銀の短剣・浮いた男・黒鳥
結局のところ、それはルイが予言した時間から五分以上経たあとにやってきた。
「靴を履けってどういうことだ?」僕は言った。
「別に深い意味はないわよ。履いておいたほうがいいんじゃないかって思っただけ。壁とか窓が壊されたとき、危ないでしょ。すぐに逃げ出せるし」ルイはこともなげに言った。壁とか窓だって?
「ちょっとまて。壊されるってなんだ。うちの家が壊されるのか? その敵に?」
「そういう力を持っているなら。すくなくとも仕掛けてくるとき、家を傷つけないように、なんて配慮はしないでしょうね」
ゲームの魔法使いが、青い光線で家を黒焦げにしているさまを想像した。
「そういう力、ね。すこぶる破壊が好きなんだな、その敵とやらは。そいつも魔法使いなのか?」
「ええ、もちろん」ルイは肩をすくめて言った。
「でもなんで〈敵〉なんだ? おなじ魔法使いなんだろ?」
「話すと長くなるから、時間ができたら説明してあげるわ。そうね……ひとことで言えば、わたしには〈あいつら〉みたいな破壊癖はないってことかしら」
「説明は後回しってのばかりだな。その〈あいつら〉が、僕にとっても敵である理由もわからない。キミが僕の味方である理由と同じようにね」
「〈あいつら〉が仲間にとりこもうとしない可能性もないことはないわね。……でも、ケンくんがバカじゃなければ、これからくるやつを見たら理由がわかると思うわ」
今さらだが、この子は年上への言葉使いがわるい。
「なんだよそれ」
「お楽しみにってこと。で、どうするの。ここで待つ?」
「そんなこと言われたら、家の中なんていたかないな」
「だったらどこか──」
「──だとしてもだ」僕はさえぎった。心のなかで、これが夢だとしても、と前置きした。「家の外はなるべく避けたいんだ……特に今日は。猫を抱えながら近所を徘徊するのなんてごめんだね」
「どうして?」
「あのなあ。キミみたいな子には、まだわからないのか……。こんな平日に私服の男が、猫を抱えて地元を歩きまわってみろ。〈噂してください〉って書かれたビラを配るようなもんだぞ」
僕はふと、名優ブルース・ウィリスが〈黒人は嫌いだ〉というカードを持ったまま、ハーレムの真っ只中を歩かされていた映画を思い出した。ちょうどあんな感じの丸腰だ。
「なにそれ。よくわからないけど」ルイは困ったような顔をしたあと、天井を見つめた。「じゃあ……ここ、屋上はある? そこならまだ被害は少ないと思うし、わたしもやりやすい」
僕はルイと同じように天井を見つめた。しばらく黙りこんだあと、ため息をつく。
「そりゃあ、格別の譲歩だな」
そうして僕はアルを抱えて、ルイとともに家を出た。
外に出ても、意外なことにアルが家の中へ戻ろうと暴れなかった。家で飼いならされた猫だけに、いつもは玄関から外に出たがらないのだ。危険な〈なにか〉を察知しているのだろうか?
前を歩くルイは無言だったが、たまに僕の方を見て……いや、正確には僕の肩にいるアルを見て「いいコね」と頭を撫でていた。
「なあ、思ったんだけどさ……。敵とやらに構わず、さっさと車とか電車で逃げればいいんじゃないかな?」
そう聞くと、ルイは足を止めて僕を見た。無感情の中に、かすかな哀れみの眼。
「そうね、うまくいけば逃げられるかも」ルイは言った。続けて「わたしだけならね」とも。そう言うと彼女は再び僕に背を向けて、屋上目指して階段を登っていった。
屋上へ続く扉は、固く閉ざされていた。
ばかでかい南京錠が鉄格子同士を堅く結びつけている。あざみたいに赤さびが不規則に浮かんでいた。なにか芸術的なひとつのオブジェに見えないこともない。なつかしい、と思った。ここへ来たのは子どものころ以来だ。
