猿神 5
結局猿神がいついらしたのか、私は知らない。 お猿さんが赤ちゃんの周りをうろうろしていたのに気が付かなかったと世間に知られたら呆れられると思うけど。 初穂の儀は出席すればいい、て訳じゃなくなったから忙しくて。
どうやら私が夢を見てから割とすぐに現れたみたい。 最初に見たのはフロロバで、夢の一週間後にあった初穂の儀の予行演習が終わり、お弁当を食べていた時に教えてくれた。
「あの猿、本物の子守顔負けでしたね」
「え? 猿? どこにいたの?」
「どこに、て。 奥様は御覧にならかったのですか? サナ様の揺り籠を揺らしていたでしょ」
初穂の儀式では縦十メートル、横五メートルの山車が引き出される。 山車の下には車輪が左右に十個づつ付いていて、大綱二本で引っ張るらしい。 煌びやかに飾られた山車の上には美しい刺繍で覆われた天蓋付きの椅子が備え付けてあり、一番前がサリの席。 真ん中の一番高いお席が祭祀長様。 その後ろが私とサナの席になっている。
サナの席は揺り籠のような作りで、平らに寝かせられるだけでなく、半分を少し傾けると椅子にもなる。 脚が丸くなっていて揺らせるから山車が動いている時は揺り籠が揺れたりずり落ちたりしないよう、床に留め金で固定されていた。
「揺らしていた、て。 あなたが揺り籠の留め金を外してあげたの?」
「いいえ、俺は山車に上がっておりません。 中々賢い猿のようで。 たぶん留め金を見ただけで外し方が分かったのでしょう」
「でも私達が山車から下りる時、揺り籠の留め金はちゃんと留められていたわよ」
「揺らしている間にサナ様がお眠りになったから元通りにしたのでは」
「他に誰か見た人はいない?」
「警備兵は山車を背にしておりましたし、カナは山車から下りて警備隊長と話していました。 祭祀長付き神官は全員祭祀長、エナとソニはサリ様から片時も目を離さず、後ろを振り返ったりしておりません。 サナ様のお側にいらした奥様が御覧になっていらっしゃらないなら他に見た者はいないと思います」
「不機嫌っぽい顔をしたお猿だった?」
「不機嫌っぽい? さあ、どうでしょう。 猿はまずいだろ、と思って追い払おうと私が山車に近寄ったら、さっと姿を消しましたし。 半メートルもないくらいの小猿だから表情まではちょっと」
「ふうん。 もう現れたのね」
「とおっしゃいますと?」
「サナの守り神として猿神が現れる、て。 祭祀長様が」
「おお。 猿神。 それはとても心強いです。 奥様がお歌いになる間とか、カナとノノミーアも奥様に付いて行くからサナ様の近くにいるのは気心の知れない神官だけとなります。 一体全体これで大丈夫なのか、実は心配しておりました」
「フロロバったら、案外心配症? ケルパがいるし、山車の周りにたくさん警備兵がいるじゃない」
「たくさんいてもサナ様のすぐ側に猿がいると気付いた警備兵は一人もいなかったでしょう? それに猿神と聞けば安心は安心ですが、神獣がどれだけこちらの事情を考慮してくれるのかは分かりません。
ケルパにしてもサリ様を守ってくれるのは有り難いんですが、相手の身分とか一切お構いなしですから。 人出が多ければ多いほどケルパが揉め事を起こす恐れが高まります。 当日は平民の参列も許されていて人出は五千を越えると予想されており、ケルパがいるから危ないとさえ言える状況です。 猿神だってサナ様を守るためなら誰に何をしでかすか」
「うーん。 まあ、確かにケルパは容赦ないけど、ノノミーアが誰かに乱暴した事はないわ。 私の癒しになっている。 ほんと、それだけ。 揉め事はケルパにお任せ、て感じ。 猿神も似た感じなんじゃない?」
「ケルパが汚れ役を引き受けてくれているとは言えるでしょうが。 ケルパが近くにいない時に奥様に狼藉を働く者がいなかったからノノミーアの出番もなかっただけかもしれません。 ケルパが近くにおらず、奥様の身に危険が迫った時にもノノミーアが何もしないとは思えないです。 ケルパのような打たれる前に打って出る、というやり方ではないかもしれませんが」
