お叱り ハレスタード皇太子殿下の話
「父王陛下、ただ今戻りました」
いつもの礼に従って叩頭し、面を上げよ、とのお声がかかるのを待った。 だがいくら待ってもそのお声がかからない。 一体どうした事だ、と思わず陛下のお顔を窺いたくなったが、そのような非礼、皇太子であろうと許される事ではない。
「報告する事はそれのみか」
静かな、しかし紛れもないお怒りの籠ったお声が下される。 私が何をしたとおっしゃるのか? 或いは何かをしなかった? 面を上げてから隣国の様子を報告しようとしたのに、それさえ許されないとは。 帰国の報告より先に何を申し上げるべきであったのか? 仕方なく一番考えられる事について申し上げた。
「フェラレーゼの姫に会い」
私の言いかけた言葉はすぐさま陛下に遮られた。
「どうやらそなたの周りには重要な事を伝える者はおらぬようじゃの」
重要な事? これ程のお言葉になる何があった?
「大変申し訳もございませぬ。 陛下が何にお怒りか、何卒御教示戴きとうございます」
「そなたを暗殺しようとした者がいたと聞く」
「仰せの通りにございます。 しかしそれは無事、未遂に終わったと報告を受けております」
「それだけか?」
「畏れながら、それ以外は何も」
「ではそなたの影武者として選ばれたのは誰か、知らぬと申すか」
「存知ません」
「暗殺者が何人いたかも聞いておらぬと?」
「寡聞にして」
永遠とも思える沈黙の末に重々しい陛下のお言葉が下された。
「よいか、二度はない。 ただ此度だけ、そなたに間違いを正す機会をくれてやろう。 悠長な事は言っておられぬ。 そなたの皇王位継承権がかかっておるのだ。 早急に対処せよ。 そして胆に銘ずるがよい。 上に立つ者はな、傍に肝心な事を伝える者がおらねば無能な役立たずである、と」
静かな衣擦れの音が陛下の御退席を知らせたが、私は面を伏せたまま、そこから動けずにいた。 脳裏には同じ疑問が繰り返し渦巻くばかり。 私がすべきであった答えは何であったのか。 誰ならその答えを知っているのか、推測する事さえ出来ない。
父王陛下のお言葉から類推する限り、簡単に解決したと思っていた暗殺未遂事件の裏には私が知らされている以上の何かがあったようだ。 何故私には知らされていないのか?
ぐずぐずしてはいられない。 急いで部屋へと戻り、私に暗殺事件を報告した侍従長のカイザーを呼び出した。 まず父王陛下が御存知の事実を私も知らねばならぬ。
「カイザー。 私の影武者であった者の名は調べてあるか?」
「存知ております」
「何と言う?」
「サダ・ヴィジャヤンと申します」
どこかで聞いた事のある名前、と一瞬思った後で、それが現在城内で最も囁かれている「六頭殺しの若」の本名である事に気付き、全身から血の気が引いて行くような気がした。
サダ・ヴィジャヤン、だと? お前はそれを平気な顔をして私に今、告げるのか?
