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弓と剣  作者: 淳A
公爵家継嗣
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貴族的日常

 一事が万事、上級貴族とはどれほど自分とかけ離れた生活しているか、ヘルセスの日常を通じて知る事になった。

 まず朝。 従者の中で侍従の役目の者がヘルセスを起こす。 ふんだんに用意されたお湯で顔を洗い、歯を磨く。 その後、侍従が髪を整え、軍服を着せてあげていた。

 俺は病気でも不具でもない大人が靴下をはかせてもらっている所を初めて見た。 お召し替えの後、朝餉になる。 朝餉は実家から連れて来た専属の料理人が調理したもの。 なのにお毒味役がいる。


 その後、普通の新兵なら掃除当番の類をやらされるが、ヘルセスの分は全て従者の誰かが代わりにやっている。 但し、従者が代わりに馬小屋掃除をやっているからその空いた時間にヘルセスは昼寝しているのかというと、そんな訳では全然ない。

 オラヴィヴァにヘルセスの日程表というものを見せてもらったら、いや、もう、見ているだけで息が詰まるのなんの。 読書の時間にどの本を何ページ読む予定になっているかまで記載されているんだぜ。 自分の日程表でもないのに見ただけでうんざりしちゃった。

 そのびっしり詰まった日程表をどう思うかヘルセス本人に聞いてはいない。 例えば日が東から昇るのは嫌だと言った所で、日が西から昇り始めたりはしないだろ。 本人が嫌と言った所で変えられない、そんな感じがしたから。


 とにかくヘルセスは平常心の塊みたいな顔をして毎朝弓の稽古にやって来る。 弓の稽古をする時はみんな思い思いの格好をするが、ヘルセスは違う。 きらきらのヘルセス家家紋が刺繍されてある軍服だ。 美しいけど、あれじゃ弓を絞るのがきついんじゃない?

 ほんとにやる気があるのか微妙な所だが、とりあえず兵士としての訓練は自分でやる気らしい。 それで弓を射たせてみた。 でも一つも当たらない。 そもそも矢が的に届かないんだ。 仕方なくヘルセスのために的を近づけた。

 弓はお粗末でも剣が優れているんだろう、と思えばそんな事は全然ない。 どうやら武芸全般だめのようだ。 どこにいても変わりがないなら俺の近くにいた方がいいだろうと思い、ヘルセスは射手にする事にした。

 射手とはいっても汗をかけば侍従がお召し物を代え、二十矢も射てば御休憩。 そして侍従が肩をもみ始める。 この調子で昼餉、御勉学、御執筆、夕餉、御面会、お湯浴み、お着替え、御就寝だ。


 四人いる侍従役の従者が次にヘルセスがなすべき事の準備をしている。 一日中、寝ている間でさえ一人になれないんだぜ。 俺だったらもう勘弁とか思っちゃう。

 俺の実家は伯爵だから貴族としては一応中級と言うか、そこそこの地位だ。 それでも父上でさえこんなに世話をされている所を見た事は一度もない。 子爵や男爵なら家によっては富裕な平民と変わらない生活をしている家もある。 俺の母上の実家は子爵家で正にそんな感じ。 当主だって自分の事は自分でしていた。

 伯爵ともなれば執事や侍女、護衛、料理人、下男、庭師、と奉公人が一通り揃っているから、それだけでもかなりの数になる。 父上は主として奉公人にあれをしろ、これをしろと命令出来る立場だけど、父上だけでなく継嗣である兄上も朝起きてから夜寝るまでこんな風に人にかしずかれてはいなかった。

 そりゃ飯を作るのは料理人だし、当主が掃除や洗濯をする訳じゃない。 だけど着替えや朝の身支度は全部自分でしていたし、母上も夜会にお出掛けになる時以外は身支度をするのに侍女の手を煩わせたりしていなかった。 第一、身の回りって他人にやってもらう方が面倒なんじゃない?


 とにかくヘルセスは毎日既に決められた予定に従って動いている。 ほとんどの予定に面会相手とかがいるから、いくらヘルセスが偉いと言ってもその日の天気や気分次第で予定を変えたり出来ない。 いや、出来るのかもしれないが、実際変更したのを見た事はない。 公爵家継嗣も楽じゃない、とつくづく思ったね。

 もっとも俺だって日程表こそないが判で押した様な毎日だ。 ただ俺の場合変えようと思わないから同じ事をしているが、変えようと思えばすぐ変えられる。 朝起きた時の気分で変えたって誰にも文句なんか言われないし、困る人もいない。 だけどヘルセスなら予定を変える時は相手に変更を知らせるとか、何たらかんたら色々調整しなきゃいけないんだ。 俺だったら簡単には変えられないと思っただけでうんざりしちゃう。


 俺には公爵家継嗣なんてとても無理。 誰も俺にやれとか言ってないけど、三日どころか一日やれと言われたって出来ません。 これを二十数年もやり続けてきただなんて。 もー、尊敬! ヘルセス、お前は偉い! と思わず褒めてあげたくなった。

 でーもー、ここではあなたは単なる新兵なんです。 そこの所、分かってほしい。

 しかし身に付いた習性というものは恐ろしい。 北軍駐屯地の案内した時、偶々会った人に紹介したんだけど、ヘルセスをいきなり紹介するのはまずいという事をその日の内に学んだ。

「苦しうない、近こうよれ」って。 

 その人、小隊長だからっ。 いや、それでも階級が上ならまだ説明しやすい。 古参という概念をどう説明すれば分かってもらえる?

