部下
「小隊長」
会議室で初めてマッギニス様にそう呼ばれた時、え、ここに小隊長なんていたっけ、と辺りをきょろきょろ見回してから、あ、俺の事だ、と気が付いて返事をしたものだから隠しきれない間があった。 恥ずいっ!
気付かれた? そりゃ気付かれないはずないよな。 あの鋭いマッギニス様に。
今更誤魔化せない、て事はすぐ分かった。 でも出来るだけ目立たないようにと焦ったものだから、つい、どもっちゃった。
「な、なんですか、マッギニス様」
途端にマッギニス様の顔が氷点下を指し示す温度にまで下がる。
で、出た。 泣く子も黙る、マッギニス様の氷顔。 噂に聞いてはいたが、上官になったその日に直面するとは。 先行き、真っ暗?
上官が部下にびびってどうする、とは思うけど。 人間持って生まれた迫力の差というものがある。 迫力のはの字も持ち合わせていない俺に、迫力を出せと言われてもね。
付け加えるならマッギニス様にはこれより更に寒い絶対零度顔もあるが、なぜかみんなこの氷顔の方を恐れているみたい。 氷顔で睨まれたら背中に氷柱を差し込まれたような気分になるのに、これでもまだ暖かいのだ、と思う所為なのかもな。
それはどうでもいいけど、ここには他の部下もいる。 初っ端からこんなんじゃ、さぞかし頼りない上官と思われたに違いない。
ううう。 これから毎日こんな感じで恥をかかなきゃいけないの? 身の丈に合わない昇進をしたばっかりに。 そんな明るいとは言い難い未来が思い浮かび、不安がむくむくと広がっていく。
呼びかけにどう返事をするか程度の事でうろたえている俺にマッギニス様は容赦ない。
「部下や階級が下の者に対し様付はお止め下さい。 これは以前にも申し上げた事があるかと存じます。 何度あったかを今数える事は致しませんが」
「あ、そう、そうでござ、だったな」
敬語も使わないようにと注意された事を思い出し、言い直した。 そこで一呼吸置いたおかげか、みんな陰ではマッギニス様と呼んでいるものだから、つい、なんて余計な事は言わずに済んだ。
そりゃ俺だって部下に様を付けたらおかしい事ぐらい知っているさ。 でもマッギニス様と呼んでいる人は平の兵士や同僚である上級兵に限らないんだ。 軍曹や小隊長だって。 それどころかマッギニス様の上官の上官の、えーと、とにかく、もっと上の人達だってそう呼んでいる。
もちろん普通なら階級下の兵士を呼ぶ時は呼び捨てだ。 相手が軍曹以上なら階級を付ける事もあるが。 だけど俺は今までこの御方をそんな風に呼び捨てにしている人を見た事はなかった。 マッギニス上級兵と呼んでいる人さえいなかったんだ。 だからマッギニス様がだめならマッギニス上級兵と呼べばいい、て事に気が付かなくて。
「ま、マッギニスさん」
様がだめなら、さんしかないだろ。 まさか年上の兵士を君付けで呼ぶ訳にもいかないし。 ちゃん付けなんかにしたら明日の朝日が拝めるとは思えない。
またどもっちゃったから慌てて言い直そうとしたが、マッギニス様にとってはどもった事が問題ではなかったようだ。
「さんなしで。 もう一度」
がーん。 それってマッギニス様を呼び捨てにしろという意味? そ、そんな、畏れ多い。
そこでようやくマッギニス上級兵と呼べばよかったんだ、と気付いた。 それなら呼び直しさせられずに済んだのに。 俺ってば、とろいよっ。
高貴なオーラを出しまくっているマッギニス様を呼び捨てにする? 長年上官を務めている人にさえ出来ない事が俺に出来るの? だけど言われたように呼ばなきゃ次に一体何を言われるか。
ごくん、と唾を飲み込む。 一息つき、気持ちを落ち着け、念のために深呼吸した。
すー。 はー。
俺だってその気になれば呼び捨てぐらい出来るはずだ。 たぶん、ね。
「マッギニス 」
無音で様を付けちゃえば分からないんだし。
なんだか、これ以上は諦めました、と言いたげな顔でマッギニス上級兵が言った。
「従者は軍議に出席出来ない決まりになっております」
「そう、それが」
どうかした、と聞き返しそうになって、会議室の隅に座っていたトビの顔がマッギニス上級兵より更に温度が下がり、絶対零度に達した事に気付いた。
ひいいっ。 こ、怖いっ!
