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弓と剣  作者: 淳A
昇進
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輝き  トビの話

「若は泣き止まれたでしょうか?」

 部屋の外で待っていた私の質問に、コオさんは、いや、今ではタマラ小隊長とお呼びせねばならないが、静かに頷かれた。

「ああ、ぐっすり眠っておられる。 朝までお目覚めになるまい」

 タマラ小隊長は軍務から離れた私的な時間になると、若に対してこのように敬語を使われる。 休暇のように見えてもこれは軍務だ。 敬語を使う必要などないのに。 必要ないどころか、もし軍属の誰かに聞き咎められて告げ口でもされたら懲戒処分となっても仕方のない誤りだ。 分かってはいても、そのような言葉遣いを止められないのだろう。 若を気遣うあまり。


 タマラ小隊長のシャツがびしょ濡れだ。

「よろしければ私が洗濯いたしましょう」

「頼む」

 タマラ小隊長はそうおっしゃってシャツを脱いだ。 受け取ったシャツの重さに思わずため息が零れる。 それに気付いたタマラ小隊長が私の肩をぽんと叩く。

「心配しなくても大丈夫だ。 若はああ見えて芯がとても強くていらっしゃる。 明日には以前のように笑って、は。 まあ、その。 無理だろうが。 時間はかかっても、きっと乗り越えて下さる」

 若の強さなら私とて承知している。 黙っていようかとも思ったが、タマラ小隊長は若にとってこれからも何かとお世話になる御方の一人だ。 誤解されぬよう正直に言っておいた方がよいと思い直した。

「いえ、これは自分の不甲斐なさを情けなく思っただけの事。 どうぞお気になさらないで下さい」

「不甲斐ない? どこが?」

「今日のような若が誰かに頼りたい、縋りたいと思われる時こそ必要とされる従者でありたいという心構えで精進してはおりますものの、若がお呼びになったのはタマラ小隊長です。 普段の小言の多さが災いしての事かもしれませんが」

 タマラ小隊長が微かに微笑まれる。

「若はお前を充分頼っていると思うぞ。 いつもお前の事を目で探していらっしゃるしな。 常々お前に支えられているという事は若も重々御承知だ。 言ってしまえば、これは若の見栄。 分かってやれ」

「見栄、でございますか?」

「そうだ。 若にとってお前は立派で自分に過ぎた従者だ。 いつかお前に相応しい主になろうと密かに努力なさっている。 そのお前の前で大泣きする訳にはいかんだろう?」

 意外な解釈に思わずタマラ小隊長のお顔を凝視する。 冗談を言っているようには見えないが。 私自身は若がそのような努力をなさっていると感じた事はなかった。

「若がそうタマラ小隊長におっしゃった事でもあるのでしょうか?」

「言わないさ。 あの口下手な若だぞ。 お前だけでなく誰にも一生言わんだろう。 だが私には分かる。 伊達に若のおしめを替えた訳じゃない。 三つ子の魂、てやつだ。 明日、若が恥ずかしそうにしていたら泣き声など少しも聞こえなかった振りをしてあげてくれ。 これから暫くは夜、悪夢に魘されると思う。 それも気付かない振りで。 寝台の側に予め水差しを置いておくくらいでいい」

 そしてタマラ小隊長は自室へと戻って行かれた。 傷と打撲の跡が痛々しい後ろ姿を拝見しながら、御家族のどなたよりも強い絆で若と結ばれていらっしゃるタマラ小隊長を羨ましいと思わずにはいられない。


 タマラ小隊長が本邸で過ごされた八年間、若はさぞかしやんちゃでかわいらしかった事だろう。 十年ぶりの再会だというのに、あの人見知りな若が、年月など少しも流れなかったかのようにタマラ小隊長の腕の中に飛び込んだ。 それだけ見てもどれ程タマラ小隊長を御信頼なさっていらっしゃるかが分かる。

 けれど私が羨ましいなどと言っては罰が当たるというもの。 同じ邸に寝起きして十年。 私の方こそ大勢に羨まれて当然の立場にいるのだから。

 だが従者になる前の若と私の間に何らかの交流があったとは言い難い。 若にとって私は単なる実家の奉公人。 私にとって若は主家を継ぐ可能性の全くない三男。 共に暮らした年月こそタマラ小隊長より長いが、私達の関係は顔見知り以外の何ものでもなかった。

 実は、若の方は私と遊びたがっていた。 それは知っていたが、私はその誘いたげな視線を常に無視した。 旦那様から、サダには構わぬように、というお言葉があった所為もある。 それは私だけでなく本邸勤務の奉公人全員に通達されていた。 無関心は主の命に従っただけと言えるが、それ以前に私にとって若は気に止める価値のない存在だったのだ。


 才を見込まれて雇われた私は将来伯爵家の執事となる事を嘱望されていた。 その御期待に応えるべく毎日相当量の勉強をしており、若とは一番年が近いにも拘らず、一緒に遊んだ事もなければ会話らしい会話を交わした事もなかった。

 長男のサガ様、及び次男のサジ様は大変英明でいらっしゃるし、共に学んだという事もあり、お人柄をよく存知あげている。 サガ様が爵位を継がれる事は私が伯爵家に来た時にはもう明らかだった。 つまり私にとってサガ様だけが生涯お仕え申し上げる主。

 サガ様に万が一の事があればサジ様が継がれる可能性もあるが、若が継がれる可能性はゼロに等しい。 つまり成人なさるまでの何年かを一緒に過ごす親戚に過ぎず、独立なさったら滅多に会う事はなくなる。

 何より私の目に若は毎日遊んでいるぼんくらにしか見えなかった。 昔から学芸一般が苦手でいらしたが、特に算数に弱い。 足し引き掛け算こそ何とか出来たが、割り算となるといつも間違える。 流石に割り算も出来るようになってから小学校を卒業なさったようだが。 どこまで出来ていらっしゃるのか、確認をした事はない。

 何しろ分からなければ勉強すればよいのに宿題でさえ自分で考えず、答えだけを私に聞きに来る。 内心呆れてしまったが、まさか主家の御子息を怒鳴りつける訳にもいかない。 だが睨んで追い返すくらいの事はした。 だからか、その内私の所に寄り付かなくなった。


 成人されたからといって若の御気性が変わった訳でも、こう申し上げてはなんだが、賢くなられた訳でもない。 英雄として名が知られるようになった今でも若は若。 まっすぐな御気性のまま。 相変わらずでいらっしゃる。

 そう、若が八つの時、初めてお会いした時からあの瞳に宿る魂に変わりはない。 ただ私がその輝きに気付いていなかっただけで。

 そして今は、その輝きに捕らわれているだけで。


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