ゲーム・CD・法律
『警察は、なんらかの事件に巻き込まれたものと見ており、昨晩から今日にかけての足取りを――』
僕は〈現在〉に引き戻された。
あのときかいたものと同じような汗が脇を這う感じがした。
「うそだろ」
僕は持っていた皿をダイニングテーブルに放り投げて――がちゃんという音がしてチキンバーが皿から落ちた――自分の部屋に駆け込んだ。
何年も掃除をしていないゴミ置き場と化した机の上を見る。そこにはあの家電量販店のマークが入った、ダークグレーの袋があった。あれだ。
僕は無言で眉をひそめながら、袋を持ちあげた。
軽い。袋のなかはからっぽだった。
「あれ……?」
思わず声をあげた。なんでないんだ?
僕は自分の城である、汚い六畳間を見まわした。扉の近くにはアルバートが顔だけをのぞかせて、こちらを見ていた。なにか探しものかね?
あった。なんでさっきは気づかなかったのか。
放り投げたゲームコントローラーの脇に、うすっぺらい白のケース。覚えていないが、あそこに置いたらしい。
僕はそれを手にとってまじまじと見つめた。これだ。このCD。なんの変哲もないただのケースだが、それでも行方不明となった鈴木さんの持ち物に違いなかった(もう鈴木、かっこ仮ではない)。もしかしたら重要な手がかりなのかもしれない。ひょっとすると、最後に会って話をした相手は自分かもしれないぞ。大変なことかもしれない。
――と、そこまで思い、僕は首をふった。
ばかばかしい。冷めた目をした自分が、頭の中でふんと鼻をならした。
行方不明といったって、ただの家出かなにかかもしれないじゃないか。みただろ、あのショルダーバッグ。家出用に違いない。それにだ、考えてもみろ。お前ごときに渡してしまってもいい代物なんだぞ。なんともないただのCD。ゴミ箱に行くかそうでないかの違いでしかないんじゃないか。きっとそうだ。
心臓のギアが、急に落としたかのように萎えていった。
確かに。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
僕は彼女の言動になにか気になるところがなかったかどうか、必死に思い出そうとした。といっても、ある意味で彼女の行動すべてが、僕にとって気になるものだったといえた。人のゲームをふんだくって、説明書を読むほどゲーマーだったなんて知るわけがない。だいたい、僕自身が〈女の子相手に会話する〉ことが稀有な事例なのだ。
さっきのニュースキャスターが、言っていたことを思い出そうとした。なにを見つけたって言っていたっけ? くそ、きちんと聞いておくんだったな。
これを警察に渡すべきだろうか? 僕は白いケースをしばらく見つめたまま考えた。
たいしたことじゃなかったら、恥をかくかもしれないぞ。
こんな安っぽいCD一枚でなにがわかるというのか。
もう警察は同じものを持ってるかもしれないじゃないか。
どうするべきだろうか。
自嘲めいた笑みが顔を覆う。呼応するように腹がごろごろなった。さっきのピザ、悪くなってたのかも。食べなければよかったな。
「どうするって?」僕は腹をさすりながらつぶやいた。
君子危うきに近寄らず。触らぬ神に祟りなし。どんな表現だっていい。
いつ間違いに気づかぬまま、腹を下すかわかったもんじゃないってことだ。
なにもしない。そしてそれが、いつもの僕だ。それでいい。どうするべきかを考えるなんてまっぴらごめん。面倒に関わることなんてない。よって僕は平穏。証明終わり。
僕はため息をついて、CDケースを開けた。理由があったわけではない。閉じられたケースが手の中にあったからという、単純な無意識の脊髄反射みたいなものにすぎなかった。しかし、その中を見て僕は、目を見開いた。
小さな「えっ」という声がもれる。
そこには昨日――ちがうぞ、一昨日だ。もはや僕の大部分は、〈自分が丸一日寝てしまっていた〉ことを認めはじめていた。
そこには、一昨日買ったはずのゲームディスクがあった。
CDケースのディスクを収める場所に、なぜかゲームディスクがあったのだ。鈴木さんからもらったCDが入っていなければならない場所に、最新ゲームのディスクがはまりこんでいたのだ。指紋ひとつないディスク。表面には、豪華なオールドゴシックでゲーム名がプリントされていた。
なんでだ?