俺の従者になって以来、トビが絶対零度顔を見せた事はなかった。 俺のおまるの件では氷点下にかなり近い怖い顔を見せたが。 刺客に襲われてからはもっとやさしくなり、俺が休みの日にだらだらしていたって舌打ちとかしなくなったし。 やれやれ、トビもようやく丸くなってくれたか、と安心していたのに。
それによくよく考えてみればトビが最後に絶対零度顔を見せたのってかなり前だ。 俺がまだ小学校に通っていた時、何度も何度も繰り返し割り算を教えてもらっても分からなくてさ。 また聞いたら、この絶対零度顔で言われたんだ。
「この質問、二十一回目ですね」
その夜以来、俺は毎晩悪夢にうなされ、朝までぐっすり眠れるようになるまで一週間くらいかかった事を覚えている。 何年経った所で忘れはしない。 その恐怖の一撃必殺顔でマッギニス上級兵をぎりっと睨んでいる。
それを物ともせず平然と見返すマッギニス上級兵。 主の俺でさえ思わず平伏したくなるほど強烈な視線に真っ向から対抗し、一歩も譲らない人がこの地上にいるなんて。 たとえそれが人外という噂のある人だとしても。
北の豊穣、奥深し。 あ、マッギニス上級兵は東出身だったっけ。
と、とにかく。 最強同士の対決だ。 斬り合いでもないのに火花が散ろうと驚くべき事じゃないのかもしれないが。 こんな時どう収まりをつけたらいいの? 誰か教えてっ!
新米小隊長の俺はおろおろするばかり。 辺りを見回したが、みんな知らん顔。 頼みの古参、階級から言っても俺の次であるリッテル軍曹に間に入ってもらいたくて視線で縋った。 だけどしらっとして全然気にしている様子がない。 仲裁してくれと俺に命じられたとしても、喧嘩するなら勝手にしろ、俺のいない所でするなら尚いい、とか言いそう。
焦っているのは俺だけ。 その俺にしても気ばかり焦って適当な言葉が思いつかない。 同じ部隊なのに喧嘩なんかするな、とか? でもトビは同じ部隊の兵士じゃないし。
そもそも小隊と言ったって総勢七名しかいないんだ。 こんな少人数で喧嘩しなくたっていいだろ。 部下が沢山いたら俺には荷がかちすぎだろうという温情で、たったの五人にしてもらったのに。 それさえ満足に指揮出来ないんじゃ降格処分にされちゃったりして。 気持ち的には平に戻してもらった方が楽だけど。
仕方がない。 気にするな、会議を始めよう、と言おうとしたらマッギニス上級兵に遮られた。
「小隊会議は軍議と御承知おき下さい。 御覧の通り私も従者は連れてきておりません」
「いや、それとこれとは」
別でしょ、と言おうとしたが、その前にトビがさっと立ち上がった。
「大変失礼致しました」
一言言って一礼し、退室した。
「トビ、」
待って、と言いそうになるのをぐっとこらえた。 マッギニス上級兵が言う事に間違いはない。 小隊会議に従者が出席しているなんて見た事なかった。 だけど初めて上官として出席する会議ですごく不安だったものだから。 つい、トビに付いて来いと言っちゃったんだよな。
別にトビが側にいなきゃ困る、て訳でもない。 何でもよく覚えているから便利は便利だけど、トビをメモ代わりにした事はないし。 意味が分からない事こそしょっちゅう聞いているが、トビは聞かれた事を説明するだけだ。 俺にどうしろと指図した事は一度もない。
ただトビの顔を見ていると妙な安心感を覚えるんだよな。 そこにいてくれるだけでいいって言うか。
でも俺は上官になったんだ。 いつも側にトビがいてくれなきゃ不安だなんて情けない事を言ってはいられない。 いくら少人数だろうと仮にも部下を指揮する小隊長。 独り立ちしなきゃ。
俺はわざとらしく咳払いした。
「これから第一回第八十八小隊会議を始める。 俺がこの度、小隊長に昇進したサダ・ヴィジャヤンだ。 よろしく頼む」
会議が始まり、俺の部下はちょっと変わっているんじゃないか、と気付くのに大した時間はかからなかった。 それは最初の自己紹介からして、もう明らかだった。 階級順という事で俺が最初にして、次はリッテル軍曹。
「ガス・リッテル軍曹だ。 今更名乗るまでもねぇとは思うが。
いいか、いつまでも新兵気分で甘えているんじゃねぇぞ。 俺は御近所の何でも屋じゃねぇ。 分からねぇ事があれば、まずマッギニスに聞け。 マッギニスが分からねぇなら俺に聞いても無駄だ。 て事で、よろしくな」
なんと。 マッギニス上級兵を呼び捨てに出来る人がここにいた! 世界って案外狭い? さすがは北軍内の裏はこの人に聞け、と言われているリッテル軍曹。
それはいいんだけど、リッテル軍曹に頼る気満々だった俺にとってこの自己紹介は衝撃だ。 疑いもなく、この甘えるなは俺に向かって言っている。 だって他の三人は童顔だから新兵みたいに見えるけど、皆俺よりずっと年上だ。
フロロバだけは年上でも最近入隊した新兵だけど、俺よりすごく物知りで、この会議室が空いている事や会議室を使うための予約手続きはどうすればいいのかまで教えてくれた。 それを誰に聞いたのか知らないけどリッテル軍曹でない事だけは確かだ。 リッテル軍曹が会議室に入って来た時呟いていたから。 こんなとこにも会議室があったんだ、迷っちまったぜ、とか。
それにメイレとリスメイヤーはどちらも非常に優秀で、新兵だけでなく古参兵にも教える程だと聞いている。 つまり誰かに頼られはしても頼ろうとする兵士じゃないんだ。 わざわざ警告されなくたって。
リッテル軍曹は四十三歳。 その年なら今まで何人もの小隊長の下で働いた経験があるはずだ。 その経験を生かし、部下としてだけでなく年長者として、いきなり小隊長になってまごついている俺を導いてくれると思っていたのに。 情けないけど俺は北軍の事だってまだよく分かっていないんだから。 しかもここにトビはいない。
初日から突き放されたような気分。 リッテル軍曹に頼れないなら誰に頼ればいいの? まさか、マッギニス上級兵? そんな、怖いっ!