 上官とは言え、俺は身内で弟だ。 俺をサダと呼び捨てにしたって構わない。 でもその同じ調子で古参兵や階級が上の人達まで呼び捨てにするのはやめてくれ。 いくら爵位は将軍と同位と言ったって新兵は自分より下はいない底辺なんだぜ。

 何しろ本人に無礼を働いているつもりはない。 悪気はないだけに、なぜその態度では無礼なのか説明するのは難しい。 やけになって、あなたは下男、あの人は執事と言いそうになったが、それじゃリッテル軍曹だろ。

 それにそう注意した所で意味を分かってもらえるとは思えない。 ヘルセスに下男の立場で物を考えろと言うのは、俺に公爵家継嗣の立場で物を考えろと言うのと同じだろ。 そんな事言われたって何をどうしたらいいのかさっぱり分からない。 じゃあ、どうしたらいいの?


「サダ、北の猛虎の稽古を見たい」

 上官の俺に命令口調かよ。 それを直すまではどこにも行っちゃだめ、と言いたかったが、ヘルセスは当然連れて行ってくれるんだろうな、という態度だ。 俺がその命令に従う事を疑いもしない。 気の弱い俺は何と言って断ったらいいのか分からず、結局従った。

 びくびくしながら一緒に第一道場へ向かう途中、師範に会った。

「よお、若」

 いつものようにお声をかけて下さったので敬礼を返した。

「師範、お疲れ様です!」

「北の猛虎であるな」

 ひ、ひえーっ! ま、まずい。 中隊長に対してはどう挨拶するべきか、まだヘルセスに教えてなかった。 呼び捨てどころか、あだ名で上官を呼んじゃっている!

「ヘルセス公爵家継嗣レイである。 近うよれ」

 い、言っちゃった! 言っちゃったよ。 どっと冷や汗が吹き出る。

 だけど師範は上官に向かって無礼極まりない呼びかけをしたヘルセスを怒りも正そうともしなかった。 ヘルセスの顔をちらっとも見ず、返事も立ち止まりもしない。 ヘルセスの隣にいた護衛をちらっと見たが。 それと少し離れた所にいた護衛に鋭い視線を投げたが、さっさと道場へと歩いて行った。

 中隊長が新兵に挨拶されたって立ち止まる義理はない。 それを態度で示しただけ。


 怒られなくて良かった! 俺は思わずでっかい安堵のため息をついた。

 師範にはヘルセスの無礼を叱る権利がある。 とは言っても本当にヘルセスを叱ったら、ヘルセス本人はともかく、周りにいる者達がきっと黙っていない。 たかが中隊長の分際でとか、平民のくせに公爵家継嗣の上に立ったつもりか、と言い出す人がいたんじゃないかと思う。

 将軍は師範の肩を持ってくれるだろうが、こんな挨拶一つで将軍まで巻き込むのは申し訳ない。 かと言ってオンスラッド中隊長がオラヴィヴァに対抗出来るか? トーマ大隊長だって難しいんじゃない? ここではただの新兵の従者でも公爵本邸に戻れば侍従長を勤めている人なんだぜ。


 ただここにヘルセスをほっといて師範の後を追い、部下がやった無礼を謝る訳にもいかない。 師範は、悪いと思っているなら本人が謝罪すべき、と言う人だ。 まず本人にあんな挨拶をしてはいけない、て事を分かってもらわないと。

「あのな、ヘルセス。 軍には階級ってものがあってな。 師範はずっと上の階級なんだ」

 それでな、とその先を説明しようとして言葉を飲み込んだ。 ヘルセスの瞳に隠しきれない失望が浮かんでいる。

 やっぱり北の猛虎に憧れての入隊だったのか。 だけど師範は未だに俺以外の貴族とは誰とも個人的な付き合いをしていない。 上官や同僚、百剣の剣士はほとんどが貴族の子弟だというのに。


 俺が師範と一緒に飯を食いに出掛けた時は滅多な事では驚かないリッテル軍曹にさえ驚かれた。 師範は相変わらず俺以外の貴族と出歩いたりしていない。 だから貴族嫌いでなくなったという訳じゃないんだ。 それを知っているのに、ヘルセスと仲良くしてやって下さいとか、とてもじゃないけど頼めない。

 将軍にお願いすれば将軍は師範に命令出来る立場だけど。 そんな事をしたら余計師範の貴族嫌いに拍車をかけそう。 

 どう仲を取り持ったらいいんだろ。 俺は途方に暮れてしまった。


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