賭 カイザー侍従長の話
サキ・ヴィジャヤン皇太子殿下付御相談役が、本日の御予定を殿下に読み上げている。 長年私の役割であった仕事を傍らに立って聞く事になるとは感慨無量。 胸を過る様々な思いを何と呼ぶべきか。
安堵 後悔 歓喜 怒り 悲嘆 諦念 嫉妬
私の心中の消えぬ虹。
そもそもの始まりがどこであったかなど、今更ほじくり返した所で何になる。 簡潔に言ってしまえばカイザー公爵家はデュガンに弱みを握られてしまったのだ。
カイザー公爵家継嗣が反逆を計画した。 その大罪の動かぬ証拠を握られては、いかに名門カイザー公爵家といえども取り潰し、一族全員処刑は免れぬ。 首謀者を病気に見せかけて殺したくらいで許されるものではない。
カイザー公爵は私の兄だ。 一族の命運が懸かっていると懇願され、私に拒絶する道はなかった。 最初は徐々に皇太子殿下に関する情報を渡し始め、現在では全ての重要事項がデュガンに筒抜けとなっている。
この背信がいつまで続けられるか分からないが、続けられている事は私に何の喜びも齎さない。 皇太子殿下の御信頼を裏切るくらいなら自害して全てを終わりにしたかった。 だが言われた事をやらねば一族が危うい。
私が辞任すれば済むというのか? 私が無用の存在になればデュガンは手にした情報を闇に葬ってくれるとでも?
あれの事だ。 畏れながら、と陛下につい今知ったかのような顔をしてあの証拠を提出するに違いない。 それが一族の終わりとなるかと思うと脅迫されるままでいるしかなかったのだ。 少なくとも私が皇太子付き侍従長である間は金の卵を産むガチョウを縊り殺す真似はしないはず。
だが皇太子殿下の未来には様々な障害が埋め込まれるであろう。 皇太子殿下は人を疑うより信頼する事を第一に考える御方でいらっしゃる。 信頼は諸刃の剣。 皇国の頂点に立つ御方が持つにはあまりに危険な剣であると言えよう。 私を例に上げるまでもなく。
そうと知ってはいても諌めるべき私の口は固く閉じられている。 お忍びでフェラレーゼの姫に会いにいらっしゃる事さえ皇国の数多の上級貴族が知っているという、その危うさ。
そこに、この知らせが届いた。 皇太子殿下の影武者を務めた六頭殺しの若が襲撃された、と。
デュガンなら殿下の影武者を暗殺するぐらいの事は計画していると予想していた。 その計画が失敗したというだけなら驚かない。 成功したとしても同様。 影武者が殺されるのは皇太子殿下にとって大きな失態とは言え、それだけでは継承権を失う程の大事にする事は出来ない。 他にも何か世間の耳目をそばだてるような事件が同時に起こったのでもない限り。 こちらにも手が回せる事はあるのだ。 もみ消しに手間がかかるとは言え。
しかし影武者を務めたのが六頭殺しの若とは。 知らされた時は驚愕の念を禁じ得なかった。 大胆にして効果的な計画と言えよう。 成功していたら殿下の戴冠は即座にふいになっていたはず。
ぞっとすると同時に気が付いた。 これは、使えるのでは?
影武者が誰であったか、私が申し上げなければ殿下が単なる暗殺未遂事件の詳細に興味を持たれるとは思えない。 襲撃事件が起こった事、それが失敗に終わった事は報告せねばならないとしても。 賊は返り討ちにされ解決した、で終わる。
影武者を務めたのは誰か、殿下は御下問になるだろうか?
