施主 4
家に帰った夜、出迎えるヨネをそっと抱きしめた。 新婚の頃、下々には帰った家族に抱き付く習慣があるとリネから聞いたらしい。 でも自分から俺に飛び付くほど大胆にはなれなかったようで、もじもじしている。 それで俺の方から抱きしめるようになった。
リネはリネで、貴族には家族に抱き付く習慣はないとヨネから聞き、帰って来るサダに抱き付くのを一度は止めたらしい。 ところがそれをサダがとても残念がったとかで。 今ではゼロと1を足して2で割ったみたいな上品なやつをしているのだとか。
そういう話ならヨネとするが、今まで俺から仕事の話をした事はなく、留守が何日続こうとその理由を彼女から聞いてきた事もない。 だから今回もどこに行っていたのか、何があったのか、これから何があるのか、俺は何も話さなかった。
それは今回に限った事ではない。 だがポクソン補佐は俺の自宅に何度も来ている。 夫人同伴で夕食に招待した事もあり、ポクソン夫人とヨネの間にも行き来があった。
軍葬が近日中に行われる事と俺が施主を務める事くらいは話してもいいのかもしれない。 しかしそれを言えば彼女は俺の心配をするだろう。 俺にとってポクソン補佐がただの補佐ではない事を理解しているから。 心配したところで何が変わる訳でもないと知っていても。
ヨネはどちらかと言えば、世間知らずと言える。 少なくとも世間話や軍での出来事に詳しくはないし、上官の妻に取り入ろうとするような世知に長けた妻でもない。 ただ俺が誰をどう思っているとか、何を嫌っているとかの好悪の感情を感じ取れるようで。 俺が気疲れしている時。 血が激っている時。 檻に閉じ込められた獣のように居間を歩き回る俺に構わず刺繍をしたり、昼寝するリヨの側でまどろんだりする。 その長閑さが俺を癒していると知っているかのように。
寒さの厳しい慣れない土地で、俺にとっては大きい家でも彼女にとっては粗末な家に住み、子供の世話。 奉公人への指図。 軍関係だけでなく親戚の貴族や近所との付き合い。 全てを大隊長の高が知れた給金で切り盛りしているのだ。 零したい愚痴だっていくらでもあるだろうに、俺が聞きたくない事を長々話して煩わせた事は一度もない。
もっとも聞きたくない話を聞かずに済むかと言うと、そうは問屋が、正確に言えば執事のボーザーが、卸さない。 聞くのを逃げればそれに対する説教が加えられ、話が更に長くなるからいつも俺の方から聞いている。
「留守の間、何か変わりはなかったか」
「リヨ様の御成長が目覚ましい事以外、家内に申し上げるほどの変化はございません。 ただ今年は初穂の儀が行われまして」
「初穂の儀?」
「奥様の御実家では毎年行われる行事の一つと伺っております。 私にとりましては初めての参加でしたが、民が舞い踊る賑やかな集いで。 リネ様が民謡を熱唱なさり、観衆からやんやの喝采を浴びておられました。
また、見事な山車が繰り出され、サリ様が民の歓呼にお応えになりまして。 その際、一生懸命手を振るリヨ様にお気付きになり、リヨ、とお声を掛けて下さいました。 最後にお会いしたのは八月末、奥様がリネ様へお祝いに伺った時です。 リヨ様のお顔を覚えていらっしゃらないのではと思っておりましたが」
「留守中、サダの家へ遊びに連れて行ったりはしなかったのか?」
「旦那様が御出発なさったその日に準大公御一家は神域へと移られました。 当家にもウィルマー執事から神域への通行許可証を頂戴致しましたが、神域内別邸の女主人はサリ様との事。 どなたを御招待なさりたいか御自分で判断出来るお年ではないため、こちらからお訪ねしては後々問題になる事を奥様が御心配なさいまして」
「リネがこっちに遊びに来るのはいいんだろ? サナだけ連れて」
「神域にお引越しなさった翌日、賜剣の儀が行われた事はお聞き及びでしょうか?」
「翌日? 賜剣の儀が行われた事は将軍から聞いたが。 そんなにすぐ?」
「はい。 サナ様にも準皇王族としての庇護がある事を世間に知らしめるため、急いだのでしょう」
「突然理由もなく伯爵家次代を準皇王族に格上げ?」
「青竜の騎士は天から遣わされた救国の戦士。 サナ様はその実子でいらっしゃる。 天より下されし幼子とお呼びする事は当然かと存じます。 突然でも理由がない訳でもございません」
「ふうん。 実子二人が雲の上か。 母であり、臣下でもあり、じゃリネも苦労するな」
「初穂の儀にはヴィジャヤン準公爵御夫妻、ダンホフ公爵夫人、奥様の伯母様であるボルダック侯爵夫人も御出席なさいまして。 そこで聞いた話によると、新年に皇王妃陛下からリネ様へ準皇王族待遇が贈られるとの事」
