矢切り
北軍には「百剣」と呼ばれる剣士の精鋭部隊がある。 毎月軍内では剣の競技会が行われていて、そこで勝ち残った上位百人だ。 その中に入れた三十歳以下の剣士は軍対抗戦出場候補者として特別強化訓練に参加する。
弓には皇国軍の代表が競う対抗戦みたいな競技会はないし、軍内での競技会もないが、似たような精鋭部隊ならある。 それが「矢切り」だ。
矢切りの射手として認められる為には三十メートル先に置いた直径十センチの赤い的に百矢、全部命中させなきゃならない。 一本でも外したらその時点で失格。 的は五十あって、それぞれ二矢を打ち込む。
なぜそんなに的が小さいのか? 矢切りって剣士が矢を切り落とす稽古だからだ。 つまり的は生身の剣士な訳。
もちろん剣士はちゃんと防具を付けている。 とは言っても腕の動きを邪魔しないように関節には何も付けていない。 矢切りが出来る剣士ならともかく、まだ出来ない剣士に向かって射る時、射手が下手で防具を付けていない所に矢を当てたりしたら怪我人が出る。 だから間違っても外さない、そんな射手だけが矢切りの稽古相手として選ばれるんだ。
俺は百矢を全て命中させたから無事矢切りの射手に選ばれた。 ところがいざ本番、剣士に向かって矢を射つという時に固まっちゃって。 射てなかった。 相手が矢切りを習得した剣士と分かっていれば大丈夫かもと思い、ポクソン中隊長に的になってもらったが、それでもだめ。 的が人間だとどうしても怖くて矢が放てない。
えーーっとお。 これって兵士として致命的だったりする?
もっとも北軍兵士の日常は意外に地味だ。 駆り出されるのは自然災害の時の救助(大雪で道路が不通になった時の除雪を含む)とか、大規模な野火の消火やオーク狩りがほとんど。 人に向かって射る事がよくある訳じゃない。
考えてみれば内乱が起こったとか、どっかの国と戦争したという記憶を持っている者なんて少なくとも俺の世代ではいないはずだ。 平和だからって事件がない訳じゃないけど。 事故も病死もあるし、殺される兵士だっている。 でも国内の軍に所属する兵士なら明日死ぬという覚悟で眠る者はまずいないだろう。
そうは言ってもいざ敵と戦わねばならない時に使いものにならないんじゃ兵士とは呼べないよな。 鴨しか射てないなら猟師だ。 まあ、食べ物がなけりゃ戦えない。 食料確保だって誰かがやらねばならない大切な仕事だとは思うけど。
はああ。 一つだけでも人に自慢出来る取り柄があると思っていたのに。 その取り柄でさえ実は見かけ倒しだったとは。 なんか自分にがっかりしちゃったりして。
「なあ、トビ」
「何でございましょう?」
「俺。 その、このままここにいてもいいのかな? 除隊するべきだと思う?」
「お気持ちに従って下さい。 若がどのような御決断をなさろうと私は若がお決めになった所へ付いてまいります」
トビはちっとも心配していない顔でそう答えた。 俺にどうしろとか言わない。
それって実はすごい事だったりする。 お前ってすごいな、と口に出して褒めたりしないけど。
普通、主がそんな質問をしたら、そうですね、この際除隊して、どこぞの婿になっては如何ですか、と言うだろ。 そっちの方がトビにとってずっと楽なんだし。
何しろ見合いの話ならいくらでも来ている。 全部断っているけど、一回断られたくらいじゃ諦め切れない人がいるみたいで。 俺に直接持ち込むと何も聞かずに断られるからかトビに持ち込んでくる。 そっちの方が多いくらい。 だから俺がその気になりさえすれば除隊しても全然困らない、て事はトビも知っている。
婿になったら領主とか部隊の指揮をする立場になるだろう。 なら自分で戦う必要はない。 何よりトビにとって今まで一生懸命習い覚えた事が全て役に立つ。 帳簿の読み方とか貴族のしきたりだけじゃない。 本邸の管理から領地の視察まで俺にはとても覚えきれないすごい量の勉強を毎日必死にしていたんだ。 せっかく勉強したのに使わないのは勿体ないとか、誰だって思うだろ。
でも結婚? 俺が? で、領主? それってなんの冗談?
領主になった俺なんて自分でも想像出来ない。 貴族として当たり前の儀礼さえ知らないのに領民に向かってきちんとしろなんて言えるか?