「でもバートネイア小隊長とネシェイム小隊長もいるし」
「お二人が間に合えばいいですが。 ケルパがその気になったらけりがつくのはあっと言う間。 百剣全員が揃っていようと止められません。 おまけに頼りのお二人はサリ様専任。 今回はサリ様とサナ様、ずっと御一緒なので大丈夫とは思いますが。 いずれサナ様だけのお出掛けだってあるでしょう。 今の内にサナ様専任の乳母と護衛を選んでおかなくては間に合わないのでは?」
そう言われて、ふと思い出した。
「ポクソン夫人にサナの乳母をお願い出来ないかしら。 以前彼女が我が家を訪問してくれた時、ケルパがきちんと挨拶していたのよね」
「そうなんですか。 あの方でしたら乳母として適任かもしれません。 と言っても喪が明けるまでは無理だと思いますが」
「いずれにしても旦那様がお帰りになってから相談しないと。 事件がどう解決するかにもよるだろうし。 それより問題は警備兵だよね。 今のところケルパが懐いた警備兵は一人もいないんでしょ」
「挨拶はしなくても尻尾でぽんと叩いた百剣なら何人もいるんです。 今回の警備のお役目には一人も選ばれなかっただけで。 なにせ神官が、やれ退役軍人はだめだの、強面はどうの身分がこうの、と口出しするもので」
「そう言えば、イーガン駐屯地にはケルパに尻尾でぽんぽんされた小隊長が何人もいる、て言ってなかった?」
「それこそ準大公がお帰りにならないと。 準大公が本当に退官なさるのなら北軍から準大公家に引き抜くという道がない訳でもありませんが、事件が無事解決したら軍へ戻れと陛下から命じられる可能性もあります。
取りあえず今回の儀式にはイーガンからも何人か式を見に来ると聞いているので、サナ様近くの席を確保してもらえるようウィルマー執事にお願いしました。 しかし悠長に構えている場合ではないです。 山車の上に神官が何人いようと衝立代わりにもなりません。 どこからも丸見えの山車なんて狙ってくれと言わんばかり。
それに参列客にとってこれは滅多にない祭祀長様と瑞兆のお姿を真近に拝見する機会。 出来るだけ近寄って見たいでしょう。 数で押し寄せられたら潰されます。 ケルパだって五千人を蹴散らすのは難しいんじゃないですか」
フロロバにそう言われ、サリとサナがもみくちゃにされる様子がありありと目に浮かんだ。 儀式の手順を覚えるのと歌の練習で頭がいっぱいで、他の事を何も考えていなかったからすごく焦った。
「そ、それは。 じゃ、どうしたらいいと思う?」
「儀式には御親戚の皆さんがたくさん寄進なさったのだとか。 おかげで山車の両脇の特等席にお座りです。 どなたも御自分の警備兵を連れていらっしゃる。 そういう身元のしっかりした剣士以外は山車に近づけないよう、ウィルマー執事から話を通して戴いては」
「そうね。 それはあなたからトビに話しておいてくれる?」
「畏まりました」
「あ、お猿さんの名前、何がいいかしら?」
「猿神ならもう名前があるかもしれませんよ。 でなければ気に入らない名前で呼ばれても返事をしないとか」
「ふふ。 そうかも。 なら次に会った時、まず名前を聞いてみるわ」
私はどうせすぐ会える、と思っていた。 ところが本人と言うか、本猿に中々会えない。 いた事はいたんだと思う。 別室に寝ていたサナが泣き出した時、私かカナが駆けつける前に泣きやんだ事が何度かあったし。 私がずっとサナの側にいたら会えたんだろうけど、そういう訳にはいかなかったから。
なにしろ神事なんて知らない事だらけ。 言われた事だけやっていればいいとは言っても、教える神官の方にしても平民出身の準大公夫人に教えた経験なんてない。 前例もないらしく、お互い手探り状態。
