軍師 1 オキ・マッギニスの話
葡萄酒を飲んで崩れ落ちるポクソン補佐を見たモンドー将軍は真っ先に私へ鋭い視線を投げた。 単なる疑惑以上の非難を込めて。
其方ならこうなると予測していたのではないか。 予測していたのならなぜ止められなかった、と。
その非難は私がヴィジャヤン大隊長の、いや、北軍の諜報、戦略を指揮する者と認識されている証。 と思えば、賞賛と言ってもよいくらいだが。 過去、私の戦略が計画通りに遂行された事はほとんどないか、遂行されても期待していた結果を齎さなかった。 今回私が実現させたヴァレーズ王太子の北軍訪問のように。 しかしこれほど甚大な損失を被る事になろうとは。
この訪問の背景に関してはジンヤ副将軍に説明していた。
クポトラデルは国王ハルサダル二世とその重臣が国政を支配する王政派と、大僧正アユーアを宗教だけでなく政治的な指導者と仰ぐべきとする祭政一致派が拮抗している。 軍隊は国王が掌握しているから一触即発の状態ではないが、国政を思うがままにしたい大僧正がいずれ事を起こすと予想され、不安定な政情だ。
ノーイエン王朝時代、クポトラデルではどの王も王宮や離宮の建設に巨額の資金を投じ、民を疲弊させていた。 だがハルサダル王朝になってから道路整備や病院、学校の建設が優先されている。 王宮は質素で新築どころか増改築の計画さえない。 これは豪奢な寺院の建造は遠慮しろ、という大僧正への牽制も兼ねているらしい。 そのおかげか国庫は豊かとは言えないものの困窮してはおらず、王都で物乞いの姿を見掛ける事は少ない。
しかし好き勝手をしたい大僧正と辺境領主にとって強いられた質実剛健は強過ぎる王権を意味する。 国王は信仰心篤く、人柄や施政能力にも問題はないのだが、皮肉な事にその何も問題がない事が問題なのだ。
国王として相応しくなければ反乱を起こしやすい。 或いは王太子に問題があれば王位継承の際に大僧正派が傀儡を擁立する道もある。 だが現王太子は文武に秀で、民情にも詳しい。 余程の事がない限り彼が王位を、そして父王の施政方針である質実剛健を継承すると思われる。
軍を掌握している国王に真正面から戦いを挑んでも寺院所有の富を減らすだけ。 それは大僧正も承知しているらしく、王政廃止は今の所大僧正とその側近の間で囁かれているに過ぎない。 ただ大僧正が国政を掌握しようと思えば出来ない事でもないのだ。
クポトラデルの民は海底に海王ギラムの王宮があると信じている。 死後、海王宮に迎え入れられた者は永遠の安寧の中でまどろみ、迎え入れられなかった者は海底を彷徨い、波を荒らし続ける、と。
海王宮に入るための許可証は入宮券と呼ばれ、海王宮の門番である大僧正が専売権を持つ。 入宮券がない死体は海に沈められず、葬式を出せない。 入宮券なしに死体を海に流せば一家全員死罪となるから貧しくて入宮券が買えない者は葬式をせず、死体を土に埋める。 だが継ぐものなど何もない貧乏人ならともかく、家名や財産、領地を継ぐ者が葬式が出せないのは世間の物笑いの種だ。
金さえ出せば買えるもの。 とは言え、定価はないも同然。 大僧正が売り値を吊り上げたり売り惜しみする事は容易い。 入宮券が欲しいなら国王を殺せ、と王の側近に命じる事も。 人選さえ間違えなければ成功するだろう。
国王は大僧正が持つ影響力を理解している。 であればこそ大僧正の機嫌を損ねないよう、御前会議にも出席させているのだ。 国政に口出しする機会を与え、新法の制定や法の改正で揉めないように。
ただ大僧正は経済の動きに疎い。 穀物買い入れ業者や物品納入業者への課税が寺領収入へどのような影響を齎すか理解していなかったようで、施行された。 寺院への参道を有料とし、その金を道の補修費用とする事は額が小さいため御前会議での審議項目とはならず、大僧正は施行されるまで知らなかった。
間接であろうと課税は課税。 一つ一つは小さくとも塵も積もれば、で大僧正の不満が蓄積している。
遠く離れた小国で内乱が勃発しようと私が懸念する事件とはならない。 しかしクポトラデルの諜報員が北で飲み屋を開店したのはヴィジャヤン大隊長が北軍に入隊した年だ。 六頭殺しの若という二つ名は諸外国へも広まっていたが、すぐに諜報員を北へ派遣した国は他にない。 情報通の大国に勝るとも劣らないその素早さが私の注意を引いた。
