辞表 若の父とトビの会話
「サダはどうした?」
私はたった一人で帰って来たトビに訊ねた。 常と変わらぬトビの様子を見る限り何か緊急事態があったようには見えないが、滅多な事では慌てない男なだけに平気な顔をしているから何もなかったと結論付ける事は出来ない。
トビは懐からサダから預かってきたらしい手紙を取り出した。
「若はこのまま北軍に入隊なさいます。 そのお言葉と共に、私にこの手紙を託されました」
開封すると、そこにはただ一行。
「北軍に入隊します。」
父上へ、とサダより、も数えるなら三行だが。
いや、サダに文才がないのはとうの昔に承知している。 しかしいくらなんでもこれでは短過ぎるだろう? 理由か前後の事情の説明が一言あってもよいではないか。
全く同じ想いがトビの脳裏を過ったようで、別にトビのせいでもないのにばつが悪そうな顔をしている。 コホンと小さく咳払いをして一部始終を説明し始めた。
「察します所、若は最初から北軍に入隊されるおつもりだったのではないでしょうか。 西軍、南軍、近衛軍、東軍の訪問をいずれも手短に終わらせ、北軍へと向かわれたのです。 ところが間もなく北軍第一駐屯地に辿り着くという所で七頭のオークに襲われました。 その内六頭は若の弓で倒したのですが、最後の一頭にあわやのその時、リイ・タケオ小隊長が現れ、助けられたのです。
北の猛虎に命を救われた、と若は深く感激なさいまして。 翌日カルア北軍将軍補佐がいらっしゃり、熱心に勧誘なさった事もあり、その場で入隊同意書に署名なさいました。 御実家には戻らず、そのまま入隊なさるとの事」
「戻らない、とは? 支度金になる程の金は持たせなかったが、まさか裸で入隊すると言うのか?」
「オークを倒したのでその賞金が三百万ルーク入ります。 又、入隊に必要な物があれば全て北軍が支払うというお話で。
若は、父上の御期待に添えず申し訳ございません、とおっしゃっておりました。 そして勘当されたらこちらの指輪をお返しするようにと。 尚、こちらは伯爵様よりお預かりした旅費の残金です」
トビはそう言って金と指輪を差し出す。
オークとは。 あのオーク? 矢で倒した、だと? オークは矢で倒せるような獣ではないと聞いていたが。 しかも六頭? で、北の猛虎に助けられた?
大概の事には驚いた事のない私でさえあっけにとられ、どこから突っ込んで良いものか迷っていると、トビが懐から一通の手紙を取り出した。
「こちらは私の退職願です。 長年大変お世話になりました。 次代様が爵位をお継ぎになる直前に、このような形でお暇を戴く事を何卒お許し下さい」
トビは今回お目付役としてサダに同行したが、我が家での身分は執事見習いだ。 見習いと言っても既に執事業務のほとんどを難なくこなしている。 大変有能で、長男のサガが今年爵位を継ぐ際、正式に執事へ昇進させるつもりでいたし、それはトビも承知していた。
平民のトビにとって伯爵家執事は大変な出世。 いや、出自が貴族だったとしても気軽に捨ててよい職ではない。
「退職願? 辞めて一体どこへ行くというのだ?」
私の問いに少しの迷いも見せずに答える。
「北へ。 身辺の整理がつき次第、出発するつもりです」
「北? では従者としてサダに付いて行く?」
兵士の従者は他の何と比べてもそれより下はないという底辺の仕事だ。 伯爵家執事になれるという時に、それを捨ててまでなるべきものではない。
「何故? 一体何があった?」
「若に救われた命です。 これからはあの御方の従者として生涯お仕えし、いくばくかなりと御恩を返していきたいと存じます」
「オークを退治したのはお前の命を救う為というより自分の為にやった事であろうが」
「いえ、それではなく。 若が六頭倒した後、最後の一頭を仕留める前に矢が尽きまして。 そのオークが荷馬車を引いていた馬を食べている内に私達は走って逃げたのですが、何分若は矢を三十本、 間を置かずに放っており疲労困憊。 いよいよ走れないとなった時、若は私だけ走って逃げろ、とおっしゃって下さったのです」
何とも意外な展開。 だが頭脳明晰なトビの事。 軽い気持ちでこのような重大な決断を下したはずはない。 私を旦那様と呼ばず、伯爵様と呼んだ事から見ても決心を翻す気はないのだろう。
けれどこの優秀な人材が一兵卒の従者として埋もれるのはあまりに惜しい。 その兵士が自分の息子であったとしても。 豚に真珠とまでは言わないが。 何とか引き止める術はないか思い巡らさずにはいられなかった。
「お前の事だから逃げろと言われて、はいそうですかと逃げた訳ではないだろう。 恩を感じる必要などどこにある」
「あの時、自分がオークの餌食になるから私に生きろ、とおっしゃって下さった事に変わりはないかと存じます。 それでは出発の準備もありますので、これにて失礼させて戴きます」
「待て。 本当に、その、オークを六頭も、あの子の矢だけで倒したのか?」
「この目で見ている私でさえ信じられないのです。 伯爵様が信じられなくとも当然ですし、若は単なるまぐれとおっしゃっておりますが。
いつか北軍へ お立ち寄りになるような事でもございましたら、六頭殺しの若についてお訊ねください。 少なくとも北軍の中で若の偉業を信じない者はいない事がお分かり戴けるかと存じます。 オークを倒した矢の矢羽根には全てヴィジャヤン伯爵家の家紋が入っていた事が確認されておりますので」
「何だ。 その、六頭殺しはともかく、若、とは」
「実は、七頭目を北の猛虎が仕留めた直後、若は名乗られる前に気を失われ、翌朝までお目覚めになりませんでした。 周囲の兵士より若のお名前を何度も聞かれましたが、名乗ればすぐさま入隊を勧められる事は明らかです。 しかしながらあの時点で若が北軍入隊を御決心なさったのかどうか私には判断がつけられず、主の許しがなくては従者が主の名を名乗る訳にはいかない、と言い逃れました。
ところがその日の内にオークを六頭、矢で仕留めた凄腕の噂が北軍中に知れ渡りまして。 その人は若と呼ばれているという事から、その呼び名となったようです。 サダ・ヴィジャヤンの勇名は遠からず皇国中に知れ渡る事でありましょう」
「北の猛虎に助けられた、だと?」
「然様でございます」
四日後、早朝。 ヴィジャヤン伯爵別邸より北へと急ぐ若者が一人。
身軽な旅装。 厳しい冬を何年も越す覚悟をしているようにはとても見えない。 だが金で買える物を持ち歩く必要がどこにある。 長旅こそ身軽が好ましい。
彼の懐にはヴィジャヤン伯爵から託された入隊支度金、五百万ルーク。 そして息子宛の激励の手紙及び伯爵家家紋入り指輪 。 ヴィジャヤン伯爵が北軍将軍の祖母である大叔母に宛てて書いた、北軍将軍への紹介を依頼する手紙が納められている。 それと伯爵夫人から息子へ、いつ帰ってくるのかを訊ねる手紙。 伯爵家タマラ執事から北軍小隊長である次男へ若の入隊を知らせる手紙。 背中に負うのは伯爵から北の猛虎へのお礼状及び伯爵家代々に伝わる名剣、珠光。
「特急にするか」
彼のつぶやきは朝もやの中に消えた。