「行っていませんよ」なるべく穏便そうに、にこやかに微笑み返す。実際にその場へ足を運んだ記憶もない。「記憶違いか、人間違いですよ」
「記憶違いとはよく言うな」すると余計な一言を付け加えてしまったらしく、クシロの顔は険しくなった。「俺はまだそんな歳じゃあねえ」
怒鳴り声は狭い喫煙所ではうるさかった。タノウエという次点の男がクシロを制する。他人の様子を窺うニホンジンらしい男だ。
煙草を灰皿に放り捨て、頭を垂れて非礼を詫びると、クシロは納得はせずともひとまず落ち着きを取り戻した。彼ほどの年齢になると、そのような部分に敏感になるのだろうか。私にはわからない。
「でも本当に、行っていないのですよ」
重ねて言うと、今度は怪訝そうな顔になった。忙しい男だ。
「確かにお前だと思ったんだがな」
顎に手をやり、クシロが唸っていると、黒縁眼鏡のキジマが「あ」と声を漏らした。タノウエは、今度はこいつか、というような表情を一瞬だけちらつかせた後、どうした、と聞いた。
「俺もこの間、サエキさんに似た人見ましたよ。というか、本人だと思って声まで掛けたんですけど、そっちは本当に人違いだったみたいです。サエキさんって呼んだ時振り向いたから本人だと思ったんですけどね」
「なんだあ、それ」胡麻塩が呟く。「俺もそいつを見たって言いたいのか?」
「いや、実際はどうかわからないですけど、他人の空似って意外と身近にあるんだなあって思ったんです」眼鏡を外しレンズを拭く。「サエキさんみたいな人って最近じゃあ多いですからね」
「いや」俯いたまま声を出したのは、長髪のトウサカである。「もしかしたらそれ、ドッペルゲンガーってやつじゃないっすか?」
「ドッペルゲンガー?」クシロは胡散臭げな声を隠そうともしない。「あの、見たら死ぬってやつか?」
「そうっす、それっす」トウサカもなおざりの敬語を、むしろひけらかす様に使う。「どうにも実際にあるらしいんっすよ、そういうの。世の中じゃあ神隠しとか言われてますけど、証拠もなく、また死体もないとなれば、人類ならざるものの手が」
「いやあ、ないだろう」言下に否定したのはタノウエだ。「非現実的すぎるよ」
「ロマンがないなあタノウエさんは」微笑みは、嘲笑だろう。「何が現実かっていう話っすよそもそも」
「脱線しているよ」口を挟む。「ともかく僕はそこへは行っていませんし、女を連れて歩くなんてことはしていませんよ。ドッペルゲンガーでも何でもいいですけど、完全なる人間違いです」
「どうだか」トウサカが笑う。「サエキさんって結構やり手っぽいからなあ」
「やめろよ」キジマが制する。「失礼だろ」
「まあまあ」タノウエが濁す。「そこはいいだろ」
「おっと」クシロは忙しなげに煙草を捨てると、「お前ら、そろそろ休憩終わりだぞ」
年長者らしく号令を掛ける。
私は手元の煙草を掲げ、
「あ、先行っていてください。僕、これ吸い終わったら行きます」
「お前は本当に貧乏性だな」するとクシロは腹いせか、皮肉っぽく言った。「わかった」
男たちは談笑をしながら喫煙所を出て行った。
そろそろこの地域においてサエキに成りすますのにも無理が生じてきたか。
クシロのような場合はともかくとして、キジマのように声まで掛けられると、いずれ私の個体名が本来サエキではないことが、露見する可能性がある。
ようやく馴染んできたところ、少々勿体無い気もするが、致し方ない。
私は隣を見た。
「君は本当に無口だな、フタムラくん。そろそろ僕らも行こうか」
最年少のフタムラは私を見てコクリと頷いた。
煙草がじゅっと音を立て濡れる。
これで、喫煙所にいた五人の人間は全て消えた。
『ニンゲンチガイ』 了