予感 若の父とサハラン近衛将軍の会話
「放っておくのは業腹なんだがな」
広い近衛将軍官邸にある一室でマルナが呟いた。
近衛将軍官邸内はどの部屋にも武官の住まいらしい緊張感と厳しさがある。 だがマルナがよく一人で寛いでいるこの部屋にだけは何かほっとする雰囲気があった。 酒を飲みながら二人で将棋を指す時はいつもここで過ごす。
酒瓶は満たされている。 今晩、お互いが手にしている酒杯は空だが、どちらも酒瓶へ手を伸ばす様子を見せない。
「それでなくとも相当な数の奴らが本当に何もしないでいいのか、と俺に聞きに来たぞ。 今はただ泳がせておけ、と言っておいたが」
「それでいい」
私は酒杯に水を注いだ。 今夜は何故か酒を飲む気になれない。 いや、酒だけではない。 私達の間に置かれた将棋盤の駒は人待ち顔に空を見つめ、一度も動かされずにいる。
マルナが微かにいらついた様子を見せた。
「どれほど紙一重だったか知っているんだろうな?」
「何が?」
「たった三人で三十二人の刺客に立ち向かい、無傷で助かったのも驚くべき事だが。 誰に襲われたかを聞いた時には俺でさえ仰け反ったぞ。 刺客はな、裏の世界でかなり名が知られていた奴らだった。 特に有名なのがバンジだ」
「バンジ? 裏将軍のバンジか? そう言えば、お前に聞こう聞こうと思いながら機会がなかった。 お前が軍対で副将を務めた時、大将を務めた男の姓もバンジだったろう? 裏将軍と関係があるか知っているか?」
「同一人物さ」
「ほう。 それ程の剣士が、なぜ傭兵をやっている?」
「不運といえば不運な奴だ。 父親が賭けに狂い、全財産を失った。 それだけじゃない。 かなりな借金を残した挙げ句、自殺したのだ。 一家は離散。 一人残った正嫡子のバンジが借金の穴埋めをする羽目になった。 それで近衛を辞め、もっと手っ取り早く金が稼げる傭兵の道を選んだ、という訳だ。
同情せずにはいられない経緯ではあったが。 昔から強いくせにせこい勝ち方をする嫌な奴でな。 俺とは全然そりが合わなかった。 あいつの方から頼んで来たなら別だが、頼まれもしないのに自分から助けに行こうという気にはなれず、そのまま放っておいた。 結局あいつの方から助けを頼みに来る事はなかったから除隊後は一度も会っていない」
「傭兵の世界で名が売れ始めた事は聞いていたのだろう?」
「まあ、な。 後ろ暗い噂もちらほら」
「気にならなかったのか?」
「首を狩りに行く程ではなかった。 行っておけばよかった、とは今更だが。 あいつに襲われて助かっただなんて、オークに襲われて助かったと聞いた時より驚いたぞ。 あいつはある意味オークより始末が悪い。 サダ君の強運は本物だな」
その強運はどこまで続いてくれるのだろう。 オークと暗殺未遂と。 次は?
「それはともかく、問題は今回の黒幕だ。 自棄になるようなタマには見えん。 とは言え、この失敗ではかなり頭に血が上った事だろう。 皇太子殿下暗殺計画首謀者の取り巻きと思われたい奴なんかいない。 もし六頭殺しの若と知って殺そうとした事が世間にばれたら殿下を狙ったよりも悪い結果を招く。 殿下の人気は雲の上の御方限定だが、若人気は平民から雲の上まで幅広い。 あいつの周りに友達面して群がっていた奴らも、これからは道ですれ違ったって知らん顔だろう。 実数はまだ掴めていないが、かなりの盟友を失った事は確実だ。
幸か不幸か、大元は殿下のお忍び。 それだけに事件の詳細を公表する訳にはいかない。 これに懲りて、このままひっそり鳴かず飛ばずでいてくれればいいが。 失地回復を狙って何かを仕掛けてこないとも限らん」
「それは当然仕掛けるだろう。 このままでは向こうはじり貧だ。 先手必勝で知られる男が自分の凋落を座して眺めるとは思えない」
とは知りながら、ここで報復措置を取る事が正しい事なのか? 私の心から迷いは消えないでいる。 その迷いを見抜いたかのようにマルナが問う。
「サキ。 何を迷う? 自分の手を汚したくないというなら代わりにいくらでも喜んで手を貸すと言う奴がいるんだぞ」
その言葉にはさすがに呆れた。
「直接手を下したのではないから自分がやった事ではない、と言えと?」
「なんだ。 やる事自体、嫌なのか?」
「ここで報復などやり始めたら私とあいつは同じ穴の狢ではないのか?」