準大公、青竜の騎士、瑞兆の実父、そして皇王陛下の寵臣となった現在なら様々な国の諜報員がヴィジャヤン大隊長に関する事実や噂を収拾している。 だが当時は単なる伯爵家の三男。 ギラムシオは皇国内でさえ南部の海村で囁かれる噂に過ぎなかった。 今ではクポトラデルから巡礼に訪れる者も少なくないが、大僧正は当時は勿論、現在もサダ・ヴィジャヤンがギラムシオとは認めていないのだ。 諜報員の長期滞在はギラムシオへの興味が理由ではないと思われる。
調べてみるとクポトラデルは当初諜報員をヴィジャヤン伯爵家に潜入させようとしており、本邸や皇都の別邸に求職したり、次男サジ殿の行方を探った形跡もあった。 いずれも失敗しているが。 どうやらそれで諜報活動の焦点を職業住所が明確な三男に移したらしい。
諜報員は三男に関する情報を収集していたが、三男がレカ兄上と呼ぶ人に関する情報を特に聞きたがっていたから、どこかでレカ殿に関する噂を耳にしたのだろう。
何しろヴィジャヤン大隊長は機密保持に関して全くの素人より質が悪い。 美しい兄を自慢したかったらしく、質問された訳でもないのに誰彼構わずお話しになっていらした。 レカ殿の出自に関しては孤児としか御存知ないし、ノーイエン王族直系男子特有の身体的特徴を御存知な訳でもない。 耳が尖っていると話す事が何を意味するか、御存知なくても仕方がないのだが。
それでなくとも道端で今日初めて出会った平民に、どちらまでと質問されたら正直に行き先を教える御方だ。 かと言って下手に口止めすれば、口止めされているから話せないんですよ、と誰に何を口止めされているか洗いざらいお話しになる。 それでヴィジャヤン準公爵も余計な口止めをなさらなかったのだろう。 口止めなど百害あって一利なしと御存知だから。
御本人はダダ漏れでもヴィジャヤン本家の皆様はしっかりしている。 レカ殿の出生はそれほど広くは知られていない。 それに深読みするタイプなら噂を聞いても誰かがわざと流したのでは、とまず真贋を疑う。 直接本人から聞いたのならともかく、又聞きの又聞きなら、その言葉を伝えた者が正直に伝えているか、文脈を無視した解釈をしていないかも疑うだろう。 たとえヴィジャヤン大隊長本人から直接聞いたのだとしてもレカ殿に直接会って耳を見たのでなければ本当に尖っているのかは分からないのだから。
しかしジンヤ副将軍は私がクポトラデルに関する報告をする前からレカ殿の出自について御存知だった。 ジンヤ副将軍が御存知ならモンドー将軍と皇王陛下も御存知のはず。 ならばカルア将軍補佐やカイザー侍従長などの周辺、又は伝達経路から漏れたとも考えられる。
クポトラデル国王がどこまで知っているかは未確認だが、いずれにしてもレカ殿は王位を狙うようなお人柄ではない。 身分を隠してクポトラデルを訪れようと思えばいくらでも出来るのに、祖国に足を踏み入れた事が一度もない所を見ると望郷の念已み難く、と言う訳でもないようだ。
加えてヴィジャヤン準公爵が首領である諜報組織「皇国の耳」は年々目覚ましい成長を遂げている。 それはレカ殿の貢献による所が大きい。 皇国の耳を継ぐのは誰か、ヴィジャヤン準公爵は公表していないが、レカ殿は次期首領候補の一人なのだとか。 世界中に張り巡らせた情報網の首領となる事はクポトラデルのような小国の王以上の権力と言える。 クポトラデル王に即位するのは降格も同然だ。
ただ本人に野心はなかろうとレカ殿は海王の愛孫が兄と慕う御方。 それは海王宮の門番という大僧正の権威を上回る。 クポトラデルの民はヴィジャヤン大隊長がギラムシオであると信じているのだから。
国王がギラムシオの兄を味方に付けた場合、大僧正の権威は地に落ち、入宮券の専売権も失われるか入宮券自体が廃止される恐れもある。 と大僧正が考えたとしたら何としてでもそれを阻止しようとするだろう。