「上から乗り越えるしかないぞ、ここ」僕は南京錠を引っぱりながら言った。やっぱり開いてないか。アルが肩にあごをのせたまま「にゃぅ」と言って、尻尾を振った。「むかしは上の隙間からすり抜けて、こっそり屋上で遊んだもんだよ」
「ちょっと、どいて」
ルイは猫耳ニットの位置を直しながら言った。鍵をちらっと見て、ぶつぶつとなにかつぶやく。そしてそっと鍵を撫でた。
ごとん
溶け落ちたかのように、錠前はコンクリートの床へ転がった。
「魔法なのか、それも」僕は床の錠前をつま先で小突いた。きれいに解錠されている。「万能だな、魔法ってのは。泥棒でもなんでもやり放題じゃないか。なあルイさん、これのやりかた、教えてくれないか」
「くだらない。こんなシンプルな鍵だからできただけ。それにわたし、こういうのも得意じゃないし」
「なんなら得意なんだよ?」
「あとで見れるわ。たぶん」
ルイはそう言って、扉を押した。ぎいぃぃん。嫌な音だ。
屋上には苔や雑草、鳥のフンがそこらじゅうにあった。落下防止用の柵も赤さびが浮いている。昔はもっと綺麗だったと思ったんだけどな。
柵を通して、音羅洲町を見下ろした。僕の住む十四階建てのマンションは、この辺りで比較的古い建物だが、もともと町には高層建築物が少ないせいか、そこそこ遠くまで見とおすことができた。空は不気味な黒い雲が全体を覆っていて、太陽光を完全にさえぎっている。まるで時間がわからないな。
僕は眺めるうちに、奇妙な町の変化に気づいた。公園の木が、まっぷたつに折れている。それも一本や二本ではなかった。それに屋根瓦が吹っ飛んでいたり、アンテナがおかしな方向に曲がっている家もあちらこちらある。なにか大嵐が過ぎ去ったあとみたいだ。
突如、抱えたアルの爪が肩に突き刺さった。
「いてて。痛いよ、アル。ばか」
「にゃーう」
「来た」ルイは言った。
「え?」どこに?
僕はアルを引きはがしながら、彼女の目線を追った。
空中。
空の向こう――飛行機じゃない――雲の隙間に黒い点が見えた。
「なんだよ、あれ。飛んで……マジで?」
「ケンくん。気をつけて」ルイの声色が変わった。
「浮いてるのか?」
黒い点はじわり、じわりと大きくなってきていた。近づいてきているのだ。
人間……だと思う。少なくとも、飛行機や気球の類ではない。どんな原理か、生身の人間が浮いて、飛んでいた。百メートルは離れているだろうか。遠くてどんな顔なのかわからない。黒点からは、なにか布のようなものが、ひらひら風になびいているように見えた。
「誘ってるのかしら」ルイは言った。
「なあ、飛んでるぞ、あいつ。あれも魔法か? 空飛ぶ魔法使い?」
「慌てないで。ただの〈空乗り〉よ。なんてことないわ。誘ってるなら、わたしにとっては好都合かも。でも――」
「なんだよそれ。そらのり?」
「質問はあと。ひとり少ないのが気になる」
「そういえば。そんなこと言ってたな」敵の到着時間を読み間違ったみたいに、人数も間違ったんじゃ?
「あのね、人数までは間違えないわよ」僕の心を読んだかのような返答。まさか魔法で読心術までできるんじゃないだろうな。「なに? 顔に出てんのよ、まったく。たぶん、もう一人は隠れてるわね。罠に誘ってるのか、なにか向こうから仕掛けようとしてるのか」
「これからその、戦う……のか?」
「当然」
「魔法で?」
「その予定」
「あいつ、近づいてきてるぞ」
「ねえケンくん。ちょっと黙ってて。集中したいの」
「黙れっても……どうすんだよ」
僕の声は心なしか震えていた。心臓が高なっている。この異常な状況に起因しているんだ。非日常。眼前に魔法使いがいるのだ。浮いて、飛んでるぞ。夢でなければなんだ? 純然なファンタジーだ。どきどきしない理由がないだろ?