「リネにまで? そりゃ大盤振る舞いだ。 なぜ臣下の妻子にそこまで。 なら準大公家ではサダが一番格下?」
「いいえ。 青竜の騎士は準皇王族ではなく、真正の皇王族です。 皇王陛下と同等と申し上げてもよいくらいの。 伝説の青竜の騎士は陛下から皇王位を譲られたにも拘らず、御辞退なさったのだとか。 そこで陛下は青竜の騎士を皇王族筆頭と宣下なさいました」
「いくら青竜の騎士の再来と言ったって、サダ自身が外敵を蹴散らした訳でもあるまいし」
「竜鈴鳴動の際、陛下が飛竜で皇王城入りした準大公に、共に歩もう、とおっしゃったとか」
「ああ、そうおっしゃった」
「陛下と共に歩む事が許されているのは皇王族に限られ、臣下には許されておりません。 臣下とは従う者なので。 これは私の個人的な憶測ですが、青竜の騎士の称号でさえ真の理由を隠蔽するための上包ではないかと」
「真の理由?」
「新年の神酒の儀において陛下は準大公を、皇国の宝玉、とお呼びになった、と旦那様はおっしゃいました」
「寵臣という意味なんだろ」
「違います。 尚書庁の古文書の中に、天は皇王に国の隆盛を齎す青き宝玉を与え、それは代々の皇王に継承された、という記述がございまして。 皇国の宝玉とは文字通り国の宝。 皇王位の象徴にして国の隆盛の源と信じられているものです。
過去には寵臣を、我が宝玉、と呼んだ陛下もいらしたようですが、初代の青竜の騎士でさえ皇国の宝玉と呼ばれた事はありません。 そもそも代々継承されたのなら人ではないでしょう。 皇国の宝玉と呼ばれた御方は準大公が初めてでいらっしゃいます。
新年の時点では準大公が青竜の騎士である事は単なる噂。 竜鈴が鳴らせるとは御本人でさえ御存知なかった事。 準大公こそ皇国の宝玉と陛下が確信なさるような出来事が、新年の時既にあった、と考えるべきではないでしょうか」
青き宝玉と聞いて、去年の上京の途中サダが見たと言う青い人と、サダの左手の中で溶けるように消えた青い宝石の事を思い出した。 そしてサダと陛下が握手した時に感じた禍々しい空気の流れ。 それが嘘のように掻き消えた後、陛下に精気が戻ったような感じがした事も。
あの時は深く考えなかった。 俺に関係ある話じゃないと思っていたから。
「つまりサダがその、皇国の宝玉? だから特別待遇され、あいつの希望はこの先何でも叶えられる、と?」
「この先何でも、かどうかは分かりませんが。 準大公と旦那様が相反する御希望を出された場合、あちらの御希望は叶えられても旦那様の御希望は叶えられないとなる事が予想されます」
副将軍になりたくないという希望とか? とは口には出さなかった。 それにサダと俺の希望が一致していれば万々歳な訳だ。 今までサダが望んだあれこれを考えると、そうならない事の方が多いと思うが。 毒に当てられて死なない限り料理次第で美味い魚、と言えない事もない。
「ボーザー。 サダが皇国の宝玉と聞いて信じる者がどれだけいると思う? サダが起こした様々な奇跡をこの目で見ている俺でさえ信じ難い。 お前なら信じるか?」
「僭越を憚らず申し上げるなら、これは数の問題ではないと存じます。 陛下が信じていらっしゃるのなら準大公は青竜の騎士にして皇国の宝玉。 たとえそう信じるのは陛下お一人だとしても。 準大公に傷をつけた者は極刑を免れないでしょう。 例として適切ではないかもしれませんが、陛下御自身でさえ準大公に対しては細心の注意を払っていらっしゃいます」
「どういう意味だ?」
「近衛に移籍しろ、北軍将軍となれ、娘を後宮に入れろ、こうしろああしろ。 命じようと思えばいくらでも出来るお立場にありながら、陛下が準大公に無理強いなさった事はございません。 移籍は嫌と準大公がおっしゃれば、そうか。 昇進も嫌、娘を手放すのも嫌。 狛犬や猫又を飼おうと何のお咎めもなかった事がその証では?」
「サリの事はともかく、移籍や昇進はさせたところで周囲が持て余すだけとお考えになったからじゃないのか」
「北軍はヴィジャヤン大隊長を持て余しておりますか? 内心持て余していらしたとしてもモンドー将軍でしたら以前と比べ北軍の士気が格段に違う事を御存知ないはずはありません。 給金は一ルークも上げていないのに入隊志願者が押し寄せ、無給どころか寄付を申し出る者さえいる。
北の活気全てがあの御方のおかげとは申しませんが、大規模な開発事業が次々企画され、開始されるようになったのは六頭殺しの若が北軍に入隊してからです。 区画整備、道路工事、水源や燃料の確保、下水処理場。 どれも莫大な投資を必要とし、見返りを手にするまで何年もかかる事業であるにも拘らず。
