ライト兄弟・発現・罠
僕から五メートルも離れない位置に、それはいた。
咄嗟に身構えて、僕は尻もちをついた。くそ。右手にルイの短剣を持っていたせいか、ゆるんだ腕からアルがするりと抜けだしていった。しかし僕の首は前を見据えたまま、接着剤で固定したようになっていた。「鳥が……しゃべった」声にならない。
そいつは鳥類特有の俊敏な動きで首を振ると、〈浮いた男〉に言った。
「オレたちって、そんな有名だったかね?」
確かにそう聞こえた。甲高い調子はずれの鳴き声……とはいえ、オウムが真似たようなイントネーションではない。感情がこもっていた。これは、人間の喋りだ。その滑らかな口調が恐怖を誘った。
〈浮いた男〉は無言だった。ポケットに手を突っこんで仁王立ちしたまま――空の上――あの突きささるような視線で、ただひたすら僕らを見つめていた。
鳥は、黒く光る両翼を広げた。花びらが開くように羽先が広がる。近くで見ると、その色は完全な黒というよりも、ミッドナイトブルーに近い気がした。そうして、広げた羽をマントのようになびかせた。
「はじめまして、おふたりさん」
がちゃちゃん!
どうやって持っていたのか、羽の内側から、いくつかの金属が現れ落ちた。銀の短剣。
「危ないすなあ、うんうん。挨拶もなしにぶん投げるんだもんなあ」
「おまえ、鳥なのか?」滅茶苦茶な質問だろうか。
鳥は僕に視線を向けた。どきりとする。鳥だ。どこから見ても鳥だ。まぎれもなく。
「お兄さんさあ、おまえってのはナシ・ナシだぜ」まぎれもない鳥は言った。「いまさっき、そっちのナイフっ子が言ってただろ。聞いてなかったのかい」
そう言って、キツツキみたいに首を振る。僕は動かない首を必死にルイへ向けた。彼女はいつのまにか膝立ちになって、鳥をにらんでいた。
「おしゃべりな鳥。〈戻り〉なさいよ」ルイは言った。
「怪我は大丈夫かい。可愛い帽子がまだら猫になってるぞ。いやはや、あのショットはクールだったすな。ねえキミ、さっきのアレ、もう一度言ってくれないか。あの、いい感じの呼び名だ。どきりとしたね。それはそうとスカートの中、見えそうだぞ」
鳥はぺらぺらとしゃべりながら、羽をばたつかせた。
ルイは微動だにせず、しばし沈黙したあとに言った。
「あんたがライトでしょ」そして彼女は〈浮いた男〉に目を走らせる。警戒しているような視線だった。「噂通りなのね。ということは、上にいるのがライト兄弟の弟のほうかしら」
「クールだ! オレ達もそんな有名になったか」ライトと呼ばれた鳥は言った。「ライト兄弟っていい通り名だな。最高だ。噂通りってのが気になるがね。でもま、名前を知られるのは悪い気分じゃないすな」
「なんなんだよ、この鳥。知ってるのか?」僕はルイにささやいた。
「噂だけでね」
「そうだ、お兄さん。残念ながらオレは彼女を知らない。彼女はオレらのファンみたいだけどね。ご紹介いただいたとおり、オレがライトだ。そんで上のクソ無口なのが弟のシャイニー。お見知りおきを。お兄さんの名前は?」
「僕は、その――」
「――ばか。言わなくっていいわよ」ルイが言った。「気分悪いわ。さっさと戻ったらどうなの。変態カラス」
おしゃべりな鳥は嬉しそうに、くうう、と奇声をあげた。
「キミ、〈聖痕〉のひとりだろ?」
「だとしたら?」
「あんな連中のなかにも、こんな可愛い子がいたんだなってね。でも残念すなあ。キミに用はない」ライトは僕にくちばしを向けた。「オレらはこのお兄さんに会うためこんなトコまできたんだ。はるばるね。わかるだろ?」
「わたしもカラスなんかに用はないわ。悪いけど、この人はわたしの手で見つけ出したの。予約済み。さっさと帰ったほうが、時間が無駄にならずにすむと思うけど?」
「くうう、なかなかいうじゃん。嫌いじゃないね、そういう性格。きっと頭もきれるすな。でも学校じゃあ、近寄りがたいと思われるタイプだ」
「いちいちイラつかせるカラスね……。帰れって言ってるの」
「そうはいかないんだよな、これが」
ライトは人差し指を振るように、羽を振った。ちっちっち。
僕はめまいを感じていた。シュールな光景のなかで、平静にしゃべるふたりから発せられる確かな圧力。まず間違いなくふたりは互いに敵対している。銀の短剣を持つ手の震えが止まらなかった(柄の部分は汗でぐっしょり)。そういえば、アルはどこにいったんだろう。目だけを左右に動かしてみたが、視界に愛猫の姿は見えない。この鳥を獲物とみて、跳びかかろうとしてはいないか心配だった。
「なあ、ルイ。あんまり刺激しないほうが……」
「ケンくんは黙ってて」ルイはぼそりと言った。
ライトは顔を傾けた。
「なんだよ。まさか、まだ〈発現〉してないのか?」僕とルイを交互に見る。「お兄さん、ちょっと出してくれないか? ガツンとしたのでも、簡単なのでもオッケーだ」
僕はなにも言わなかった。ルイに制されたからではなく、ライトの言葉の意味がわからなかったのだ。なにを出せというのだろう?