我を忘れて叫びそうになったが、これでも皇太子としてそれなりの訓練を受けている身だ。 ぐっと堪える。 信頼していた侍従長に裏切られた事はいまいましいが、今の所、事態の全容を私に伝える事が出来るのはこの者しかいないのだ。 他の侍従を呼び出しても侍従長より詳しく知っているとは思えないし、知っていたとしても私にその全てを報告してくれるかどうかは分からない。 侍従には侍従の思惑、個人的な都合というものがある。
「暗殺者は何人いた?」
「三十二人いたと聞いております」
答えるカイザーの表情からは何も読み取れない。 そうか。 よいだろう。 ならば私もその無表情を返すだけだ。
しかし三十二人もの刺客に襲撃されたとは。 刺客ならいずれもそこそこの腕前であったろうに。 そんな数の襲撃を防げる程の警備が離宮に残っていたのか? 確か、あそこに詰めていた警護の者は全員私に付いてフェラレーゼに行ったはず。
「離宮には何人警備がいたのだ?」
「警備の者はおりませんでした。 離宮付きの下働きが五人おりましたが。 その内訳は庭師、門番二人、メイド、料理人でございます」
「その五人で三十二人を倒した、と?」
「その者たちが倒したのではございません」
「では誰が倒したのだ?」
「刺客の内二十四人はサダ・ヴィジャヤンが射殺し、残りの八人はヴィジャヤンに同行していた剣士、リイ・タケオが斬り倒したと聞いております」
北の猛虎がその場にいたか。 彼なら八人の刺客を斬り殺したとしても驚かぬ。 カイザーが言葉を続ける。
「その他に兵士と従者が一人ずつ同行しておりました。 その者達の名までは連絡されておりませんが、調べれば分かります」
兵士や従者の名前に関心はないが、調べておくようにと命じ、カイザーを下がらせた。 なぜ私に若の名を言わなかった、とここで彼を責めたところで何になる。 カイザーの忠誠が私にない事を見抜けなかったのは自分以外の誰の責任でもない。
父王陛下のお声が鮮やかに蘇る。
「上に立つ者はな、傍に肝心な事を伝える者がおらねば無能な役立たずである」
二度とは下されぬであろう貴重な警告だ。 無駄にする訳にはいかない。
翌日私は侍従を遣わし、ヘルセス公爵を召し出した。 出来る事なれば今すぐにでも先代ヴィジャヤン伯爵を呼び出したいが、彼は無爵。 皇太子が無爵の者を宮廷に呼び出すのは異例中の異例なだけに世間の耳目をそばだてる。 理由があれば別だが、周囲を納得させる理由などすぐさま考え出せる訳もない。
「皇太子殿下におかせられましては本日も大変御機嫌麗しく。 臣下として欣喜に絶えません」
ヘルセス公爵が見せる型通りの慇懃な礼には少しの温かみも感じられない。 彼の娘の結婚式に臨席して一年足らず。 あの時の満面の笑顔はどこへ行った。 覚悟していたとは言え、状況は思った以上に逼迫している。 人払いは予めしておいたから早速本題に入った。
「ヘルセス公爵。 そなたを呼んだは他でもない。 先代ヴィジャヤン伯爵への橋渡しを頼まれてくれ」
「はて。 どのような橋渡しでございましょう?」
「彼の者に侍従長として仕えてもらいたい。 役職名としては皇太子付き相談役を名乗ってもらうが」
「殿下には既に侍従長がいらっしゃいますが」
「最早カイザーを侍従長として信頼する事は出来ぬ」
普通の伯爵なら飛び上がって喜ぶ打診だが、今回の打診に喜ぶべき所は何もない。 皇太子とその侍従長は一蓮托生。 戴冠が危うい皇太子の侍従長になるとは今にも沈みそうな泥船に乗ろうとするも同然。 相当の覚悟がなければ引き受けられるものではない。 自らの命は勿論、一族郎党の命運を賭ける大博打だ。 娘をヴィジャヤン伯爵家に嫁がせたヘルセスとしては、このような打診の橋渡しなど即座に断りたいだろう。
だが現段階で私が戴冠する可能性はゼロではない。 もし戴冠したらここで断るのは非常なマイナスとなる。 のるかそるか。 ヘルセスの瞳に喜びは勿論、何らの感情も浮かんではいない。 ただ静かに指摘する。
「それは余りに劇的で唐突な人事。 カイザー公爵家を敵に回す事になるのではございませんか?」
「役職を剥奪していない以上、彼らに言える文句は限られる。 そもそもこれは六頭殺しが私の影武者を務めた事を、カイザーが私に知らせなかった事が原因だ」