ヴィジャヤン大隊長移籍の交換条件として誰に何を約束されようと、モンドー将軍は首を縦に振らないでしょう。 旦那様が北軍将軍になられたら同じ事をなさるのではございませんか」
俺が将軍になると確信しているかのように、「仮に」を付けない。 思わず苦笑が漏れ、ボーザーの確信に少し水を差してやりたくなった。
「サーシキ将軍ならどうだろうな」
「サーシキ将軍? 第二大隊長の事ですか? 副将軍にさえなれない方が将軍になった時どうするかを忖度する必要がございますか? 私がどう考えるか以上に無関係です」
「なぜサーシキが副将軍になれないと分かる」
「旦那様が副将軍になられるからです」
「なぜ俺がなると分かる」
「コシェバーから報告がありました」
「俺と一緒に帰宅して、この話の直前までいたのに? お前に報告している時間なんかなかっただろ」
「報告したのは兄のブンで、旦那様が御帰宅なさる前です。 ブンにはゼンが見聞した事が分かるので」
「分かる、て。 どの程度」
「旦那様が旅先でお土産を購入なさろうとした準大公に怒鳴った。 夕食のお席で左手にミトンをはめてはと嫌味をおっしゃった。 旦那様に殴られたタンコブが痛み、準大公が飛行帽を被れない日があった。 その程度の見聞ですが」
「それは、いや、そんな事はどうでもいい。 ならクポトラデル国王との会見や将軍との会議内容も筒抜けなんだな。 便利な奴らだ」
「因みにゼンにはブンが見聞した事は分かりません。 情報はゼンからブンへの一方通行である事、お心の隅にお留め置き下さい」
ボーザーめ。 本当に食えない奴だ。 二人の便利な異能を知ったから雇ったんだろうに、今の今まで主の俺にも黙っていたとは。 どこにでもいそうな奴らをなぜ二人も雇ったんだか不思議に思っていたが。
この件に限らず、ボーザーが有能である事は認めるしかない。 マッギニスのような戦略家ではなく、ウィルマーのような押し出しはないが、実務に長けている。 何が必要かを見極めるのが早く、必要となってから必要な物を探すのではなく、必要を予測し、その時が来たら必要な物が手元にあるよう手配しているのだ。 ボーザーならコシェバー兄弟がいなかったとしてもなんらかの伝手を使い、必要な情報を手に入れていただろう。
そういう用意周到さはサーシキ大隊長にもある。 もっともどの大隊長も実務がこなせるし、またそうでなくては使いものにならない。 俺やサダのように補佐に頼り、青息吐息で仕事を回している方が例外なんだ。
サダ以外の北軍大隊長、九人の顔を思い浮かべる。 俺に好意的なのはトーマ大隊長だけだ。 敵意を持っているのはサーシキ大隊長だけで他は無関心を装っているが、次の副将軍が誰になるかについて無関心な奴はいない。 ほとんどはサーシキ大隊長に取り入ろうとしたか、しようとしていたはず。 その見込みが次に招集される会議で崩される。
次の一手は? 俺に鞍替えするか。 そんな努力は無駄と見切りをつけ、俺の副将軍昇進を阻止しようとするか。 八人が一丸となって俺が副将軍になるなら退官願を出す、と将軍を脅す事もあり得る。 それで俺の副将軍昇進が取り消されるなら俺にしてみれば有り難いくらいだが。 話がそこで終わる訳もない。
ふと興味が湧いてボーザーに聞いてみた。
「上は俺を副将軍にしたくても下が造反して昇進取り消しになるとは思わんのか」
「思いません」
「一体何を根拠に?」
「旦那様の副将軍昇進が取り消されれば失望のあまり涙を零される御方がいらっしゃる。 あの涙には人の胸を締め付ける力があります。 あの御方を慕って入隊した兵の胸だけでなく、北軍五万の兵の胸を締め付ける力が。
しかもヴィジャヤン大隊長は隠し事が出来ない御方。 どの大隊長が造反した故の昇進取り消しか、早晩全軍に知れ渡り、その大隊長が人望を失う事は確実。 人望を失った大隊長など指揮すべき兵がいないも同然かと。
大隊長八人が欠ければ北軍を指揮するのは難しいとは言え、マッギニス大隊長一人で当座の穴埋めをする事が可能です。 又、大隊長への昇進を打診されて断る大隊長補佐はいません。 八人とも賢い。 たとえ八人同時に退官願を提出しようと慰留はない事を承知しているでしょう」
そこで思い出した。 旅の休憩中、サダがタマラに零していた愚痴を。
「早く師範が副将軍になってくれないかなあ。 そしたら俺が副将軍になれと言われずに済むのに」
あの時サダの性根を叩き直しておけば、と思わないでもないが。 あいつの性根を直せると思う方が間違っているのかもしれない。