猿神 6
ともかく初穂の儀はなんとか無事に終わった。 実は無事ではなかったような気がしないでもないけど、誰からも叱られなかったから。
あれで良かったのか、良くないとしたらどこが悪かったのか、神官の皆さんにこちらから訊ねる気にはなれない。 藪蛇、て事もあるしね。
それに一番気になる祭祀長様から私の歌へのお褒めのお言葉を頂戴した。 サリの爺も猿神を御覧になったらしく、こんなにすぐ現れた事を喜んで下さって。 参列してくれた沢山の人達も屋台や出店が許されたからか、食べ物、飲み物を楽しみながら歌い踊り、厳粛な儀式と言うより秋祭りみたい。
旦那様の御両親も参列してサリとサナの成長をとても喜んで下さった。 お二人から見れば私は不出来な行き届かない嫁だと思う。 でも今まで何かを直せと言われた事はない。 いちゃもんを付けようと思えばいくらでも付けられるお立場なのに。
もっとも直せと言われても私に直せるかどうか。 言っても無駄な事は言わない性格なのかも? それでなくとも貴族の皆さんは不平不満を直接本人に言ったりしないと聞いているし。 何も注意されないのは自分がちゃんとしている証拠とは言い切れない。 でも賢い人の気持ちを読むなんて私には無理。 お疲れ様でございましたと優しく労って下さったお言葉をそのままありがたく受け取った。
今回の訪問ではまず私の実家へお立ち寄り下さったらしく、両親やリノ兄さん夫婦、甥のリン、ミルラック村の様子まで色々教えてくれた。 ピピ姉さん、来春におめでたなんだって。 ただ父さんの調子があんまりよくないみたいで。
「医者の見立てではリツ殿がこちらを訪問するのは難しいとの事でした」
「あの、お義父様がわざわざ村にお医者さんを呼んで下さったんですか?」
「いえ、診断をしたのは村在住の医師です。 病院の完成は来年夏になるようですが。 医師六名、薬師と看護師、合わせて二十数名が既に村で暮らしております」
「あの小さな村にそんなに沢山のお医者様が?」
「産科、内科、外科、小児科、眼科、耳鼻科と、それぞれ専門が違うからでしょう」
お義母様が付け加える。
「小児科があるのは心強いですね。 それに皇王族用の別荘も間もなく完成するのだとか。 如何でしょう? お子様をお連れになり、お泊まりになっては。 元々サリ様の御利用を期待して建てられたようですし」
「まあ。 別荘?」
「私達夫婦は御実家近くの宿に泊まったのですが、そちらも中々快適でした。 リネ様はお輿入れ以来一度も里帰りなさっていらっしゃいません。 来年辺り御実家でゆっくり過ごされてもよろしいのではございませんか? 護衛用宿舎が宿に隣接しており、百人程度でしたら予約なしでいつでもお泊まりになれます」
広さだけはある村だから建てようと思えば何でも建てられる。 とは言え、別荘、病院、宿、百人が泊まれる宿舎まで建てられたとは知らなかった。 しかもサリのために別荘、て。 一度も使われないかもしれないのに? 直轄領になったと聞いているからお金を出したのは皇王陛下だと思うけど、なぜそこまでして下さったのか。
ともかくせっかく建てたのなら使わなきゃ勿体ないよね。 だけど使うって、つまり旅に出る、て事で。 それはそれですごくお金がかかる。 なにしろ今じゃ一人でさっと出掛ける訳にはいかない。 警備兵や奉公人を連れて行かないと。 しかも一人や二人じゃないから旅費はどんなに少なく見積もっても二十万以上かかるでしょ。
旦那様は行って来いよ、とおっしゃるかも。 でもきっと旦那様のお許しだけじゃ足りない。 サリを置いて行く、連れて行く、どちらにしても皇王庁のお許しを戴かなきゃ。 とは言っても旅行許可の申請なんてやった事ないし。 何をどうすればいいんだか。 たぶん簡単じゃないよね? それに申請は当主、つまり旦那様がしなきゃいけなかったりして。 外国を行ったり来たりしてお忙しい旦那様にそんな面倒を頼めない。 たとえ旦那様にやる気があったとしても時間的に無理のような気がする。 ただせっかく御厚意でお勧め下さった御両親に、行けません、とばっさり言うのもなんだか。
「あの、夫が帰ったら聞いてみます」
旦那様に聞く気なんかまるでないけど、そう答えた。 するとお二人はちらっと視線を交わし、お義母様がにっこり微笑む。 私の気持ちを見透かしたかのように。
