出発準備
お出迎えの場合、普通に行軍していれば済むというものじゃない。 皇王族を警護している時は知っておかねばならない手順やしきたりというものがある。 馬に乗る順番から始まって、走る速度、道で歓呼の群衆があった場合の対応、貴族の供応があった場合の受け答え、不測の事態があった場合の避難、優先順位などなど。
聞いて知っている者はかろうじていたが、俺に限らず北軍でそれを実際にやった事がある者は一人もいなかった。 そこでヘルセスの馬丁であるアタマークが俺達の行軍の指導にあたる事になった。
アタマークはごま塩頭。 顔を見た感じでは六十に近いと思う。 だけどあの動きの素早さ、切れは下手な若者を凌ぐ。 近衛で馬丁を勤めて三十年。 それから公爵家に来て十年経つとヘルセスが言っていた。 俺は知らなかったが、馬好きなら必ず知っている馬の調教師として有名な人なんだって。 その道では師範みたいな人らしい。
ある日俺の部下がアタマークの噂をしていて、フロロバが通りがかりの俺にもついでに教えてくれた。
「小隊長、もうお聞きになりました? アタマークって馬語が話せるんですって」
馬語? つまり、馬の言葉って事だよな?
「どういう意味? 馬は話せないだろ」
「例えばですね、馬以外誰もいない所で何かを話したとするでしょ。 するとその話はアタマークに筒抜けなんだそうです」
「それってしゃべっている間アタマークが側にいた事に気が付かなかった、てだけなんじゃないの?」
「小隊長。 疑うなら御自分で試してみればいいです。 確かに馬しかいない場所で自分しか知らない話をして御覧なさい。 絶対アタマークに知られちゃっているから」
このお出迎え前の準備で忙しい時にそんな馬鹿な事試している暇があるもんか。 ちょっとは気になったけど。 本当かな、とかさ。
本当だったらどうだって訳じゃないけど。 そういう才能って羨ましいだろ。 俺は馬の扱いに長けている訳じゃない。 その所為か、時々馬のホマレにすねられると言うか。 ちゃんと言う事を聞いてもらえない事があるんだ。 そんな時、どうしたんだよー、何が不満なんだよー、て馬に聞けたら便利だよな。
と言っても、ホマレは俺の持ち馬じゃないんだけどさ。 馬の持ち込みなら許されているが、そうすると世話をするのは自分の責任となる。 馬を買う金はあるけど、それでなくても俺の身の回りの世話を全部一人でやってるトビに、このうえ馬の面倒まで見させるのは気が引けた。 もう一人従者を雇う金はあるからトビがうんと言えば雇うが、どの人もトビのお眼鏡に叶わなくて。
それで俺は軍の共用馬に乗っている。 その場合本当ならどの馬に乗れるかは選べないんだけど、なんとなくホマレは俺専用みたいになっているんだ。
ホマレは特に足が速いという訳じゃない。 でも気分のムラがあまりなくて安定している。 流鏑馬とか狩りで馬を走らせながら弓を射る時に言われなくとも一定の速度を保つ事が出来る賢い馬なんだ。
ところがその日、ホマレは何故か、ふん、お前なんかどっかに行っちまえ、みたいな不貞腐れた態度を見せた。 いつもだったら俺も、勘弁してくれよー、ほら、お前の好きなりんごやるからさ、と御機嫌を取る気持ちの余裕もあるんだが、毎日お出迎えの特訓続きで疲れていらいらしていた。
「くそったれ。 馬肉にされたいのか!」
俺の憎まれ口を理解したはずはないのにホマレはますます強情になって踏ん張る。 無理矢理言う事をきかそうと苦労していたら、そこに厩から出てきたアタマークが近寄ってきた。
ホマレの首や顔をなでながら、なんかもごもご囁いている。 するとホマレが、ぶひん、ぶひんと返した。
「若。 馬肉は少々きついお言葉じゃなあ」
そうアタマークにしみじみと言われ、ぎょっとした。 アタマークは今まで厩にいたんだ。 どんなに耳が良くたって馬場にいて話していた俺の声が届いたはずはない。 これが噂の馬語? ホマレの通訳をしてくれたのか? 恐るべし!
俺は慌ててホマレに謝った。
「あ、今言ったの、本気じゃない! 嘘。 ごめんな、俺が悪かった」
だけど一言謝ったぐらいでは足りなかったようで、ホマレが更に、ひひーん、ぶひぶひと鼻を鳴らした。
「昨日、若が来るのをずーっとお待ち申し上げていたのにのう」
「えっ?」
そう言われて初めて、一昨日俺はホマレに、明日一緒に走ろうな、と約束した事を思い出した。 でも書類を決済してくれだの、あれが足りない、これが壊れたとか、色々あってさ。 一日中駆けずり回り、結局馬場に来る時間は作れなかったんだ。 それがすねてた原因なの?
