鹿羽ルイ・法環・凶報
立ちこめた煙は消え去り、部屋は何事もなかったように元の状態を取り戻していた。引田天功よろしく突如眼前に現れた――しかも土足でだ――奇妙な威圧感を持った少女を除いて。鹿羽ルイと名乗る少女を除いて。反射的に僕が思ったのは、いたってどうでもよいものだった。変な名前。
しかし僕は、そんなまぬけな考えよりも、さらにまぬけなことを浮かべていた。脳内は彼女が放った一言で、破裂しそうな風船みたいになっている。
聞き間違いではない。彼女は飼い猫だけでなく、僕の名前をさらりと当ててみせたのだ。なにか喉が締め付けられるような気分がした。そう、僕は〈アルが彼女へ話したんじゃないか〉と思っている。どうかしてるぞ。
「なに? 目を丸くして。あんたの望みどおり、きっちり名乗ってあげたのよ」
鹿羽ルイは片頬の口角を上げ、品定めをするかのような表情だった。なにかをたくらむような、喜怒哀楽の範疇に入らない微笑。落ち着け、たかだか名前を呼ばれただけだろ。
「なんで――なんで、僕の名前を?」僕は不安を悟られないように声を張り、ルイと名乗った少女を見つめた。「それにだ、聞いてるのは名前だけじゃない。お前はなんで僕の部屋にいるんだ? どこから、どうやって入ってきた? まさか強盗なのか?」
「ねえ、ちょっと」鹿羽ルイはさえぎるように言った。「わたし、名乗ったでしょ。きちんと名前で呼んでくれないかしら。それに、なぜここにいるかも答えたわ。聞いてなかった? わたしがここにいるのは、あんたが私を〈転移〉させたから。それだけよ。〈これ〉を使ってね」
そう言って、彼女は手に持ったディスクを警察手帳みたいな仕草で僕へ向けた。ディスクに書かれた文字のようなものは、疑う余地がないほど、その輝きを増している。僕はうめいた。
「だから、いったいなんなんだよ。その――」
「――法環」彼女は間髪入れずに答えた。
「ホウカン?」なんだそれ。
「ばかみたいな顔しないでよ」僕の言い方が間違ってたのか、気に障ったのか、彼女は眉をひそめた。無意識に背筋を伸ばしてしまうような、サディスティックな視線だ。「知らないなんて。法環を使った人間が、こんな無知だなんて初めてじゃないかしら」
「まったく初耳だね。そのナントカと……お前がどう関係するんだ?」
「だ・か・ら。お前じゃないわ。名前で呼びなさいよ」彼女はぎろりと睨みつけた。
「ああ」僕は喉になにか詰まったようになった。「どういう関係なんだ? その、しかばね、るい……さん?」
「ルイでいいわ。特別にね、ケンくん。たぶん、年上みたいだから。それに、今後はもっと呼び合うことになりそうだし……」
〈ルイ〉は肩をすくめ、落ちこんだように、僕から目をそらした。
「今後――?」
「だまって」ルイはぴしゃりと言って、あらぬ方を見つめていた。
じりりりん!
僕はびくりとした(足元のアルも同じようなリアクションを見せた)。
「なんだ?」
突然部屋に金物をこすりあわせるような甲高い音が響き渡った。なんの音だ?
じりりりりん!
音はローテーブルから聞こえてきた。聞き覚えのあるこの音色――思い出した。これは、昔の電話の音だ。携帯電話にある着信音、黒電話の音だ。僕は、まさかと思った。
やはり音の出どころは、僕のスマートフォンだった。おかしい、さっきは電源も入らなかったのに。壊れていたんじゃなかったのか。
ルイは「はあ」という、大きなため息を吐いた。怪しく光るディスクをパーカーのポケットにしまいこんで、僕のスマートフォンを拾いあげる。
「おい、それ――」
ルイは黙ったまま、すっと人差し指をたてた。〈ばかみたいな顔〉の僕にも、その意味は理解できた。――静かにしてろ。
じりりり!
そのとき僕はそれに気づいて、違うかたちの驚きで身体が硬直した。
ルイが持つスマートフォンの液晶画面には、なにも映っていなかった。
黒い画面。
僕のスマートフォンにあの着信音があったか、設定していたかは覚えていない。なにせ買ったばかりなうえに、電話がかかってくることなど、無いにひとしいのだ。ただ、着信があったとき、なんらかの通知が画面上に表示されることくらいは知っていた。どんなスマートフォンだってそうだろう? しかしルイの手にあるスマートフォンは、なにひとつ光を発していなかった。漆黒の画面。
じりりん!