「リネ様。 夫に伺いを立てるのは妻として当然とお考えかもしれませんが。 世間では伺いを立てずに行動する妻の方が多いのですよ。 飛び出したら簡単に戻らぬ夫を持つ妻はリネ様だけではございません。 夫の帰りを待っていたら遅きに失する場合も無きにしもあらず。 そもそも上級貴族になればなるほど夫婦一緒に行動しない方が常なのです。 伺いを立てなかったからと言って夫を蔑ろにした訳ではなく、家庭を円滑に采配しようと思えばそうなると言うだけの話。 円満な家庭を望む夫の気持ちに沿った行動と申せます。
リネ様には準大公夫人として皇太子殿下舞踏会や六頭杯など外せない御予定がおありです。 警備や旅程の詳細も考慮せねばなりません。 とは申しましても準大公家は有能な奉公人揃い。 帰りたいとお気持ちをお側に伝えるだけで叶う事は多いはず。
けれど御遠慮深いリネ様の事。 その伝えるだけ、が難しいのでしょうが。 夫の不在はこれからもある事。 何事も慣れ。 まずは小さい事からお始めになっては如何?」
「小さいでしょうか? その、里帰り、て」
「賜剣の儀や初穂の儀のような公式行事に比べたら小さいと申せます。 私事のお出掛けなので」
でもお金が、と言いそうになったけど、ぐっと堪えた。 それでしたら旅費はこちらで負担します、とか言われそうで。
それにお金がない訳じゃない。 旦那様からもらったへそくりだって手付かずで残っている。 なにしろ私が払いますと言ったって誰も払わせてくれないんだよね。 旦那様だけじゃなく、どこのお店でも。 だからかえって心苦しくて。 宿に泊まるのはいいけど、宿代を受け取ってもらえなかったら?
苦し紛れに許可の事を理由にした。
「夫の不在中にサリ様のお側を離れる訳には。 かと言って皇王庁からのお許しがなければ臣下の私がサリ様をお連れする訳にはまいりませんよね? それって前例があるのないのと難しい事になったりしませんか?」
するとお義父様が、こほん、と軽く咳払いなさった。
「その件ですが。 サナ様も晴れて準皇王族となられました。 それは大変喜ばしい事ながら、青竜の騎士の妻であるリネ様が未だに臣下であるのは些か片手落ちと申せましょう。 その点を皇王庁に問い合わせたところ、リネ様には皇王妃陛下から準皇王族待遇が贈られるとの事」
「私に? なぜでしょう?」
「理由は、危険な手術に果敢に挑戦し、逆子の出産死亡率を下げる事へ貢献した事を賞す、となっております。 正式発表は新年になるようですが。 準皇王族でしたら直轄領へのお出入りは自由。 サリ様、サナ様をお連れになる場合でも事前の許可は必要ありません」
「で、でも、手術は自分の子を救うためにした事で。 御褒美を頂戴するのは、その、厚かましいのでは?」
「自分の子を救うためであろうと開腹手術に挑戦した女性はおりませんでした。 以前は死ぬに決まっている手術。 と言うより、死んだ女性に対して行われる手術でしたから無理もないかと。
ですがリネ様は術後も御健勝。 お声の張りに些かの衰えも見えず。 となれば開腹手術の有効性を疑う人はいなくなり、それなら、と躊躇せず手術する女性も増える事でしょう。 これは多くの母子の命を救う善行。 当然の褒賞と申せます。 いずれに致しましてもこれは皇王妃陛下からのお気持ち。 お断りする訳にはいかないかと」
「では皇王妃陛下に何かお礼を差し上げないといけませんよね。 どのような物がよろしいのでしょうか?」
「これは皇王妃陛下からのお礼。 お礼に返礼の必要はありません。 ですが里帰りからお帰りになりましたら、皇王妃陛下へお手紙で両親に孫の顔を見せてあげられた事を伝えられては? 皇王妃陛下が喜ばれると存じます」
はあ。 そう、なの? て事は、里帰りも行くしかない?
そりゃ父さんが亡くなる前にもう一度顔を見たい。 親には二度と会えない事を覚悟してお嫁に行ったんだけど、サナを抱かせてあげたいし。
ただ旦那様に何も言わないで里帰りするのはまずいよね。 お帰りになった時に私がいなかったら旦那様が焦るでしょ。 儀式にはモンドー将軍も出席なさるはずだから旦那様がいつお帰りになるのか聞いてみよう。
と思っていたら、将軍様は欠席なさった。 なんでもお加減がよろしくないとかで。 御名代の副将軍様は終始無表情。 何も言いたくない、言わせないでくれ、て感じ。 取り付く島がない。 いつもお会いした時は無表情だったけど、今日はもっと表情が硬いような。 機嫌が悪い時のリイ兄さんそっくり。
リイ兄さんが猿神の事を知ったら何て言うだろ。 なんでそんな訳の分からんものを家に連れ込んだ、とか言うんじゃない?