「そ、そのう、昨日は忙しくてな。 書類とか。 あれしろこれしろって言われて。 お前を忘れてた、て訳じゃないんだ」
ほんとの事を言ったのに、ホマレが、けっけっ、げふん、げっという実に馬らしからぬ音を出した。 まるで嘘吐くんじゃねぇ、と脅しているみたい。
「他の馬にお乗りかえになるおつもりかの?」
「ま、まさか。 俺はホマレ以外に乗ったりしない」
そこでホマレは、ひん、ひんひん、と立て続けに何度も鼻を鳴らした。 こっちは証拠を掴んでいるんだぜ、と凄むかのように。
「ほう。 しかしショーリにりんごをくれてやりはした、と」
なんだか浮気を責められる亭主の気持ちが分かったような気がした。 いや、俺は浮気なんてしていない。 だけど無実とも言いきれないというか。
ショーリはなかなかの駿馬で、かっこいいもんだから、今度乗せてもらってもいい、とかショーリを世話している馬丁に聞いちゃったんだよな。 側にホマレがいるのに。 はい、確かにホマレにあげるつもりだったりんごをショーリにあげました。
いたたまれなくなった俺はりんご箱を置いてある所に走って行って、おいしそうなやつを三個、掴ん出来た。
「ごめんな、ホマレ。 ほれ、これは今日のお詫び。 で、こっちは昨日の分。 そして今日のお詫びじゃない分」
どうやらアタマークが、まあまあ今回はこれぐらいで許しておやり、みたいな取りなしをしてくれた様で。 ホマレはようやく今回に限り許してやらんもんでもないという態度になり、りんごをもしゃもしゃ食べ始めた。
もうほんと、どっと疲れたぜ。 もしホマレにすねられっぱなしで、行軍中毎日こんな調子だったら目も当てられない。 被害はアタマークのおかげで最小限に食い止められたと言うべきだろう。 本当にお世話になりました、と何度もアタマークに頭を下げた。
「それにしても馬語を話せるだなんてすごいですね。 羨ましいです。 どうやったら話せるようになるんだか秘訣を教えて下さいませんか?」
「よろしいですよ。 交換に、どうしたら若のように弓がうまくなるのか秘訣を教えて下さいませんかのう?」
自分が常々聞かれ、答えられないでいる質問を聞き返され、ぐうの音も出なかった。
うーん、だけど俺の弓は稽古をし続けていたらいつの間にかうまくなった。 馬語を話し続ける、てどうすればいいの?
まあ、俺は話せなくともヘルセスは当分俺達と一緒にいるんだ。 通訳してもらいたい時頼めばやってくれるよな? 念の為、後でアタマークに六頭殺しの若饅頭を一箱贈っておいた。
日はどんどん過ぎてゆく。 俺達はどんなに遅くともお出迎えの前日には国境に辿り着いていなくちゃならない。 第一駐屯地から国境の町まで約二週間はかかる。 間際まで全てに押せ押せで、王女様がいらっしゃる事を想定した行軍の練習は国境までの道すがらやる事になった。
ところで出発前日の夜、平民のフロロバが儀礼服なんて持っているはずはないという事に気がついた。 俺が小隊長に昇進した時、不用になった平の兵士の儀礼用軍服はリスメイヤーとメイレにそれぞれ一着ずつあげた。 偶々二人は俺よりちょっと身長が低いくらいで、あまり変わらない体型だったし。 ほとんど着てない新品で、ちょっと直しをいれたらぴったりだった。 リッテルとマッギニスはもちろん既に持っている。
だけどフロロバの事を忘れていた。 王女様をお出迎えしてからは毎日全員儀礼用軍服着用と決まっている。 貴族の子弟ともなればそんなものいくらでも持っているけど。 俺は慌ててフロロバに聞いた。
「フロロバ、お前、儀礼用軍服どうするの?」
「あ、ちゃんと旅行鞄の中に入れておきました」
「儀礼用軍服なんて持っていたんだ?」
「いえ、持っていません。 借りてきました。 どうせこんな服着る機会なんて一生に一度でしょうから。 買うなんてもったいないし」
借りたという言葉を聞いて、なぜか素直に喜べない俺がいた。 疑うのはよくない。 でもあのフロロバだぞ? 持ち主に黙って借りていたりして。 ここは小隊長として確認しておくべきじゃないのか?
何を? 本人の了承をとっているかどうか? だけど今、誰から借りたかなんて確認している暇がそもそもあるか?
ない、と言いたい所だが。 フロロバのふっくら小柄な体型。 儀礼服を持っている(貴族)。 平の新兵で今回選ばれなかった、という点を考慮すると可能性は二、三人しかいない。 だから確認するのは簡単だ。
しかし改めて言いたくはないが、三人共鷹揚、柔軟とは正反対の性格で知られている。 平民のフロロバが貸してくれと頼んだからって素直にうんと言ったとはとても思えない。 確認して、もしフロロバが黙って借りていた事が分かったら、お詫びして改めて借りるお願いをしなくちゃいけない、て事になる。 その時素直にほい、と貸してくれるか?
俺が頼んだ所で、うんと言ってもらえるかどうか怪しい。 うんと言う代わりにこれしろあれしろがあったりして。 もしその交換条件が嫌で、うんと言って貰えなかったらどうするの? 結局黙って借りる事になるんじゃない?
すると、ここで事情を知ってから知らぬ振りをするのと、最初からそんな事知りませんでしたで済ますのと、どちらがいい?
ううっ。 もう、明日出発だというのに迷っている場合じゃないだろ。
「そうか、よかったな」
俺はそうフロロバに言って、そそくさと自室に戻った。 明日は早いし、とか誰も聞いていない言い訳を心の中で呟きながら。 う、後ろめたいかも。
次の日早朝、お出迎え特務部隊二百六名及びその従者は国境のお出迎え地点、エダイナへ向けて旅立った。