ルイは冷めた表情で、耳に携帯電話をあてた――それに合わせて、お待ちしておりました、とでもいうように黒電話の音はぴたりとやむ。彼女がどこかボタンを押した気配はない。
「わたしよ」
ルイは言った。もちろん僕にではない。イカれたはずの携帯電話に、語気も荒くしゃべりかけているのだ。僕は呆然と、その光景を見つめていた。
「ここ? どこか知らないわ。うん、室内。……あのね、聞いてた話と違うじゃない。知ってたの? 女性だって聞いてたんだけど」
聞いてた話? 女性? そもそも相手は誰だ?
「知らないわよ。どこかで手違いか、なにかの〈揺らぎ〉が起きたんじゃないの?」彼女はそう言って、僕をちらりと見やった。「わかってる。時間もないしね。もちろん伝えるわよ。は? わたしに聞かれたって、わからないわ。これから。……ええ、そう。悪かったわね、のろまで。まだなんにもしてないし〈あれ〉も見てない。ぜぇーんぶこれからよ、うるさいな」
ルイは、壊れたスマートフォンに向かって、不機嫌そうにしゃべっていた。
それを見て僕は、まだ仕事をしていたときを思いだしていた。
あれは、この上なく病んでいたときだった。たしかこんな風に人前で、電源を切った携帯に喋りかてけたこともあったっけ。なんであんなことしてたんだろう。よくよく思い返してみると、どうかしていたな……。
僕のイカれた仕草に比べれば、鹿羽ルイのおしゃべりは、本当に誰かと会話しているように見える。しかし、まさかひとりで――あのときの僕みたいに――なにもない空間としゃべっているんじゃないだろうな。猫と壊れた電話相手におしゃべりする、見知らぬ女。そう思うと、背筋がぞくっとした。
「大丈夫。これが初めてってわけじゃないし。子どもにだってわかるように、きちんと説明するわよ」
お前だってまだ子どもだろ。
それが聞こえたかのように、物言いたげな目でルイは僕を見つめた。
「うん、そっちもね」話はおしまい、というようにルイは耳から〈壊れたスマートフォン〉を離しかけ……手を止めた。「うそでしょ。いつ?」
ルイは〈壊れスマホさん〉の言葉に、心底驚いていた。いや、うろたえているという表現が正しいのかもしれない。号外だ。気になって仕方がないな。
彼女は何度か頷いたあと、唇を噛んだ。
「本当? 間違ってたら承知しないわよ。……わかったわ。なんとかしてみせる」そう言うと、スマートフォンから耳を離した――というよりも、力なく腕を垂らしたように見えた。大きなため息でぽつりとつぶやく。「グッドラックってところね」
「なあ、おい……」
「ああ、これ返すわ」
ルイは僕に向かって、スマートフォンを放り投げた。
「おいちょっと」僕は胸に当たったそれを――うげ、という声がもれる――地面すれすれでキャッチした。アルがスマホの動きを目で追いながら、尻尾をばたつかせていることに気づく。
僕は「ふざけるな」と言いかけてから、スマートフォンにさっと目を落とした。そうだ。
電源ボタンを押してみる。
しかし黒電話の音はおろか、なにひとつ反応がなかった。なんでだ? 僕は唇を歪めて、ボタンを埋め込もうとするかのように押し続けた。反応なし。案の定、先ほど僕が診断したとおり、ばっちり壊れていた。これはただの薄っぺらな黒い板だ。
「くそ、あれはじゃあ……なんでだよ」
鹿羽ルイは、僕の懸命なチャレンジをつまらなさそうに見ていた。
「ねえ、ケンくん……。忙しそうなところ悪いんだけど、予定が変わったの」
「なあこれ、いま話して、使ってたよな。壊れてなかったよな?」
「ああ、それ壊れてたんだ? 知らなかったわ。まあ、この部屋で〈起動〉したなら有りえる話か」ルイはひとり納得したように言った。「さっきの続きなんだけど――」
「――あれは誰と話してたんだ?」僕は電源ボタンから指を離して問いかけた。「本当に、繋がってたのか、これ。独りごとじゃあなく?」
「ひとりで喋ってどうするのよ?」ごもっとも。
「だって壊れてんだぞ。いまだって。見ろよ、これ。おま――ルイさんが触ったときだけ言うことをきくってのか?」
「ルイでいいって」彼女は思いつめたような表情で言った。「あのね……そのことも、わたしがここにいることも、しっかり説明してあげたいんだけど、そうもいかなくなったの。……やってくるわ。逃げるか、戦うかしないと」
「やってくる? なにが? 逃げるとか戦うってなんだよ?」
本格的にヤバい種類の人間なんじゃないだろうか、こいつ。僕の声は震えていた。
「たぶん、〈偵察〉のうまいやつがいるんでしょうね。って言っても、法環の活性化ってけっこう目立つんだけど。最悪を考えると、逃げるってのはあんまりよくないかな……」
そう言うとルイは、ポケットをごそごそやりはじめた。彼女は〈あのディスク〉、いわく〈ホウカン〉とやらを取り出すと、こちらを見ずに投げつけてきた。またか。僕はフリスビーのように回るディスクを受け止めた。今度はナイスキャッチ。この子はものを渡すときに、ぶん投げるのが癖なのか?
