ゲーム・猫・ニュース
気持ち悪い。
僕が目を覚ましたとき、一番に思ったことはそれだった。
声はでなかった。喉がはりついたように乾いている。二番目は水をくれ、だ。
ここは、どこだ?
ほんの一瞬だけそんな考えが頭をよぎる。
首を動かしてわかった。見慣れたテレビ画面とゲーム機、〈壁に貼られた〉少女の笑顔。自分の部屋だ。僕は汗だくでソファに寝転んでいたのだ。これが見当識を失う、ということなんだろうか。でもなんで自分の部屋で見当識を失うんだ?
ゆっくり体を起こすと、ばきばきと身体中から乾いた音がした。こんな枯れ木を踏みしめるような音がするというのは、相当だぞ。何時間眠ってたんだろう? 閉めきったカーテンの隙間から光は見えなかった。壁の掛け時計を仰ぐ。時計は十六時四十分で止まっていた。役立たず。
ごとん
床に、なにかが落ちた。ゲームのコントローラー。ゲームをしていたんだっけ?
なにひとつ思い出せなかった。なぜだろう。
いつもはしないことだけど、コントローラーを握ったまま寝たのかな。
そう思いつつ、僕はコントローラーを拾おうかと手を伸ばし――
「って……!」
ばきばきという音とともに激痛が走った。
筋肉が硬直しているんだろうか。そろそろと体勢を元に戻す。ため息をつくと胸の奥が痛んだ。肺の筋肉までが、久しぶりに運動しましたとでも言ってるかのようだった。
そうだ、と思いポケットからスマートフォンを取りだした。ズボンに押し込まれていたスマートフォンの画面は僕の汗なのか、若干湿り気をおびているような気がした。電源ボタンを押す。……画面は暗いままだった。何も映らない。充電切れ、か。僕はため息をついた。今は充電器に差しこむ動作さえする気になれない。
それにしても、いったい僕の体はどうなってしまったんだろう? なにかひどい病気だろうか。筋肉痛にしては痛みが身体中に及んでいた。脳卒中かもしれないぞ。頭のなかでなにかがささやいた。ばかばかしい。まだ二十代だぞ。でもお前は、フツーの二十代とは比べ物にならないくらい怠惰な生活だろ? ネガティブな考えがムクムクと湧き上がると同時に、恐怖が襲ってきた。
どうしよう。救急車? 誰か、とにかく誰かを呼んで――
「母さん?」
声をはりあげた。
母親からの返答はなかった。
そこで、順番に扉を開けるかのように記憶がよみがえってきた。ああ、そうだった。母さんと父さんは旅行にいってるんだ。くそ、なんでこんなことを忘れてるんだ? ひとりになった家のなかで、悠々自適にしていたじゃないか。
僕の声に反応したのか、猫のアルバートがドアの隙間からするりと入ってきた。首輪のしゃりんという音。彼は鼻をひくひくさせながら、僕のほうを見つめてきた。
「アル」
僕がそう呼ぶと「なうん」という甘えた声を出した。僕の脚に自分の頭をこすりつける。その声で僕は理解した。なるほど、もうアルのご飯の時間なのだ。アルは、餌をねだるとき「にゃあ」とは言わず、この鳴き声になる。母さんは、この声が「ごはん」と聞こえるんだと言っていた。餌の時間だととすれば、寝ていたのは数時間くらいだろう。
アルの頭が脚に触れるだけで、硬直した筋肉は悲鳴をあげたが、僕は意を決して屈みこんだ。痛みが脳天から足先まで突き抜けた――でもいいぞ、動けるじゃないか。大丈夫だ。きっと脳卒中なんかじゃない。僕はゲーム機のコントローラーを拾いあげて、ペットボトルや、スナック菓子の空き袋が散乱したローテーブルに放り投げた。アルはその音にびくりと反応して、音の方向を凝視した。
「ごめんごめん、ご飯だな。ちょっとまってよ」
ご飯という言葉に反応したのか、アルはまたあの「なうん」というなき声をあげた。
ゆっくり立ち上がってみる。体の痛みやしびれが、薄まりかけていた。僕は首を左右に揺り動かしながら――ばきばきという音も小さくなっていた――スマートフォンを充電器に差し込んだ。
しばらく待ち、電源を入れてみた。
反応なし。
「あれ?」
「なうん」
「ちょっと待ってろよ」
もう一度、押してみる。完全に沈黙。嫌な予感がした。電池パックを外してから、付けなおしてみる。効果なし。壊れたのか? 二ヶ月前に変えたばかりなのに。
「まじかよ、くそ」思わず声が荒くなる。
なんどか同じことを繰り返し、いらいらして諦めた。わがスマートフォンは鏡にもならない、ただの板きれになっていた。
どうせ誰からもかかってこないし、まだ保証期間だ。なんてことはない。
僕はいらいらした自分に言い聞かせた。この役立たずを、思いきり壁に投げつけたい衝動にかられたが踏みとどまった。そのせいで保証がきかなくなったらどうする? それにこれ以上、部屋の壁に〈むしゃくしゃの結果〉――つまり壁穴を増やしても、またどやされるだけだ。
「ついてないな」
僕はソファに沈みこんだ。アルバートは尻尾を振りまわしながら、僕の隣でひたすら顔をこすりつけていた。頭を撫でる。
「なうん」
「そんな腹減ってるのか」
そう言いつつも僕自身、とんでもなく腹が減っていることに気がついた。僕はローテーブルの上にあった〈ピザポテト〉の袋をのぞき、ひとかけらも残っていないことを確認した。どのみち喉が乾いていたから、スナック菓子など食べる気もしなかったのだが。
僕はリビングで、リッターサイズのコーラを口の中へ直に流しこんだ。こんな喉の乾きは、学生時代のマラソン大会以来だ。リビングの時計は動いていた。短針は五を指していた。やっぱり夕方だ。
「やっと落ち着いた――」げっぷ。
そうしたあと、二日前にデリバリーした食べ残しの冷えきったピザと、かちかちになったチキンバーをかじりながら、アルバートにキャットフードを与えた。アルは実に不味そうなキャットフードが入った皿に、一心不乱で頭をうずめていた。
「そんなに腹が減ってたのか。いっつも寝てばかりのくせに」
僕はテレビの電源をいれた。
ちょうど午後のニュースがやっていた。
『九月十四日、夕方のニュースでした』
なんだ、終わるところか。そう思い――
「十四日?」
もぐもぐやっていた口が半開きのまま止まった。
聞き間違いだろうか?