私が連れ込んだ訳じゃないもん、向こうから勝手に来たの、と言い返したところで、なら追い出せ、と言いそう。 祭祀長様のお言葉があるから本気で追い出しには来ないと思うけど。
その点旦那様なら猿神という突拍子もないものが現れたって、へえ、そう、で終わるような気がする。 あ、餌代の御心配はなさるかも?
今の内に何が好物か知っておきたくて、サナの部屋に果物、お菓子、木の実とか色々置いてみた。 どうやら干し芋が気に入ったみたい。 干し芋をたくさん置いたら食べ物に釣られたのか、毎日現れるようになった。 と言っても一枚食べたらさっと消えるか、数えてみたら一枚なくなっているからもう来たと分かる。 そんな感じ。
干し芋を一枚食べるだけと旦那様が知ったらほっとなさって、それからは猿神がいる事なんて思い出しもしないんじゃないかな。 なにしろサナと一緒にいる時間が一番長い私とカナでさえ猿神の姿を見る事はあまりない。 毎日替えているサナの服やおくるみに必ず猿神の毛が付いているから来ている事は確かだけど、長居しないんだよね。
だから、て訳でもないけど、名前は私が決める事にした。 エイオ。
私が、お名前は、と聞いたら、エイオ、と答えたし、エイオと呼ぶと振り向くから。 エイオ様、エイオさん、エイオちゃん、エイオ君、エイオ殿、エイオ閣下、どれにも振り向かなかった。
因みにエイオ閣下はフロロバがふざけてそう呼んだの。 そしたらその途端、エイオに強烈な蹴りを入れられていた。 小猿にしか見えなくても結構な脚力だったようで。 後でこっそりカナが教えてくれた。
「調理場でフロロバが立ち食いしておりまして。 行儀が悪いと叱ったら、エイオに蹴られたお尻が痛くて座れないと申すので、綿入りの椅子クッションをあげました」
ケルパほど強いのかどうかは分からないけど、怒らせたらまずい、て事は確か。 頼もしいと言えば頼もしい。
エイオは時々エイオと鳴く。 自分で自分の名前を呼ぶ、て変じゃない? エイオに何か意味があって私達に伝えようとしているのかな? それとも単なる鳴き声? 猿ってエイオと鳴くの? それとも猿神特有の鳴き声?
猿神は勿論、今まで生きた猿を見た事ない私には全然分からない。 もっと干し芋が欲しくて鳴いているのかなと思ったけど、たくさん出してあげても一日一枚しか手を付けないし。
ある日エイオは添い寝までしてあげていた。 えーいおー、ええいおー、えいえいおー、という子守唄付き。 ほんと、本職の子守り顔負け。 当たり前のように我が家の一員として溶け込んだ。
初穂の儀が終わって何日も経たないある日、フロロバが待望の知らせをもたらしてくれた。
「奥様、準大公がお戻りです!」
「とうとう! じゃ、家に帰れるのね。 荷物を纏めなきゃ」
「その事なんですが。 準大公は第一駐屯地にお戻りになってすぐ、将軍執務室へ出頭なさいまして。 緊急会議が招集されたようです。 本日お迎えにいらっしゃるかどうかは分かりません」
「そう。 まあ、今日ではなくても明日にはいらして下さるわよね」
フロロバがちょっと困った顔で視線を泳がせる。 なんでだろ、と思っていたら、案の定? 翌日もいらっしゃらなかった。
「ねえ、フロロバ。 旦那様はお忙しいとしても、旦那様と一緒に行った人達の誰かから詳しい話を聞く事は出来ないのかしら?」
「残念ながら全員足止めされています。 休憩時間はあるようですが。 第一庁舎の関係者以外立ち入り禁止の一角に寝泊まりしているので、クポトラデルで何があったのかは勿論、事件の公式発表がどうなるのかも分かりません。 噂では将軍が祭祀長様に御面会にいらしたと聞いております。 祭祀長様なら何か御存知かも」
だとしても、旦那様がいつ迎えに来て下さるかまで御存知かどうか。 御存知ないからと言って祭祀長様を伝書鳩代わりに使う訳にもいかない。 そもそも私に知らせたい事があるなら旦那様から伝えて下さるはずでしょ。 すぐそこにいらっしゃるんだから。
旦那様がお帰りになったという知らせが届いてから四日目の夜。 ようやくお迎えに来て下さった。
「ごめん、ごめん。 色々あってさ。 もー、師範たら四の五のごねるんだから。 さっさと引き受けてくれれば四日前に迎えに来れたのに」
「引き受ける、て。 何をでしょう?」
「次の副将軍」
「えっ!? 退官したのに?」
「あ、退官したの、聞いているんだ?」
「そ、それは、はい。 いけませんでした?」
「いや、大丈夫。 何も言わずに飛び出しちゃったもんな。 心配させてごめん。 退官は、チャラ。 してない事になった。 じゃ、俺達十人でクポトラデルに行った事も聞いてる?」
「はい」
「なら話は早いか。 これ、お土産。 サリに。 クポトラデルではこれを着て踊るんだって」
体操着? と言うより、フリルが付いている下着みたいな衣装を袋から取り出した。 キラキラのビーズがいくつも刺繍されているから安物じゃないし、寝巻でもない事は分かるんだけど。 身ごろがド派手な赤。 フリルが黒。 そしてスカートが付いていない。 ぴんと張り出したフリルだけ。 着たら手足は勿論、お尻も丸見え。 これをサリに着せろ、て?