しばらくのあいだ、僕は硬直したまま、そのディスクを見つめていた。部屋の外から、アルの鳴き声が聞こえた気がした。
僕は針で刺されたかのようにびくり、とテレビを見た。ばかな。
正確にはテレビの下に設置されたゲーム機を。置かれっぱなしのゲーム機には、ほこりが薄くかかっていた。まさか。
僕はゲーム機に近づき、震える手で取り出しボタンを押した。
聞き慣れた音とともに、ゲーム機の電源が入る。うぃーんがちゃがちゃ。黒くずんぐりとしたゲーム機は、舌を出すようにディスクを排出した。
もちろん予想していた。そして実際、思った通りだった。ディスクを置くスペースには、表面を白く塗装されたディスクが鎮座していた。かの鈴木さんが、僕に渡したCDケースに入っていたものに違いない。少なくとも、僕はこんな柄のディスクは持っていなかった。
頭のなかで大きな〈?〉が、大渦に巻き込まれたかのようにうねっていた。同時に頭の中で、過去ゲーム機に白いディスクを入れた自分がいないかと探しまわった。しかし、汚れた部屋と同様、わが記憶の海は、混沌の様相を呈していた。思い出せない。僕は右手に持ったままのCDケースと、吐き出されたディスクをかわるがわる眺めた。
「落ち着け。よく考えろ」
声に出すつもりはなかったが、応答するかのようにアルバートが鳴き声をあげた。
僕はひとつだけ、納得いかないことがあった。
まったくもって納得いかず、信じられなかった。
部屋をこんなゴミ溜めみたいにしている僕だが、〈ゲームの管理〉だけは違う。しきたりのような、管理体制をしいていた。こればかりは、子どもの頃から変わらない。『箱から出して遊んだゲームソフトは、別のものにとりかえるとき、必ず元の場所へ戻すこと』――僕のきまり。厳格なる〈法律〉だった。親からは、その几帳面さを掃除や他のことに生かせないのか、と呆れた顔で言われたものだ。少なくとも今まで、一度たりともそれを破ったことはないはずだ。
しかし目下、その法律は目の前で破られていた。ディスクがここに――わけのわからない安っぽいケースに――入っているわけがなかった。ありえないことだ。僕なら、絶対にやらない。なにがあろうとも。
僕なら?
背筋を羽毛で撫でられたかのような、ぞくりとした感覚。ばかばかしい。僕以外ありえないだろ? この家には僕だけだ。いや、僕ひとりと一匹だけだ。仮に誰かが入ってきていたとしても、ディスクを取り替えるだけの押し込み強盗なんて聞いたことがない。
理解不能だった。
すでに、このCDケースを警察へ持っていくという考えは、どうするか悩んでいた自分の姿ごと、宇宙の彼方に消え去っていた。わが頭脳は枠にとらわれない自由な推理を展開し、幽霊や宇宙人という稀有な存在まで容疑者に入れる寸前だった。
「わからない。……なあアル、どういうことだろう」僕は近くに擦り寄ってきていたアルを撫でながら言った。「お前は、どこのどいつが入れたか知ってるか?」
「にゃーう」
ご飯ももらって、元の鳴き声に戻ったアルは、頭を撫でられゴロゴロと喉を鳴らした
「そうか。お前には、どうでもいいことか」
僕は鼻で笑った。確かに、どうでもいいことだ。
人生で初めて、自分で決めた〈くだらない法律〉を破ってしまったというだけのこと。寝過ぎたせいで、きっとまだ脳みそが覚醒していないのだ。もう少ししたら思い出すだろう。
僕はゲーム機が吐き出したままのディスクを取り出そうと手を伸ばした。
手を伸ばしたまま、静止した。
目を細める。
ディスクの白い表面になにか光っている気がしたのだ。
なにか書かれてるのかな。ディスクの周りを取り囲むようにして、きらきらとした文字のようなものが見えた。僕はディスクには触れず、顔を九十度傾けて、その文字を読み取ろうとした。
「英語?」
なにかの文字には違いなかった。しかし日本語にも英語にも見えない。例えるなら学生時代、世界史の資料集で見た〈くさび形文字〉に近い気がした。英語を下手くそに書くとこう見えるのだろうか。鈴木さんなりのデザインなのかもしれないな。脳裏に彼女のパンクなファッションと、笑顔が浮かんできた。
おそらく僕は、このCDに入った曲をゲーム機で再生していた。
やりたくてしょうがなかった最新ゲームを放っておいて、音楽なんか聞こうとしたのはなんでだろう?
どんな曲だったかも思い出せない。本当に記憶喪失なんじゃなかろうか。
僕は取り出そうとして伸ばしたままの手で――入ったままのディスクを再びゲーム機の中に押しこんだ。ゲーム機は出したままの舌を引っこめた。うぃーん、ごくり。
別になにか思うところがあったわけではない。興味本位だった。それにもしかしたら、このCDの曲を聞けば、ぼんやりとした記憶がはっきりするかもしれない。〈音楽で記憶を呼び覚ます〉なにかそんな話を過去にネットで読んだ気がした。……付けくわえれば、最新ゲームを差しおいて、僕のゲーム機に居座っていたものなのだ。〈行方不明の鈴木さん〉が、僕に聞いてほしいと渡していったものなのだ。気になるじゃないか?
ゲーム機はディスク旋回音を軽快にひびかせた。
テレビの画面がぱっと明るくなった。そうか、スイッチが入ったままだったのだ。画面には再生を示す傾けられた三角形が表示され、CDは自動再生された。
そして、それは起こった。