いや、確かにそう言っていた。おかしいな。たしか、十三日じゃなかったか? 僕は壁のカレンダーを見た。十六日の部分には赤いマジックで丸がついていた。勘違いじゃない。十三日だったはずだ。ただ本当のところ、最近はあまり日付を意識してはいなかった。覚えていたのは、ごくごく簡単な理由だ。ひとつはゲームの発売日だったこと。もうひとつは、両親が旅行から十六日に帰宅することを知っていたから。昨日の朝もこうやってピザを食べながら、あと四日ものあいだ、小言も言われず自由に大音量でゲームできる、そう心踊らせていたじゃないか。
『FNNから夕方のニュースです』
テレビでは地元放送局のローカルニュースが始まった。キャスターの女性は当たり前のように十四日のニュースです、と告げていた。やっぱり僕の記憶違いなのだろうか?
『――では気象予報士の有田さん、昨日から今日まで音羅洲町で起きたあの異常気象、やはり原因はわかりませんか』
「えっ」思わず声が出た。
音羅洲町と言った。間違いない。
僕はかじりかけのチキンバーをのせた皿を持ったまま、テレビに近づいていった。ピザは口の中からいつの間にかいなくなっていた。
ローカルニュースとはいえ、自分の住む地域がキャスターの口から出てくるなんて、奇妙な感覚だった。テレビから町の名前を聞いたのは、初めてかもしれないな。
『そうですねえ。私もさっぱりわかりませんよ』
べっこうのメガネをかけた、歯並びの悪い男が腕を組みながら頷いた。
『専門家も頭を悩ませているとか……』
『はい、はい、そうですね。現地での証言が多数得られていることも考えあわせますと、集団で勘違い――などといったことも考えづらく――』
なんの話をしているんだろう? うちの町のことだよな。僕はテレビのむこうで盛り上がっている話題と自分の町との共通点が見いだせなかった。さえない気象予報士は、なにやら竜巻とか雷、台風の話をべらべらとまくしたてていた。さっぱりだ。
いつの間にか食事を終えて満足しきったアルバートが足元に絡まってきた。
「おいアル、これってなんの話だ?」
猫は名前を呼ばれてこちらを見たが、なにも鳴かなかった。余は満足だ。
『では、引き続き調査を進められる、ということですね』
テレビではこちらの疑問がまったく晴れないまま、淡々と進行していた。窓の方を見やると、夕暮れの空は紅く輝いていて、雲ひとつなかった。
異常気象……ね。僕はコーラを流しこんだ。
『――つぎのニュースです』キャスターは原稿をめくった。『昨晩より捜索願いが出され行方がわからなくなっていた、音羅洲町在住の女性、鈴木秋穂さんのものと思われる所持品が、黒須川近くにある病院の屋上で発見されました』
僕は、漫画のキャラみたいにコーラを喉につまらせた。
記憶のフタがまたもや狙いすましたかのように開いたのだ。
再度自分の町がニュースになったから驚いたわけではない。テレビに写った、〈行方不明の女性〉の顔を見て、心底驚いたのだ。信じられない。
あいつだ。
いつの写真だろうか。引き伸ばされた写真の中で、笑顔でVサインをしている女性。僕は彼女をよく知っていた。いや、知っているといっても、仲がいいとか、近所だとかそういうことじゃあない。
僕は、キャスターが行方不明だと言っている女性に会っていたのだ。
しかも、昨日……違う、今日が本当に十四日だとしたら、一昨日の朝だ。
『発見されたものは、鈴木さんのものと思われる手帳と、指輪などのアクセサリー類です。発見現場の屋上は普段ですと施錠されており立ち入ることができないようになっています。警備員が開いている扉を確認し――』
僕の脳内で誰かが再生ボタンを押した。