「大事に持っておいてよ」
「じゃあ投げるな――あつっ!」
びっくりした。火傷するほどではないが、ディスクはみずから熱を発していた。ルイは僕の声に目もくれず、ポケットから鍵を探り出していた。あの鍵、なんと言っただろう。溝にそってぎざざざした型の入った、ごく普通のタンブラー錠に使う鍵だ。ピッキングしやすいとかで、最近は使われなくなったとか。ネットニュースで見た記憶があった。
ルイはなにか呟くと、鍵を空中に弾いた。きん、という音。
もうこれ以上驚くことはないと思っていたが、そんなことはなかった。
なんとルイが弾いた鍵は、空中でくるりとまわり、緑の燐光を発したかと思うと、銀色の短いナイフになったのだ。そうして彼女は柄の部分を見事に受け止めた。お客様、種も仕掛けもございません。
「嘘だろ……手品?」
手品だとすれば恐ろしいテクニックだ。ルイは僕の目と鼻の先で、鍵を剣に〈変身〉させて見せたのだ。いともあっさりと。手品じゃないとすると、いったいなんだ? 僕はその答えを出すことにためらっていた。信じられない。
「さてと。どこかなあ。どうか近くありませんように」ルイはナイフの先端をゆらゆらと揺らした。
「どうやって……」
僕は呆けたように言った。よくよく考えれば、これは危ない状況かもしれない。こっちは丸腰。目の前には意味不明な方法でナイフをだした女。僕は、ほとんど無意識のうちに少し後退し、足元にいたアルにぶつかった。
「気をつけて」彼女はそれを見て言った。お前がな。
「おい、なんなんだよ、そのナイフ。いきなり、どっから出した?」
ルイは答えず、器用に人差し指の上へナイフをのせた。
「まじかよ」僕は口の中が、からからに乾いていることに気づいた。ナイフが動き始めたのだ。ルイの指の上でひとりでに。まるで方位磁石のようにまわり始めている。
「苦手なんだよなあ」そう言って、ルイはぶつぶつとなにかをつぶやきはじめる。かろうじて、最後の言葉だけ聞きとることができた。「……〈銀の斥候〉。お願い」
その言葉に反応するようにナイフはくるりと向きを変えた。
「最悪。二人だわ。しかも速い。あと五分はある……かな? んん、もう。やっぱり駄目ね。こんなときマキさんが居てくれたらなあ」
「二人って? なにが五分なんだ?」
ルイは、ナイフから僕に目を移した。なんだよ、その残念そうな表情は。
「ケンくん。いい? 時間がないから、必要なことだけ話すわ。誰か知らないけど、もうすぐ、ここに敵がくる。しかも二人」
「敵? なんだよ敵って」
敵なんて、ゲームの中だけでしか聞かない単語だ。この引きこもりである僕に、どんな敵がいるっていうんだ?
「関係ないって顔ね。残念でした。たぶん彼らの目的はふたつ。〈法環〉と、あんたよ」
「法環ってこれだよな?」僕はホッカイロより熱くなっているディスクをつまんだ。「僕が目的ってなんだよ、敵ってまさか警察? なんも心当たりないぞ」
「警察ならいいけど。ううん、あんまり善人とは言えないタイプだと思うわ。たぶん、あなたを査定にくるのよ。品定め。で、気に入らなかったら……消すでしょうね」
とんでもないことを言ってくれる。
「ばかばかしい。消すって、殺すってことか、おい。殺し屋が僕目指して向かってるってのか。笑っちゃうね」僕は虫を追い払うようにディスクを振った。「とにかく、出てってくれないか。このディスクが欲しいならくれてやるよ。こんな意味がわからないことに、なんで僕が――」
「黙って。時間がないわ。ケンくんが〈法環〉を使ったのは間違いないの。なぜなら、そこに書かれた〈境界文字〉は、起動したあんたしか見ることができないから。わたしは起動されていることがわかるだけ。それだけでじゅうぶんだわ。……それに、もともとその〈法環〉は、わたしのだからね」
「このディスク、キミのなのか?」
光る文字を見つめた。僕にしか見えないって?