ヴィジャヤン大隊長は武力による解決を望まず、御自分の名誉や権益を守る事にさえ大した御関心はない。 武器の購入より部下の福利厚生の拡充を優先なさるお人柄は世間に知られているが、同時に自分の命を救ってくれた人に対する恩義をいつまでも忘れず、恩人の危機には万難を排して駆けつける御気性でもある。
レカ殿がクポトラデルの内戦に巻き込まれたら、たとえ北軍から退官する事になろうとヴィジャヤン大隊長はレカ殿に加勢なさるだろう。 準大公になったから自分で行く必要はないとは夢にも思うまい。
その場合、北軍はどう動く? それは将軍が誰であるかによって大きく左右されるし、誰であろうと不確定要素が多過ぎて必ずこうなるとは予測し難い。
北軍、又は皇国五軍の全面的な支援がある。 多少はある。 そして全くない事態も想定せねばならない。 全くない場合、武器と私兵を持たない準大公を誰が支援してくれるのか。 準大公の危機と知れば駆けつける国内貴族は多いと思うが、味方同士であろうと利害が完全に一致するのは難しい。 利害が違えば当然行動も違ってくる。 仲間内での主導権争いも起こらないとは言い切れない。
兵は集まったとしても誰の指揮に従うかは又別の話。 そもそも武力闘争を好まず、僅かな兵しか指揮した事がないヴィジャヤン大隊長が、ある日突然数万の兵の指揮をして勝てるのか? 兵の統率をするだけでも難問山積。 クポトラデルまで進軍させねばならないのだから費用の問題もある。
六頭殺しの若、ギラムシオ、青竜の騎士。 ヴィジャヤン大隊長の勇名はクポトラデル周辺諸国にも届いているが、万を越える兵が通過するのを黙って見てくれるか。 通過はさせてもらえたとしても物資の補給もさせてもらえるかどうかは分からない。
ヴィジャヤン大隊長では指揮が無理なら誰か他の者にさせる? 誰に?
レカ殿と王政派が協力体制を築いた場合、王太子が指揮をすると考えられる。 ならば王太子に指揮能力があるか。 ない場合、その能力がある者が王政派の中にいるか。 いなければこちらから誰を指名するか。 見極めを付けておかねばならない。 状況が逼迫し、他の選択肢がなくなる前に。
そう考えた私はジンヤ副将軍へ提案し、王太子の北軍訪問を実現させた。 ヴィジャヤン大隊長として、或いは北軍として正式な招待をすればクポトラデル以外の国の嫉妬と疑惑を招く。 そこでクポトラデルにコネを持つダンホフ公爵に依頼し、表向きはダンホフ領へ招待された王太子がついでに北軍を表敬訪問した形にした。
念の為、王太子外遊中の警備について北軍は一切責任を負わない事をクポトラデルとダンホフ、双方に明言してある。 王太子訪問の真の理由や背景は全て機密だ。 将軍は私の直属上官ではないので私からは何も説明していないし、直属上官であるヴィジャヤン大隊長にさえ私からは何も報告していない。 それはジンヤ副将軍も御存知だ。
因みにジンヤ副将軍が誰にどこまで説明なさったかについて私は知らされていない。 昼食会出席者であるタケオ大隊長にジンヤ副将軍が毒殺の可能性を説明していたかどうかも。
ただ外遊中に起こり得る事件の一つに毒殺が考えられる事はジンヤ副将軍に報告していた。 クポトラデルの葡萄酒は皇国内でも高く評価されており、王族が外遊する時は必ず葡萄酒を土産として持参する。 将軍とヴィジャヤン大隊長は酒を飲まない。 だがポクソン補佐は酒豪として知られているし、タケオ大隊長も勧められたら飲むだろう。 毒味をしていない葡萄酒は絶対に飲むな、とお二人に伝えていなかったとは思えないのだが。
もっとも私自身、犠牲者が出るとしたら王太子か、その身代わりになった侍従、或いは毒味係と考え、皇国側の出席者から犠牲者が出るとは予想していなかった。 王家は何万本もの葡萄酒を貯蔵しており、大僧正が飲む機会もあるから無差別に毒を入れたはずはない。 それに国王、大僧正どちらも皇国と事を構える事を望んでいない以上、北軍将軍へ献呈する葡萄酒に毒を仕込むはずはない、と。
何よりギラムシオその人をこの目で見てみたいと願うのは平民に限らない。 王太子だけでなく大僧正も噂の生き神様がどういう人物なのか強い興味を持っているはず。 それを知る前に毒入り葡萄酒を献呈するはずはないと考えたのだが。 ヴィジャヤン大隊長は酒を飲まないと知っているのなら献呈酒に毒を入れる事を躊躇する必要はない。