とかおばかな事を考えていると、次にマッギニス上級兵が自己紹介した。
「オキ・マッギニス上級兵だ。 私に聞くべき価値がある質問なのかを推考し、確信を持ってから質問する事を推奨する」
いかにも彼らしい発言で、そこに驚きはない。 ないが、それって誰にも質問するなって牽制かけているのと同じでは?
普通じゃなかったのは自己紹介だけじゃない。 例えばメイレには死期が分かると知った時のみんなの反応。 まずリッテル軍曹が当たり前の顔をして言った。
「へえ。 そういう事ならただで俺の死期を教えてくれるんだろうな」
「た、ただ?」
上官の俺でさえただは申し訳ないと思ったのに。 当然ただだろという態度に思わず驚きの声を上げてしまった。 するとリッテル軍曹が訝しげな顔をして俺を見る。
「何だ、小隊長は金を払う気でいたのか?」
「いくらなんでもただという訳にはいかないだろう?」
「確かに同じ部隊の誼とは言ってもただは厚かましいですよね。 上官ならそれくらい言っても許されるとは思いますけど。 材料費がかかる訳でもないんでしょうし」
フロロバからの援護射撃に、ほっとした。 よかった。 やっぱり俺は常識外れではなかったのだ。 そしたらリッテル軍曹が聞いた。
「ふうん。 じゃあ、フロロバ、お前ならいくら払う?」
「そうですね、二千ルークってとこかな。 同じ隊の誼って事で三割引き、とか? 仲良くなれば、もう一声って事もあるだろうし」
「に、二千? たったの? しかも三割引き? さっきお前が買ったお菓子、三千ルークとか言ってなかった?」
「北って意外にお菓子が高いですよね」
「だからって診察料がお菓子より安いの?」
リッテル軍曹が少し呆れた顔を見せた。
「おいおい、なら小隊長はいくら払う気でいたんだ?」
「じ、十万ルーク、とか?」
本当は二十万くらい払わなきゃ、と思っていた。 でもその数字をここで出すのはまずいと察するくらい俺にだって出来る。 それで半分にしたんだけど、それでもまだ多かったようだ。 おおっと嘆声が上がる。
「さすがは六頭殺し。 金がある人は言う事が違うね。 太っ腹だ。
おい、メイレ。 だからって、こういう鴨がどこの空にも飛んでいるとは思うなよ」
「二羽もいるとは誰も思いませんよ」
鴨、という所は否定してもらえないんだな。
「マッギニス、お前ならいくらだ?」
「自分の死期ぐらい自分で分かります。 他人に聞く必要がどこにあるのでしょう? ましてや金を払うなど」
マッギニス上級兵はネギをしょった鴨という目で俺を見た。 思わずむっとして、普通の人は自分の死期が分かったりしません、と言い返しそうになったが、それは俺の口の中で淡雪のように消えた。
マッギニス上級兵に向かって、あなたは普通の人じゃないと言ってどうしようというんだ? それって赤い色に向かってお前は青くないと言う以上に空しい。
リッテル軍曹はリスメイヤーにも同じ質問をした。 小首を傾げているからいくらにするかを考えているのかと思えば。
「自分の死期を知るために金を払うつもりはありません。 だけどメイレの能力はとても興味深いです。 俺が調合する薬で効果がどれほどあるか分からないものを試したい時がありますから。 余命が延びたとすぐに分かるのなら俺にとって金を払う価値がある。 とは言っても二千はちょっと。 千なら、まあ、妥当? 薬代に含めて患者に払わせてもいいし」
そこで、効果が知れない薬を誰に試す気だ、と思ったのは俺だけではないと思う。 そもそもリスメイヤーは元は薬師かもしれないが今は弓部隊の射手だろ。 なんで薬を調合する必要があるの?