ルイは首をかしげて、ポケットに手を突っ込んだ。
「待たれるのって、嫌いなのよね」
そう言うとポケットから、先ほど〈つくりだした〉ナイフと、大量の鍵が掛けられた――銀塊みたいになっている――鍵束を取り出した。じゃらじゃらと小気味良い音がする。
「それ全部、あのナイフに変わるのか?」
「アレばっかりじゃないけど、だいたいは」ルイはそう言いながら鍵束をベルトにくくりつけた。そして僕に一本のナイフを手渡した(今度は投げていない)。「持ってて。アルバートちゃんに当てないようにね」
ずっしりと重く、冷たい。金属の感触。本当に銀でできているのかな。
「こんなのもらって、どう、どうすりゃ?」僕はどもりながら聞いた。
「銀の短剣よ。身を守るのに使って。それにあなたも……ま、いいわ。あとで話す」
「僕がなんだって?」
ルイは僕の質問を無視して、またあの聞き取れない言葉を唱え始めた。もしかしたら、これはなにか呪文みたいなものなのかもしれない。彼女は上空の――距離はもう五十メートルといったところか――〈浮いた男〉を見つめた。そいつも、こちらを見つめていた。
表情が見える位置まで〈浮いた男〉は降りてきていた。僕よりずっと若い。着ているのはどこか学校の制服だった。端整な顔立ちだが、神経質そうな目をしている。眉間にしわを寄せているように見えた。なんといえばいいだろう。川で溺れる子ども見ても、助けようとせずじっくりと眺めていそうな人間。
僕は初めて会う相手を見て、こいつと一緒にゲームをしたいか、という観点で人間を切り分けることがある(ばかばかしい判断だとは思う)。僕の脳みそはひと目見るなり、こう告げていた。〈浮いた男〉とは、ゲームなんてもってのほか。
男からのびた、ひらひらした布みたいなものは、やたらと長いマフラーだった。色は赤。まだマフラーをするような季節でもないのだが、男は首周りをターバンみたいにぐるぐると覆っていた。口元が見えないぶん、男の表情を読み取ることは難しかった。ばたばたと風になびくマフラー。色は赤。血のような赤だった。
ルイは、なにかを振り落とすかのように右手を下ろした。
──と同時に、指と指の隙間に鍵が現れる。一本、二本……三本の鍵は、僕が二度目のまばたきをしたときには、輝くナイフへ変化していた。
はじまる……投げるのか?
ルイはナイフを持つ腕を振りかぶり、男に背中が見えるほど腰をひねった。まるでピッチャーの投球フォームだ。
「つらぬいて。〈銀の射手〉」ひゅん、という風をきる音。
投げた。
ルイは〈浮いた男〉めがけて、ナイフを投げた。
思わず、うまいと思った。事実ルイのナイフはすべてが刃を相手に向けて、まっすぐ飛んでいる。完璧に刺さる速度と角度だった。
〈浮いた男〉はそれを見て、反応した。
無重力状態になったかのように、ふわりと静止する。なにをする気だ?
途端に、そいつは右方向へ並行移動した。これが〈空乗り〉なのか。
「ブレイク」
ルイは右手を払った。
それに合わせて、まっすぐ飛んでいたナイフがきれいな弧を描く。
コースに乗せられているかのように軌道がかわった。魔法がかかってるんだ。
ナイフはなおも男を追った。ホーミングナイフ。
〈浮いた男〉は、ナイフがすぐそばにきても表情をかえなかった。
いった、と思った。
男は肩を払った。不意に──手品師がハトを出すように──手の裏側から一羽の鳥が現れた。最初から肩に止まっていたかのようだ。
その鳥は、大きさを除けばカラスにそっくりだった。男と鳥の対比は、むかしテレビで見た鷹匠を思い出した。しかしそれよりも黒い鳥は一回りでかい。魔法で出したのか?
鳥は男の肩から、予備動作もなく飛びたった。
それも飛んでくるナイフに向かって。
「まずい」
ルイの声が横から聞こえた気がした。
一瞬の出来事だった。
黒鳥は弾丸のように突進しながら、みごと対面するナイフすべてを掴みとったのだ。
そして飛んだナイフを超える速度で〈浮いた男〉の周りを滑空した。まるで竜巻だ。鳥の種類に詳しいわけではなかったが、こんな速度で飛ぶ鳥なんて聞いたことがない。
鳥はみるみる速度を上げていった。もはや影みたいなものが、視界の中で揺れ動いているようにしか見えなかった。
「なんだこれ。いったいなにを」
「ケンくん!」ルイの叫び声が聞こえたと同時に、黒鳥が消えた。「うしろ!」
「えっ、なに──」
僕は彼女の方を見て──
いない。
ルイは僕の横から姿を消していた。
「ルイ!」どこへ!?
があん! という金属がぶつかる音。まさか。僕は背後を見た。
ルイは扉のそばにうずくまっていた。今のは彼女がぶつかった音か?
僕はルイに駆け寄った。僕の背中では、アルが痛いほど爪を食い込ませていたが気にならなかった。頭から血を流している。よかった、意識はありそうだ。
「おい、大丈夫か。どうしてこんな……怪我してるぞ」
「油断した」ルイはうめき声をあげながら体を起こした。「ギリギリで防げたわ。どこもイッってない」
「でも血が。すごい出て……やばいだろ」猫耳型の帽子に真っ赤なしみが広がっている。
「最悪。こんなときに……ライト兄弟」
「え?」
なにを言ってるんだ?
「光栄すなあ」
背後から男の声がした。心臓が痛いくらい高鳴った。
振り向くと、そこにはあの黒い鳥がいた。
声はどこから──
「なあシャイニー。こいつら、おれたちのこと知ってるみたいすな」
鳥が、しゃべっていた。