ルイの目つきが鋭くなった。
「帰れっていってるのに。脳みそまで鳥並みなのね」
僕はびくりと手元を見つめた。持っている短剣が震えたような気がしたのだ。気のせいじゃない。微弱な電流が流れているようにも感じる。なんだこれ。
「ちょっと確認しただけじゃないか。やっぱり、まだなんだな」
「だったら、どうするの? いつもみたいに、無理やり見てから消す?」
消すってなんだよ、殺すってことか? 血の気が引く。なんていう会話だろう。僕は震える短剣を抑えこむように握りしめた。
ライトは鼻で笑った。鳥が鼻で笑うことができるのかは知らないが、少なくとも僕にはそう聞こえた。
「まったく! いやな噂が流れてるみたいすなあ。そんなことは滅多にないよ、うん。嘘偽りなく、ストレートに話そうじゃないか、なあ、キミ。いや、確か名前言ってたな。ルイちゃん? クールな名前だ。ルイちゃんって呼んでいいかな?」
「お好きにどうぞ」ルイは言った。「わたしは変態カラス、って呼んでいいかしら?」
「遠慮せずライトでいいぜ、ルイちゃん。オレらは、いつもどおり、決まりどおりに遂行しているだけさ。発現者を独りきりにするわけにはいかないだろ。だから観測されたら、一番近いやつが行く。今回はオレら。それでキッチリしっかり礼儀正しく確認して、使えるやつならスカウトする。駄目そうなら、迷惑をかけないようにする。もしかしたら、ルイちゃんの言うように消すことだってあるかもしれないな。……なんだか言い訳みたいになっちゃったか。でも残念だけど、それがルールだ。うちには助けるような力を持ってる使い手はいないしね」
「わたしたちに任せておけばいいのよ」
「取られちまうのは、もっとごめんだよ、うん。ところでさ、オレとしては、さっきからルイちゃんが垂れ流してるやつのほうが殺人的だとは思うんだけどね。……挑発かい?」
「わかった? わたしもストレートに言うわ。変態カラスの甲高い声を聞くのは、もうたくさんなの」
空気の流れが変わった。
涼しい部屋にいて、暑い外への扉を開けたときに感じる熱風に似ていた。どこからだろう。
僕は視界の隅で〈浮かんだ男〉――たしかシャイニーという名前――が動くのを見た。まるで舞い落ちる葉をスロー再生させたような奇妙な動き。
「なあ、あいつが――」
「――わかってる」ルイの頬には、赤みがかった汗が浮かんでいた。
「二対一だ。やめたほうがいいすなあ」ライトはまことに残念です、というように首を振った。「そのお兄さんが〈発現〉していれば、また別かもしれないけど。それにキミくらいならわかるだろ。オレらは、そこそこ強いよ。そう、キミに知られるくらいにはね」
「そうかもね。わたしの〈射手〉を簡単に掴むんだもの」
短剣の振動が強くなった気がした。
「いやいや。キミの〈境界属性〉はクールだよ、うん。いま何年目だい? 追ってくる刃物ってのはなかなか恐ろしいもんだ。でも、少しばかり直接的すぎるな」
そう話すあいだに、〈浮いた男〉ことシャイニーが赤いマフラーをはためかせながら、鳥の背後数メートルにまで降下してきた。
「ライト」
シャイニーが初めて喋った。その声はライトと正反対。マフラーごしでもよく通る、暗く低いバリトンだった。
「待ってろよ」ライトは肩をすくめた。羽毛の中に首を埋める。「いま彼女と会話を楽しんでるところだ、わかるだろ。お前と違って無駄に動かないんだよ、オレは。とくに、こんな可愛い子に――」
「――違う、ライト」
シャイニーが遮るとほぼ同時に、ルイの手が動いた。
わかった。そのとき、ふと気づいた。なぜ今までわからなかったのだろう。
短剣をまとう電流の震央はルイだ。間違いない。僕は彼女から発せられた、〈なにか〉を見た気がした。よくわからないが、これはきっと魔法なのだ。
かちん、という金属がぶつかる音。
床に散らばった三本の短剣が飛び上がって──光った。
弾けた、いや爆ぜたと言ってもいい。文字通り、短剣は粉々に散らばったように見えた。しかし、すぐにそれは間違いだとわかった。破裂したのでも粉々になったのでもない。短剣は、分裂していた。画像をコピー&ペーストしたように増えたのだ。それも気が狂ったようなペースト数。
「追うだけと思ってくれたなら幸いだったわ。時間をくれてありがとう」
ルイは立ち上がり、人差し指を銃口のように彼らへ向けた。
またたく間に子孫繁栄した短剣は、ライトを取り囲んでいた。百倍以上あるだろうか。一匹の鳥はその表情が見えないほど、完全に包囲されていた。遠目で見たなら、突如銀色の球体が出現したかのように見えるかもしれない。
そして短剣の先端は申し合わせたかのように、中心に向かおうとしていた。
まさに一瞬の出来事だった。
「お似合いの鳥かごね」
そう言って、ルイは指を跳ねさせた。