これは賭けだ。 聞かれたら答えるしか道はない。 しかし聞かれなければ答えずともよい。 そして影武者の名を知らずに拝謁なされば陛下よりきついお叱りがあると予想される。
殿下の私への御信頼は永久に失われるだろう。 だが殿下はこれ以上私を信頼してはならぬのだ。
ふと視線を感じ、振り向けば殿下のお見送りを終えたヴィジャヤン相談役が私を見ていた。
「賭けに勝ったというのに晴れぬお顔だ」
その一言に、私は思わず目を閉じる。 知っていたか。 さすがは「皇国の耳」よ。 皇太子殿下もそなたがお側にいれば盤石であろう。
「勝って嬉しくない賭けというものも世の中にはあるようです」
何の感情も込めぬ私の返答に、ヴィジャヤンは目に見えぬくらい微かに頷き、無言の労りを送って寄越した。
少し前なら、たかが伯爵風情がカイザーに憐憫の情を見せるなど笑止、と一顧だにせず切り捨てたであろう。 今、静かに差し出された労りを受け入れるのは、彼が私の事実上の上司になったからでも、ましてや私の背信を糾弾しない事に対する感謝からでもない。
長年自らの命や名誉より大事に大事に培ってきた皇太子殿下の御信頼という宝玉を、この手で粉々に砕かねばならなかった慟哭。 言葉に尽くし難い喪失の悲しみに、私は深く打ちのめされていた。
けれど悲しみがどれ程深かろうと、それは私の胸の内に留まる。 弔問客が訪れるはずもない。 ただ一人、私の目の前にいる上司となった先代伯爵を除いては。
「ヴィジャヤン殿、では侍従長執務室へお越し下さい。 殿下のお身の回りの詳細を説明申し上げます」
先導しようとすると、彼は静かに首を左右に振った。
「その必要はありません」
「それは、何故?」
「全業務の采配は従来通りカイザー侍従長に担当して戴きます。 私に報告の必要はありません。 又、私は殿下のお側に住むつもりはなく、殿下が離宮へお移りになる際も従わない事、殿下よりお許しを戴いております。 御機嫌伺いに参るとしても月に二度程度でしょう」
「その理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ある方から見て、あなたが名目だけの侍従長になった、という事であればよい訳です」
そう言って彼は懐から紙の束を取り出した。
「そしてこれが手紙の中身。 今やあちらの金庫に残っているのは封筒だけ」
信じられない事の展開に、私は手の震えを抑えるのに必死だ。
「どうやって、これを。 いや、それよりどうして、今、私に? 先渡しの条件は?」
「今申し上げた通り、あなたは賭けに勝たれたのですよ。 これはその賞金。 皇太子殿下には私から簡単に事情をお伝えしてありますが、どの手紙もお読みになってはいらっしゃいません。 説明申し上げた際、そういう事情なれば是非もない、とのお言葉を戴いております。 御自身、二度目の機会が与えられた以上、忠義の者には同じ恩恵を施さねばなるまい、と」
「忠義の者とは。 痛烈な」
「皮肉ではございません。 御承知のように皇太子殿下は大変聡明な御方でいらっしゃいます。 あなたがどのようなお気持ちで来るべき殿下の治世の捨て石になろうとしたのか、御理解なさらなかったはずはない」
体の震えはもう隠しようもない。 私は必死に相手の目を見つめ、そこにあるべき脅迫を探した。 けれど返ってくるのは静謐のみ。
「それでは息子の所に顔を出したいと思いますので。 本日はこれにて失礼致します」
そう言って退室する皇太子殿下御相談役の背中を半ば呆れた思いで見守った。 カイザー公爵家を地に平伏させる事さえ可能な証拠を何の見返りもなく手渡していくなど、あり得る事か?
まさか、偽手紙?
私は急いで自室に籠り、一枚、一枚、記憶に残る甥の筆跡を確かめた。 まぎれもなく本物だ。 私には知らされていなかった企みが書いてあるものもある。
私は手紙を蝋燭の上にかざした。 一枚残らず。 最後の一枚の灰を落とした皿に水を注いだ後、おもむろにペンを取り、兄への手紙を認める。 注意深い言葉遣いで。 カイザー公爵家が一代では返しきれぬ程の恩義をヴィジャヤン伯爵家から受け取った事を知らせるために。
追記
この日より二十五年後、ヴィジャヤン伯爵家継嗣サムとカイザー公爵令嬢アンとの華燭の典が執り行われた。 その際、カイザー公爵家はダガーナ銀山の採掘権を娘の持参金として伯爵家に移譲した事がヴィジャヤン伯爵家家伝に記載されている。