「失礼を承知で申し上げますが、単に殿下が御下問にならなかっただけ、とは思われない?」
「カイザーは私の影武者の名を知っていた。 こちらから聞かなかった事は認めよう。 襲撃を受けたが、影武者が賊を返り討ちにして無事と聞かされては、影武者の名前を聞く必要等思い浮かばなかったのだ。
けれど六頭殺しの若がそなたにとって。 そして皇国全将軍は言うに及ばず、あの結婚式に招待されようと必死にそなたに縋った数えきれない貴族にとって、どういう意味を持つかを知らなかったとは言わせない」
ヘルセス公爵はじっと考えている。 私は待った。 ここでヘルセス公爵を怒らせたら次は彼の義息であるヴィジャヤン伯を呼び出して頼むしかない。 その場合、私の強い希望で先代伯爵に事実上の侍従長職を頼んだ事が表沙汰になる。 そうなればヴィジャヤンに拒否権がないだけではない。 世間にはヴィジャヤンが私を唆し、カイザー公爵の弟である侍従長を蹴りだしたように見えるだろう。
カイザー公爵家は南東に広大な領地を持つ有力貴族だ。 宮廷内でそれなりの影響力もあるからヴィジャヤンは就任したその日から苦境に立たされる事になる。 たとえヘルセス公爵や彼の人脈からの助力があろうと。 利益より損が勝ると予想される仕事を嫌々引き受けた所で三日と続くまい。
暫しの沈黙の後、ヘルセス公爵が重い口を開く。
「殿下。 先代伯爵の気持ちを先に聞いても構わないとおっしゃるのでしたら、このお役目、承りましょう」
「勿論、勿論だ。 なればこそ、そなたに足労を頼んでおる。 ヴィジャヤンに私からの遺憾を伝えてほしい。 本当に知らなかったのだ」
「本を正せばフェラレーゼへお忍びになった事が誤りであった、とは思われない?」
一番痛いところを突かれ、言葉に詰まった。 それを指摘されれば言い訳は出来ない。
「殿下に人としての情を捨てよ、と申し上げているのではございません。 しかしながら殿下には皇太子殿下としての逃れ難き責務がおありになる。 国が決めた結婚に否やを言う事叶わぬと御存知にも拘らず、使節団へお忍びになった。
何より殿下はそういう事をなさる御方であると上級貴族に普く知られている事が問題であります。 少し賢い者が厳重な警護に囲まれている殿下に何かを仕掛けるより、影武者を殺す方が容易と気づいたとしても不思議はございません。 その影武者が無名の一兵卒ならともかく、民に愛されている若き英雄。 しかも殺された理由が殿下の密会。 これでは身代わりとなった英雄は犬死も同然。 民の怒りは名も知らぬ暗殺者より、その原因を作った殿下に向かった事でしょう」
それがこの陰謀の目的であったのだろう。 密会ではないと言った所で何になる。 私は傍目からそうとしか見えない行動を取ってしまったのだ。 生まれて一度も顔を見た事のない女性と結婚するのが嫌だったなど、子供の戯れ言にしか聞こえまい。
「父王陛下より此度ただ一度だけ赦そうという有り難きお言葉を戴いた。 その御寛恕を無駄にはすまい。 誰もが二度目の機会を与えられる訳ではない事は充分承知しておる」
上に立つ者として誤りを正す事に迷ってはならない。 仮にそれが既に手遅れだったとしても。
ヘルセス公爵は型通りの慇懃な礼をして退室した。 そこに少しの温もりが戻ったような気がする。 気の所為かもしれないが。
しかし肝心なのはヴィジャヤンがこの申し出をどう受け止めるか、だ。 火中の栗と見るか、私に恩を売るには二度とない好機と見るか。 そして次にどう動く?
ヴィジャヤンは人に恩を売るのがうまいらしい。 無爵となっても宮廷内の人脈には侮れないものがある。 味方となってくれるならこれ程心強い味方はないのだが。 今まで私の戴冠に積極的な協力の姿勢を見せた事はない。 もっとも現時点で旗印を明瞭にする事を焦る者など一人もいないが。
彼はどう決断する? 自ら出向いて聞きたいくらいだが、今はただ藁にも縋る思いでヘルセス公爵が吉報を持ち帰ってくれる事を待つしかない。
幸運だったのは襲撃の際、六頭殺しの若が死ななかったという事だ。 もし北の猛虎がその場におらねば、と思うとぞっとする。 いかに陛下であろうと皇国五軍の将軍、並み居る貴族の轟々たる非難に直面して私に二度目の機会を下さったとは思えない。
自らの幸運が使い果たされていない事を天に祈った。