「そう。最後まで起動が完了すると、わたしが呼ばれるように〈境界飛び〉のトリガーをかけておいたの。……かけたのはわたしじゃないけど」
「言ってることがさっぱりだけど――なにかの間違いじゃないか? このCDは、鈴木さんていう子がくれたんだ。その子がやってるバンドのCDだって。僕に聞いてほしいってさ。そう言ってもらったんだ」
「鈴木……」ルイは、なにか思いつめた表情を浮かべた。「その人はどこ?」
「知らないよ。さっきテレビで、彼女が行方不明だって見たんだ。だから――」
「――わかったわ。もういい。近くに来てる。ここまで近ければ、なにを使わなくたってわかる。あとひとつだけ話すわよ。ケンくんにもわかりやすく」
あせっているのか、ルイは切り詰めたような話し方だった。
「僕は、関係なしじゃいられないのか?」
「残念だけどね。いい? ケンくんはチケットを手に入れたの。文字通り、魔法のチケット。法環を使ってね。あれがあんたを認めた。いま、あんたの身体はふたつの世界をまたがっているの」
「魔法……ふたつの世界?」
「ケンくんは、権利を得たのよ。すぐ後ろにあるけど、普通の人は絶対に辿りつけない場所に行く権利をね。〈いなくなった大地〉……正しい名前かわからないけど、そう呼ばれてる。つまり、こういう表現って、わたしは好きじゃあ無いんだけどな……平たく言うとね、もうケンくんは魔法使いなの。あの文字が見えたときから」
でたぞ、と思った。ルイは、僕がためらっていた答えをあっさりと言ってのけた。
聞いたか? 魔法使いときたぞ! いまいましくも愛おしい想像の世界へようこそ。夢ならはやく覚めやがれ。
僕はまばたきを繰り返した。どうやって、CDを聞いただけで魔法使いになれるっていうんだ? 頭の中に〈スピードリーディング・魔法使い用〉というパッケージが浮かんで消えた(もちろん表紙は三角帽子に山羊ひげの男だ)。こんなふざけた話は、ゲームの中だけでお腹いっぱい。しかもこいつは、クソゲーと言われる部類のやつだ。クリアする気も起きない駄作。制作者を見つけたら、ぶん殴ってやりたいと思うクソゲーだ。
「なるほど、魔法使いね。そりゃ嬉しいな。子どものころからの夢だったんだ」
「完全な棒読み……信じてないわね。そりゃそうか」
「当たり前だろ。そんなふざけた話、信じろってのがおかしな話だ。魔法なんて、ゲームとアニメで飽きるほど堪能してるよ。こりゃ長い悪夢だろ。キミはなんかのアニメに出てきたような顔をしてるしね。どこだっけ、なあルイちゃん?」
「なんだかむず痒い、というか気持ち悪いわね……ま、たしかに夢なら最高かも」ルイはポケットから、銀の懐中時計を取り出して時間を見ていた。十代の女の子にしては渋いコーディネートだな。「いいわ。わたしも最初はそうだったし。すぐに信じるようになる。嫌でもね。明日まであなたが生きてたら、わたしが色々と話してあげるわよ」
「まあ、夢の世界なら大丈夫だろ。よくわからないけど、まかせろよ」
僕はすでに八割方、現状を夢だと思っていた。明晰夢ってやつだ。
「まだ言ってる。ご自由に。……もうじきわかるわ。さあ、用意して」
「敵とやらがお出ましか。オーケーオーケー。……で、用意ってなんだ?」
「ここで待ち受けるのは、やめた方がいいとおもうんだけど。外に出たくないなら、せめて靴だけでも履いておいたら? それと――」
「それと?」
「それとアルバートちゃんを、しっかり見ていてあげて」
次回予定
ケンとルイのふたりは、〈ライト兄弟〉と呼ばれる敵と対峙する。
その戦いで、ケンは知ることになった。ルイとその〈魔法〉を。
忌憚なきご感想お待ちしております。