「やられたらやり返す。 それに何の問題がある? 先にやられたのはこちらだ」
「そもそもこちらが正しいと思う理由は何だ? あちらも自分は正しいと思ってやっているのだとしたら」
「おいおい。 皇国の英雄となった息子を危うく殺されかけた奴の言葉とも思えんな。 たった今言っただろう? サダ君が助かったのは奇跡なんだぞ。 いくら北の猛虎でもあれ程の腕前の刺客に寄って集って襲われ、全員を斬り伏せる事が出来たはずはない。
サダ君の弓があったから何とか切り抜けられたのだろうが。 どいつも矢切りぐらい簡単にやれる手練れだ。 馬の手綱を握っている方の死角を狙ったのだとしても流鏑馬とは違う。 戦いの真っ最中は自分も的も動いている。 狙えば当たるというものではない。
皇太子殿下の扮装をしていたのなら御身に背負う矢は二十四本がしきたり。 どれか一本でも外していたら、とは思わんのか? 暗殺の仔細は無視するとしても、全て向こうから仕掛けてきた事ではないか」
「そこさ。 向こうから仕掛けてきた事だ、と言い切れるか?」
「何だと?」
「向こうはつまり皇太子殿下が気に食わない。 なぜならあの御方は皇王陛下以上に御自分の意思を通される。 貴族院で決議された事に逆らう事まではなさらないかもしれないが。 協議による合意を待つなど手ぬるいとお考えになっていらっしゃるようだ。
決議の前に行動されてしまえば上級貴族が束になった所でお止めする術はない。 それに引き換え、他の皇王子殿下はいずれも合議制を尊重なさる。 臣下にとってどちらが御しやすいか言うまでもない。
そもそも皇国の現状に不満なのは、あいつに限った事でもないだろう? 事件以前の盟友の数を数えただけでも分かるではないか。 にも拘らず、陛下の周辺に現状を変える動きなど欠片もない。 皇太子殿下が即位された後では増々お耳を傾けて下さる機会など期待出来ないという背景がある。 見方によっては、それが元凶と言えなくもないのでは?」
「馬鹿を言うな。 皇太子殿下の御気性が自分に都合が悪いから首を挿げ替えろ、では大逆罪ではないか」
「どちらが国益につながると思う?」
「国益だと?」
「強い王制のもとで変化のない制度と、合議制で変化に対応出来る柔軟な制度と」
「強い王制のもとで柔軟な制度という選択はないのか?」
「あると思いたい。 であればこそ、この度のお役目をお受けした」
「ならばそれでいいではないか。 己のやれる限りを尽くすのみ。 で、やられたらやり返す」
「まだだ」
「いつまで待つ気だ?」
「殿下がどのような施政をなさるのか見極めたい」
「なんだと? 殿下が戴冠なさるのは少なくとも十年先ではないか」
「私はもっと早いと思う」
「え?」
「陛下はおそらく御自分がまだ御健勝に見える内に譲位なさると私は見ている」
「何年だ?」
「三年か。 或いは、この秋の殿下の御成婚の翌年という事さえ考えられる。 皇太子殿下はお若い。 そして戴冠なされば御自分の信ずる所を通すと思われる。 だがそれは皆に受け入れられる類の変革であろうか?」
お互いの瞳の中に予感が駆け巡るのが見える。 怒涛の時代がやって来るのやもしれぬ、と。
「新しい変化を迎える気概のない者は滅びゆく。 元々自ら変化を起こす気概がなければ生き残れぬ世なのかもしれない」
私の言葉を聞いたマルナが少し眉を顰めた。
「その言い方ではまるで、あのくそったれを気概のある者と褒めているかのようだぞ」
「知っているか? 彼の領地には他では見られない商売が随分沢山ある」
「商売?」
「花屋、弁当屋、洗濯屋」
「何だ、それは?」
「彼は平民が商売を始めるのを禁止していないし、許可制でもない。 誰でも商売を始められるのだ。 それで病院の前に花を売る店があったり、工場の前に職工達が給金で買える値段の弁当を売る店があったり、洗濯をしてあげる店があったり。 しかも税金を取るのは商売を開始してから三年目。 手持ちの資金は乏しくとも、まずやってみようか、となる下地を作っている。
私はね、古来よりあったから正しい、と何も変えようとしない者達よりはましなのではないかと思う。 という事は、それなりに買っているのかもしれない」
「お前も大分変わっている」
「そうかな」
「そうだろ」
その夜、将棋盤の駒が動く事はなく、私は夜半に将軍官邸を辞去した。