絶句している私に旦那様は歪んだお菓子箱を差し出した。
「リネには生菓子。 好きだろ? あ、ちょっと潰れちゃったか。 ま、味に変わりはないよな」
最後に木彫りのお猿さんと、中身が抜かれてぺしゃんこになったぬいぐるみのお猿さん。 夢で見たやつと全く同じ。
「これはサナに」
「どうもありがとうございます。 お仕事でのお出掛けなのに、こんなに沢山、よく買えましたね」
「そ。 師範に怒鳴られたけどな。 まーったく、師範たら頭が固いんだから」
それになんと相槌をうったらいいのか分からなかったから猿神の事を報告した。
「ところで、旦那様。 お留守の間、サナに守り神が現れまして。 祭祀長様は猿神とおっしゃいました。 この木彫りと似たお猿さんなんですよ」
「へえ。 犬と猫の次は猿かー。 すごく食べる?」
「いえ、干し芋を一日一枚食べるだけです」
「ふうん。 そりゃいいね」
いいね、て。 守り神が現れた事? それとも餌代が安上がりな事? 両方?
「はああ。 疲れた、疲れた。 明日の朝稽古はさぼる。 起こさないで」
そうおっしゃってすぐお休みになったから、どちらの意味なのかは聞けなかった。 毒殺事件がどうなったのかも。
翌日旦那様が出仕なさった後でフロロバが教えてくれたところによると。
「下手人が自害し、クポトラデルが賠償金を支払うようです。 穏便な解決ですよね。 それは大隊長のお手柄らしいんですが。 それだと次期副将軍に指名されると知った途端、ごねにごね、タケオ大隊長に手柄を押し付けたんだとか」
「まあ」
「タケオ大隊長も四日間、必死に抵抗したけど、因果を含められたみたいで。 それにしても猛虎にごね勝ちするだなんて。 半端じゃありません。 さすがは青竜の騎士。 ま、後が怖いですけど。 会議後のタケオ大隊長、すごかったらしいですよ。 機嫌が悪くて。 百剣相手の稽古で三十八人ぶちのめしたと聞いています。 新記録ですね」
旦那様が無事に帰って来て下さった事はもちろん嬉しい。 ただ、その。 もうちょっとリイ兄さんを怒らせないやり方はなかったのかしら、と思わないでもないの。
ふと見ると、エイオが木彫りのお猿さんをサナの目の前で揺らしている。 サナは中々気難しくて、少しでも気に食わない事があると激しく泣く。 でもエイオが現れた途端、ぴたっと泣き止む。
「ねえ、エイオ。 あなたならリイ兄さんの機嫌も取れるんじゃない?」
すると珍しく私を睨んでエイオが答えた。
「エッエッ、エッイオッ!」
何を言われたのかは分からなかったけど、叱られたみたい。 びびって思わず謝った。
夕食後、その事を旦那様に話したら。
「へえ。 それきっと、下らん事まで頼むんじゃねえ、と言ったんだぜ。 エイオの気持ち、分かるな」
「お分かりになるんですか? まだ一度もエイオに会っていらっしゃらないのに」
「分かるさ。 そもそもサナの守り神ならサナを守る事だけが仕事だろ。 それ以外の事までやらされたらたまったもんじゃない。 干し芋一日一枚で師範の機嫌まで取らされたら俺なら逃げるね」
「さすがは旦那様。 猿神の気持ちまでお分かりになるだなんて」
「ま、な。 経験者は語る、て言うか。 俺を見ろよ。 最初は弓を射ってりゃよかっただけなのに、今じゃあれもしろ、これもしろ、だぜ。 嫌になっちゃう。 俺は干し芋どころじゃない給金をもらっているし、やれと言われりゃ何でもするけどさ」
でも副将軍職はリイ兄さんに押し付けたんですよね、とは言わないでおいた。