結婚だって一生するつもりはない。 妻となった人になんと言ったらいいのか分からないし。 夫として妻の面倒を見るとか、俺には無理。 他の人にはとっては簡単に出来る事でも俺にとっては簡単じゃないんだ。
トビは俺がやりたくない事をやれと言ったりしない。 婿になる事をトビに勧められたら嫌々ながらもうんと言ったと思うのに。 だってトビは自分がやりたくなくても従者という汚れ仕事をやってくれている。 俺のために。 雀の涙の給金なんかじゃ報いたとはとても言えない。 それほど頑張ってくれているんだ。
もっとも婿になる道を選んだら、その後ずっと毎日のようにトビに愚痴を零す事になるかも。 それはトビとしても避けたいだろう。
婿が嫌なら他に一体何がやれる? はっきりしているのは、俺には商才もなければ領地を経営していく才覚もない、て事だ。 そして剣で身を立てる事(傭兵や護衛)が出来る腕じゃない。 猟師ならやれるが、狩りってどこでも勝手にやっていい訳じゃないし。 俺の金は家なら買えるけど、森を買うには足りないと思う。 それって要するに実家に帰るしかない、て事になる。
じゃ、依願除隊するのか? 入隊一年未満で? それってちょっと。 いや、かなり恥ずかしい。 理由が理由なだけに。
それも嫌なら旅に出る? 北軍に入隊したおかげで贅沢しなければ一生食っていけるくらいの金は貯まった。 皇国は広い。 実家に帰りたくなきゃ帰らないという道もある。 一生旅をし続ける、とか。 これからずっと? それって何のために生きてる、と思うんじゃね? 他人は思わなくても自分が。
北の冬は厳しいが、俺はいつの間にかここで兵士として一生を過ごす事に決めていた。 運が良ければ生きて退役の日を迎えて。 それからは天気の良い日には街角で同じ退役軍人仲間相手に将棋指したりとかさ。 将棋なんて指した事ないけど。 ルールは退役した後で覚えればいいだろ。 時間だってたっぷりあるだろうし。
だけど十八やそこらで毎日将棋指していたらまずいよな? 若いのに何やっているんだ、て世間の目だって冷たいと思う。 どうしたらいいんだろ。
夜によく眠れなかったせいで朝餉の時ぼーっとしていたら俺の隣にタケオ小隊長がやってきた。
「よお」
「タケオ小隊長。 おはようございます」
「特訓が必要なんだってな」
「はい?」
「いいぜ。 俺はこう見えても付き合いのいい奴だ。 いつも饅頭をただで貰っているし」
「あのー、何の特訓ですか?」
「矢切りの特訓に決まってるじゃねえか。 他は何でも出来るんだろ」
「え? でも、俺、固まっちゃって射てなかったんですけど」
「だから特訓だ。 俺も忙しい。 今から来い」
問答無用で俺はそのまま道場に引っ張っていかれた。 そこでどういう特訓をされるのか分かっていたら、俺はきっとやる前に固く断り、その足で依願除隊届けを出しに行ったと思う。
タケオ小隊長は防具を何一つ着けていない。 矢切りを練習する時は簡単に出来る剣士だって面、首周り、胸、肩、上腕、急所、腿、脛に必ず防具を着ける。 それで油断した、と言うか、何をするんだろうと思って見ていたら、タケオ小隊長は剣を取って百メートルくらい先まで歩いて行った。
くるっと振り向いたと同時に、ぶわっと道場内に殺気が溢れる。 タケオ小隊長が剣を振りかざし、俺に向かって襲いかかって来た!
ぎゃーーーっ!! こ、怖いっ!
オークが襲いかかってきた時だってこれほど恐ろしくはなかったと断言出来る。 考えている暇はない。 無我夢中で矢を放った。
バシッ
矢が切り落とされた。 二矢目を放っている時間はない。 だめだ、こ、殺される!
だけど恐いもの見たさなのか、目を閉じる事が出来ない。 俺の目の前でタケオ小隊長が立ち止まった。
「なんだ、ちゃんと射てるんじゃねえか」
その言葉で、はっと我に返った。 辺りから殺気が消えている。
「もう二、三回やっとくか。 勘が鈍らねえうちにな」
すうっと気が遠くなっていくのを感じながら、一体誰がこんな特訓を頼んだりしたんだろう、と考えたのを覚えている。
目が覚めたら自室のベッドで横になっていた。 トビが気遣わしげに俺の顔を見つめている。
「特訓頼んだのって、おまえ?」
決して責めるような口調ではなかったと思う。 でも褒める口調でなかった事は確かだ。
「特訓、とは。 何の事でございましょう?」
とぼけるなよ、とトビをなじりそうになって、あやうく口をつぐんだ。 特訓を頼んだのはトビとは限らない、て事に気が付いたから。
矢切りの稽古で固まった俺を見ていたのは一人や二人じゃない。 弓部隊はもちろん、道場にはかなりの数の剣士がいた。 その場にはいなくても、その後俺はかなりしょげていたから噂になっただろうし。
ここでトビをなじるのは簡単だが、もし無実だったと後で分かったら、せっかく信頼を築き始めた主従関係にひび、とか? そこまでいかなくとも謝る時に気まずい思いをする事になる。 よし、まず確認しておこう。
「タケオ小隊長が特訓だって言って俺に襲いかかってきたんだ」
「衣服の乱れはなかったようですが?」
衣服の乱れ? こいつ、何を言ってる?
「なんで衣服が乱れるのさ?」
「襲いかかられたのでしょう?」
「ば、ばかっ! な、何の特訓だと思っている!」
「何の特訓か、まずおっしゃって下さいませんと分かりようがありません。 取りあえず襲いかかられた、という言葉から類推をしたまでです」
「矢切りの特訓だよ!」
「矢切り?」
「ものすごい殺気で。 俺、こ、怖かった。 ほんと、まじ、殺されるって思った。 人生が走馬灯のように流れていって。 もう夢中でさ、矢を放った」
「すると矢が放てるようになったのですね」
「え?」
「たった一度の特訓で成果がすぐ表れるとは。 おめでとうございます」
めでたいのか? まあ、射てるなら除隊を悩む必要はないよな。
俺は次の日から人に向かって矢が放てるようになり、晴れて矢切りの射手となった。
「もう一回やっておくか? 念のために」
「いいえ、もう大丈夫です。 その節は大変お世話になりました」
そうタケオ小隊長に言いきった以上、自分でなんとかするしかなかったという事もあるけど。
「あのう、師範に俺の特訓を頼んだ人は誰なんでしょうか?」
「誰だっていいだろ。 何だ、礼でも言いたいのか? まさか、文句を言いたいって訳じゃないよな?」
ぎろっと睨まれ、それ以上追及する事は出来なかった。
矢切りの射手になれた事は有り難いが。 やっぱり気になる。 誰がこんな無茶苦茶怖い特訓を頼んだの?