手薄な警備の外遊は王太子暗殺を目論む者達にとって格好の機会であるだけでなく、王太子に濡れ衣を着せようと思えば着せられる機会でもある。 葡萄酒が毒入りであった場合、酒を持参した者が疑われるのは当然の帰結。 無実を証明出来なければ王太子であろうと厳罰は免れまい。 死罪にはならなくとも帰国は不可能となるだろう。
これは国王暗殺を計画したり、北軍兵に囲まれている王太子を襲うより簡単だ。 それに葡萄酒に毒を仕込むだけなら王太子の側近である必要はない。 葡萄酒を運ぶ人足に毒と知らせず、これを酒に入れておけと命じるだけでよい。 どの葡萄酒が献呈されるか知らなくとも、いつか誰かがそれを飲む。 死ぬのは誰でも構わない。 王太子が献呈するとしたら相手は皇国の上級貴族か高位高官に決まっている。
皇国側から見れば犯人は目の前にいるのだ。 真犯人を探すためにクポトラデルへ調査官を派遣する意味はない。 クポトラデルで真犯人が現れたとしても国王が自分の息子を救う為に身代わりを差し出したと受け取る。
これらの可能性を考慮していなかったのは私の完全な失策だ。 私にとってヴィジャヤン大隊長を守る事が第一。 とは言え、他の誰がどうなってもいい訳ではない。 しかし傍目には毒殺事件を予想していたにも拘らずポクソン補佐に警告せず、見殺しにしたようにしか見えないだろう。
次室にメイレとリスメイヤーを待機させていたのは私だ。 貴賓との食事会の際、常に医師と薬師が待機しているが、普通は医療部隊へ食事会の日時が届けられるだけで誰が待機すべきか指名されたりはしない。 メイレはヴィジャヤン大隊長の主治医でもあるから私の指名がなくても待機していたと思うが、リスメイヤーでなければ困るのは毒薬関係に限られる。 それに私は毒味役用イカムを用意させてもいた。
それにしてもポクソン補佐はなぜ毒味をせずに葡萄酒を飲み干したのか? 献呈された葡萄酒の毒味をさせるのは穏当ではないにしても外交問題に発展するほどの失礼ではない。 何の問題もなかったら相手を不快にさせる可能性はあるが、ポクソン補佐は皇王族の五等親。 皇王族とその血縁が摂る食事は誰が持参した物であろうと毒味が行われるしきたりだ。 皇国の儀礼を知っている王太子がその説明で納得しないはずはない。 外交問題となる事を恐れ、毒味を遠慮する必要などない事はポクソン補佐も知っていたはずなのに。
痛恨の失策ではあるが、ポクソン補佐亡き今、理由を本人に聞く術はない。 状況証拠を集めて判断するしかない以上、今すぐ挽回する事は諦めなくては。
ただタケオ大隊長の瞳に宿る爆発寸前のマグマを見るまでもなく、事態は逼迫している。 ヴィジャヤン大隊長の涙には猛虎の怒りを鎮め、一触即発の緊張を緩める力があるが、今日は滝の涙が流れようとあの劫火は鎮まるまい。 皇国側の出席者は皆、大噴火を覚悟して固唾を飲んでいる。
皆の予想通り、タケオ大隊長は即座に退官なさった。 続いてヴィジャヤン大隊長も。 ならば私も退官し、随行するしかない。 それを決意した所でモンドー将軍に準大公警備の特務大隊長に任命された。 私の任務の第一はサダ・ヴィジャヤンを守る事。 今までも。 これからも。 だが第二はこの毒殺事件の解明だ。 但し、私が知りたいのは誰が毒を入れたかではない。 それは十中八九、大僧正の意を汲んだ者だろう。
分からないのは、ポクソン補佐は葡萄酒が毒入りである可能性を知っていたのか否か。 知らなかったのなら、なぜジンヤ副将軍は伝えなかったのか。
知りながら飲み干したのなら、その理由は?
もしや最初からポクソン補佐が標的? だとしたら、なぜ彼が標的にされた?
或いはタケオ大隊長が標的で、ポクソン補佐は側杖を食っただけ?
それともこれは皇国とクポトラデルの間に紛争が起こって欲しい第三国の誰かの陰謀?
だとしたら真相は大海に落とされた一つの砂粒も同然。
果たして辿り着けるのか。 辿り着けたとして、それが真相であると証明出来るのか。
生まれて初めて己の能力に対する懐疑が湧き上がるのを感じた。