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弓と剣  作者: 淳A
春遠き
53/490

半袖

 なんだ。 なんなんだ、あれは一体。 

 嫌みか? そうだよな。 嫌みに決まってるよな?

「若、どうなさいました。 何をお怒りでいらっしゃる?」

「トビ。 お前はあれを見て腹が立たないのか?」

 俺は窓から外を指さした。 そこには半袖の軍服を着た兵士が数人、歩いている。

 繰り返す。 半袖だ。 

 日差しが暖かい? そりゃ暖かいだろうさ。 今は三月の終わり。 二月の一瞬で死ぬかと思うようなばりばりの寒波に比べたらそこそこ日も長くなった。 吐いた息の水分が氷となって顔に張り付く時期は過ぎている。

 なにしろ朝、小鳥のさえずりが聞こえるんだ。 寒波の厳しい頃は世界の全てが死に絶えたかのように何の音も聞こえなかったのに。 それに比べたら少なくとも春が間近いという事を認めるのにやぶさかではない。

 だが春が間近い、というのは春が来た、という意味じゃない。 絶対に、ない。 四月だろうと雪が積もる程降る事がよくある北で、三月を春と呼ぶのは間違っている。


「湖を見ろ。 まだぶ厚い氷がびっちり張っていて、その上を犬ぞりが走っているんだぞ。 あの犬ぞりは十頭引きだから荷物は軽く五百キロを越える。 氷をハンマーで割ろうとしたって割れるような厚さじゃない。

 地面だって雪に覆われている。 汲んで来た水だってお湯を足さなきゃとてもじゃないが手を突っ込めない。 日差しがちょっと暖かくなったからって三月に半袖を着る奴がどこにいる!」

 あちらにいる。 そちらにいる。 そこらじゅうにいる。

「ですから、それのどこが問題なのでしょう?」

 トビは不思議そうな顔をして俺を見ている。 思わず舌打ちしたくなった。 こいつにはどうして見栄とか体裁とかが分からないんだ? それを男から取ったら何も残らないだろ?

「お前には、あいつらがいかに寒さに強いかを見せつけているか、分からんのか?」

「そうでしょうか?」

「そうじゃなければ、この股引が手放せない時期に半袖を着て外を歩くか?」

「つまり寒さに強い事を誇示するため、若も半袖を着て歩きたいとおっしゃる?」

「何を馬鹿な事言ってる! そんな事をしたら風邪を引いちゃうだろ」

「あの方達は風邪を引いていないようですが」

「だーかーらー。 あいつらは半袖なんか着て、俺達は北の熊、お前達とは出来が違う、と見せつけているんだ。 お前は頭がいいんだからそれぐらい言われなくても分かれ!」


 つい、きつい口調になってしまった。 あいつらが薄着なのはトビのせいじゃない。 トビに文句を言ったって仕方ないのに。

 八つ当たりでしかない事は俺だって分かっている。 こっぴどく言い返される事を予想して内心身構えたが、トビが気にしたようには見えなかった。 手際よく洗濯物を畳んでいる。 その手を休めず、いつもと全く変らない口調で答えた。

「つまり半袖は着たいが寒くて着られない。 それ故着ている奴らを見るのが面白くない。 かと言って着るのを止めさせる術がない以上、従者を相手に弱い者いじめでもして憂さ晴らしをするか。 という理解でよろしいでしょうか」

「う。 いや、そ、そうは言ってないだろ」

 主に言われっぱなしで引き下がるような従者じゃない事は知っていたけど。 弱い者いじめって。 なんだよー。 弱くていじめられているのはいつも俺じゃないか。 今ここでそんな口答えをする度胸はないが。

「では何をおっしゃりたいのでしょう? 半袖を用意しろとおっしゃるのでしたらすぐにお出しします。 要点を明確にして戴きませんと、従者として経験の浅い私には分かりかねるのですが」


 口でトビに敵う訳がない。 もう、何もかも面白くなくて、ふん、とそれ以上何も言わず外に出た。

 俺が今着ている長袖シャツの下はもこもこシャツ。 冬用下着の必需品だ。 もちろん長パンツの下には股引二枚を重ね着している。 俺は見栄っ張りじゃないからな。 寒いのを寒いと言って何が悪い。

 そりゃ俺だって薄着して格好良く決められるものなら決めたいさ。 この時期に厚着していたら、いかにも俺は南から来ました、と宣伝しているみたい。 でも背に腹は代えられない。


 そしたら次の日、トビが薄手の股引、長袖の下着シャツを買ってきてくれた。 体にぴったりしているので、もこもこ下着みたいに重ね着していますという感じがない。

 この上になら半袖シャツを着てもおかしくないな。 うん、ちょっとすらっとした感じ?

 トビ、お前はやっぱり従者の鑑だ。


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