ここは上官として、今後薬の調合は止めるように、と言うべきじゃないのか? そうは思ったが、自分の心の中の声は普通過ぎるような気がしてこの場では口にしづらかった。
するとマッギニス上級兵が言った。
「リスメイヤー。 新薬研究にかかった費用は経費で落としていい。 それに関してはいつでも申し出るように。
メイレ。 彼の研究を助けた場合お前にも職能給が出るようにしておく。 医師としての職能給とは別に」
リスメイヤーとメイレはすごく嬉しそうだ。 その嬉しさに水を差すには勇気がいる。
まあ、マッギニス上級兵が止めないんだ。 俺が止める必要はないよな? 俺はそれ以上考える事を止めた。
みんなの自己紹介が終わった所でリッテル軍曹が立ち上がった。
「今日が初顔合わせだからな。 懇親会でもするか」
「じゃあ、俺が何かつまみでも作ってきますね」
フロロバがそう言って出て行こうとするとマッギニス上級兵が止めた。
「小隊長。 この会議室で宴会は不適当です。 場所を移しましょう。 小隊長のお部屋でもよろしいですか? 緊急時、部下は上官の部屋へ走らねばならない事があります。 お部屋がどこかを知らないのでは手間取るので」
小隊長に昇進したおかげで俺は二間続きの部屋を使える事になった。 角部屋だから少しぐらい騒がしくても辺りに迷惑をかける事もない。 という訳で俺の部屋に集まり、果実酒と美味しそうな匂いの料理を囲んで宴会が始まった。
「フロロバ。 どれも将校用食堂の御飯よりうまいよ。 料理人になれるんじゃない?」
「ふふ。 ありがとうございます。 退役したら自分の店を開こうかな。 まあ、美味しいのはネタがいいからだと思いますが」
そこで、ふと気になった。 この食材、どこから手に入れたんだろう?
食料倉庫の鍵を持っているのは料理長と各隊の中隊長だけだ。 平の兵士が食材をもらう時はその二人のどちらかから許可をもらわないと鍵を使わせてもらえない。 その際食材の使用目的と何をどれだけ持ち出すかを書いて上官の署名がある申請書を提出する事になっている。 今日申請したって当日に許可が下りる事なんてないし、第一、俺はまだ何にも署名していない。
なんだか悪い予感がする。
「あのさ、食材はどこから持って来たの?」
「食料倉庫です」
「倉庫に鍵がかかっていなかったのか?」
「かかっていましたよ」
「かかっていた? なんでお前が倉庫の鍵を持っている訳?」
「持っていません」
「え? じゃ、どうやって鍵を開けたの?」
「これです」
そう言ってフロロバが取り出して見せたのは普通のヘアピン。 どこからどう見ても単なるヘアピン。
それってまずいんじゃ、と思わずリッテル軍曹とマッギニス上級兵の顔を窺ったが、どちらも平気な顔で料理を食べている。 無断飲食のどこが悪い、と開き直っているような。 食欲にも衰えは見えない。 だけど気が小さい俺は食料を倉庫からくすねて来たと聞いた途端、なんだか胸が一杯になっちゃって。 それ以上食べ続ける事は出来なかった。
盛大なげっぷを出した後でリッテル軍曹が誰にともなく聞く。
「懇親会は月一にするか? 隔週か? 毎週ってのは、やっぱりやり過ぎだろ?」
「取りあえず月一という事で。 頻度を増やすのはいつでも出来ますから」
マッギニス上級兵の言葉に部下の顔がほころぶ。
いや、月一でこれが食えるという事自体は嬉しい。 毎週ならもっと嬉しいが、何か悪い事をしているような気持ちは拭えなかった。 次の宴会、いや、懇親会では、きちんと申請するつもりだけど。
まだ何も言ってないのに、そこでフロロバがこう言った。
「小隊長。 御自分の仕事を増やすような真似はしない方がいいですよ。 そんな事をしなくたって充分お忙しいでしょ」
普通じゃない部下のおかげで自分がいかに普通かを思い知らされた。 自分は普通じゃないと引け目を感じる事がよくあったから、そう感じなくてもよくなった事はありがたい。
ただ、その、なんと言うか。 もう少し普通っぽい部下が欲しかった、と思う俺は間違っているのか?