これは出来ますか。 無理なようですね。 ならこうしましょう。 これも無理ですか。 それでは、という感じで。
サナの御機嫌が良ければカナがサナを抱いて練習に連れて行ける時もあったけど、歌の練習中に泣かれるのは困る。 その間はフロロバに側にいてもらった。 どうやら誰かが側にいるとお猿さんは現れないようで。 次の予行演習でも本番前の最後の時にも現れなかったらしい。
守護の剣を頂戴したし、サナの側にはいつも誰かいる。 それで守り神の出番がないとか? それならそれで構わない。 サナが守られている事に変わりはないんだから。
今は猿神の心配をしている場合じゃない。 歌には合唱が入る事になった。 私の独唱の部分にも合いの手が入る。 その練習だけでも大変なのに、サリ様が集まった皆さんに向かってお手を振る時の介添。 式の最中に泣いたりむずかったりした時のあやし方から始まって、おトイレ、おやつ、御休憩。 予期しない事が起こった時にはこうして下さい、ああして下さい。
打ち合わせに次ぐ打ち合わせ。 沢山覚える事があり過ぎて、もう何が何だか。 混乱し、練習の最中にサナを抱いたまま山車の上で動けなくなった。 動かなきゃいけないのにどう動いたらいいのか分からなくて涙が出る。 零れないよう必死にがんばったんだけど止まらない。 しかも両手が塞がっているから周囲の皆さんに丸見え。
「奥様。 どうやら練習前に差した目薬が合わなかったようですね。 お目の赤みは取れたようですが。 今夜はゆっくりお休み下さいませ」
そうカナが取り繕ってくれ、しばらく座って休憩したらちゃんと動けるようになった。 ただ周囲の皆さんを相当びびらせてしまったみたい。 それから練習がとても短くなった。 要するに予期しない事は何も起こらない、予定ではこうなる、それだけを練習する、て事で。
万が一に備えてあれこれ準備して下さった方々には本当に申し訳ないけど。 お忙しい祭祀長様が御臨席なさっているのに、私が延々とやり直しをし続ける訳にもいかないし。 神官の皆さんにお詫びしようとしたら祭祀長様が私の言葉を優しく遮る。
「私の緊張が準大公夫人を始め、皆に伝わってしまったようですね。 これは天へ感謝を捧げる儀式。 感謝の気持ちを違えなければ手順を間違えたとしても天はお受けになる。 そう自分に言い聞かせ、心を落ち着かせています。 皆も焦らぬように」
まるで御自分のせいであるかのようにおっしゃる。 そのお心遣いに深く感謝した。
おかげで予行演習はなんとか無事に終わらせたものの、大丈夫か大丈夫じゃないかの瀬戸際。 まあ、忙し過ぎて旦那様の事や事件の事、ポクソン夫人の事を考えている時間もなかったのはよかったのかも。 私がどうこう出来る事でもないんだし。
おまけに心配しなくちゃいけない事なら他にいくらでもある。 トビによると、もし旦那様がこのまま新年までお帰りにならなかったら旦那様の名代として私が陛下へ御挨拶するんだって。
旦那様が口上を練習する時隣で聞いていたからセリフは覚えている。 とは言え、私がするとしたら名代としてだし女性だから口上も儀礼作法も少し違うらしい。 その辺りはブラダンコリエ先生も詳しく御存知ないらしく、とても焦っていらした。
ただ旦那様のお帰りが間に合う可能性も全くない訳じゃない。 下手に練習して本番の時どっちのセリフを言うか間違えたら? 練習が無駄になるどころの騒ぎじゃなくなる。 と言う訳で、まずは初穂の儀に集中する事になった。
そして初穂の儀の日。 急いで朝湯に浸かり、身を清めて式服に着替える。 式服は一枚仕立てで、どこにも縫い目らしい縫い目がない。 つるつるで滑らかな肌触り。 どう見ても絹なのに。
「ねえ、カナ。 これ、どうして縫い目がないのかしら?」
「編み上げられた服だからです」
「編み上げられた、て。 毛糸ならともかく、絹糸で? それってすごい手間がかかるんじゃ」
「かかるでしょう。 この大きさですと裁断で仕立てた服に比べて何倍、何十倍もの手間だと思います。 私も聞いた事はありましたが見るのは初めてで。 しかもこの美しい仕上がり。 余程熟練した編み手なのでしょうね。 正に天衣無縫」
これほど熟練するまで何年かかったのか。 そしてその人がこの一着を編み上げるためにどれだけの時間を費やしたのか、考えただけで気が遠くなりそう。 恐る恐る手を通す。
カナがもう一着を手に取り、重ね着させようとするのを慌てて止めた。
「一着で充分よ。 サナに汚されたら勿体ないもの」
「そういう訳には参りません。 薄着で外にお立ちになり、お風邪を召したらどうなさいます。 かと言って、これ以外の服を身に付けては服に不満があった故、お召しにならなかったと思われるでしょう。 この式服を用意して下さった方々に対して失礼ですし、五着用意されているのは今の季節に合わせた重ね着用だと思います」
確かに少しづつ大きく厚手になっている。 重ね着したらとても暖かい。 式服を編んだ人、編んだ人を支えた沢山の人達の手で包まれているかのように。
すっと背筋が伸び、気合いが入った。
行列先頭の露払いが鈴を鳴らし、祭祀長様の御出発を告げる。 大綱を引いている人達が呼応し、山車がゆっくり動き始めた。
オイサ、オイサ、オイサ、オイサ。
楽隊が賑やかな鈴の音と太鼓を奏でる中、大綱を引いている人達の掛け声が静かな波のように打ち寄せる。
山車の上に立つ神官が人波に向かって聖水を撒く。 微かな虹が現れては消え、道の両脇を埋め尽くしている人達から大きな歓声が湧き上がった。 最初は虹が現れたからだと思っていたけど、笑い声が混じっている。 と言うより、明らかに笑われている。 なんだか様子が変。 みんなの視線は私の方に向いているし、指を差している人もいた。
なんだろ。 急いで自分の周りを見回したら揺り籠の一番上にお猿さんが立ち、左右の人達に向かって手を振っているのに気付いた。 その手の振り方が、どう見ても聖水を撒いている神官の真似で。
おかしさが込み上げる。 かわいいとは言えない顔のお猿さんが、すごく真面目な顔でお水撒きの真似をしているから。
どうしよう? 止める? 私に止められるの?
じゃ、止めない? 止めなかったら後で、なぜ人を呼んで止めなかった、と叱られるんじゃない?
猿神の事を御存知の祭祀長様はお許し下さるかもしれないけど、予期せぬ事が起こった場合即座に警備兵を呼ぶように、と色々な人から何度も言われている。
これって予期せぬ事? 初穂の儀の最中、山車の上に猿が現れるだなんて誰も予期していないでしょ。 そう言う意味では予期せぬ事だよね。 でも予期せぬ事をしでかした慮外者は捕縛されるんじゃなかったっけ?
猿神を捕縛? そんな事をしたら怒らせるに決まってる。 サナの事だって守ってもらえなくなるかも。 守ってもらえるどころか呪われたりして?
困り果てた顔をして小声でカナが訊ねる。
「奥様。 如何致しましょう。 猿神、ですよね?」
迷ったけど、真面目なお顔を見るとふざけているようには見えないし、サナから守り神を追い払う訳にはいかない。
「そのままで。 今現れたのは予期せぬ事でも、いつか現れると予期していた事だから」
私の言葉にカナが頷く。
そんな言い訳が通用するかどうかは分からない。 旦那様ならどうなさったかしら?
すると頭の中に旦那様が現れておっしゃる。
「まいった、まいった。 どうすればいいか分かんなくてさー。 えへへ。 だから何もしなかった」
同じ事を私が言ったって、いえ、誰が言ったって通用しないと思う。 でも旦那様なら。 皆さん、しょうがねえなあ、みたいなお顔をして誤魔化されて下さるような。
もう、ほんと、旦那様、早く帰って来て。