猿神 4
旦那様、いつお帰りになるんだろ。 そんな事ばかりをずっと考えていたせいか、夜、夢に旦那様が現れた。
玩具屋っぽいお店で何を買うか迷っているみたい。 大きなお猿さんのぬいぐるみをお手に取り、ちょっと眉を顰める。
「軽いのはいいけど、かさばるなー」
そう呟いてぬいぐるみを棚に戻し、次に人差し指くらいの木彫りのお猿さんを摘み上げ、じろじろ眺める。 買うのかと思ったら、側にいたメイレにお訊ねになった。
「これ、小さ過ぎて飲み込んじゃうよね?」
「お子様が喉を詰まらせる事を御心配なさっているのですか? 飲み込むとしたら、もっと小さな物ですよ。 豆やナッツ、飴、ボタンとか。 その大きさでしたら大人でも飲み込めないのでは」
「ま、そう言われてみれば。 なら、これにするか」
旦那様の近くに控えていたお店の人が、ぬいぐるみのお猿さんから詰め物を取り出し、ぺしゃんこになった所を見せた。
「お客様。 このように小さくたたみ、お宅で適当な詰め物を入れる事も出来ます」
「おっ。 いいねー。 じゃ、どちらも買うよ」
はっきり言ってどちらも可愛くない。 それにサリは雨や雪の日だって外で遊びたがるから、ぬいぐるみや木彫りのようなお家遊びに向いた玩具をもらっても喜ばないと思う。
もしかしたらサナへのお土産? 生まれたばかりの赤ちゃんに? 私の妊娠を知った途端、オークのぬいぐるみを買いに走った御方だから、サナにお猿さんのぬいぐるみを買っていらしたとしても驚かないけど。 何でお猿さん? クポトラデル、てお猿さんで有名な国? だとしても旦那様は毒殺事件を解決しに行ったんじゃないの? 自分の子供へお土産を買っている場合じゃないような。
生きるか死ぬかの瀬戸際かも、とすごく心配していたのに。 心配して損した気分。 するとリイ兄さんの怒鳴り声が。
「呑気に土産を買っている場合かっ!」
そこで目が覚めた。
変な夢。 妙にリアルで。 旦那様のお髪、飛竜から下りたばかりみたいにぼわぼわだったし。 正夢?
ばかね、私ってば。 いくら飛竜だって二日やそこらで外国に着く訳がない。 それに危険な任務の最中なんだもの。 帰り道ならともかく、行き道でお土産を買っている暇なんかある訳ないでしょ。 なのに旦那様が鼻歌混じりでお土産を選んでいる夢を見るだなんて。
面倒な事は全部私に押し付けて、御自分は知らん顔。 少しはリイ兄さんに怒鳴られればいい、と心のどこかで思っていたからこんな夢を見たのかな? ほんと、私こそひどい妻だよね。 旦那様がお帰りになったら謝らなきゃ。
ぼんやりそんな事を考えていたらソニに質問された。
「奥様。 本日のサリ様の御予定ですが。 遊び時間を削り、神殿での礼儀のお稽古を始めてもよろしいでしょうか」
「え? お稽古は来年辺りから少しづつ、て言ってなかった?」
「そう申しましたが、せっかく神域にお住まいなのです。 神殿にお参りする前の身支度。 お着物。 入殿の作法。 お祈りの手順、神官への御挨拶など、こういう場合はこうして下さいと口で説明するより、実際に神殿にお参りして戴いた方が身に付くのではないでしょうか。 なぜそうするのかは後で学習するとしても。
旦那様は皇王族の流儀に従わなくてもよいとおっしゃいましたが、ある程度のしきたりは今の内に慣れて戴いた方が後々の御負担が減るのではないかと存じます」
そうね、と頷きそうになった。 でも、と思い返す。 旦那様なら、うんとおっしゃったかしら?
たぶん。 いえ、きっと、遊び時間は削らないで、とおっしゃったような気がする。
そりゃ旦那様の言う事全てが正しいとは限らない。 特に旦那様は貴族とは思えないようなお育ちと聞いているし。 とは言え、サリの養育に関しては旦那様の御希望がどれも通っている。 これからはそうはいかないかもしれないけど、今の所は旦那様のお気持ち次第。
旦那様がお帰りになって、そんな事今からやらなくてもいい、とおっしゃったら、せっかく始めたお稽古が無駄になるんじゃない? 子供が一ヶ月や二ヶ月習った事をいつまでも覚えている訳ないし。 教えているソニの面目も丸潰れ、て感じ。 ソニは気にしなくても、後で真剣にお勉強しなきゃいけなくなった時に、今やらなくてもいいでしょ、とサリに思われたりして。
私がうんと言わないものだから、もう一押し必要と思ったか、ソニが付け加える。
「また、神殿に関する事だけでなく、宮廷儀礼のお稽古もそろそろ始めませんと。 自宅ではどうしても広い宮殿の雰囲気が出ず、歩数を数えねばならない意味も伝わりづらいので。
サリ様は満五歳になられましたらオスティガード殿下の婚約者として正式なお目通りをなさいます。 それまでに最低限の宮廷儀礼を身に付けておく必要がございます。 何分、瑞兆が婚約者という前例がないため、儀礼庁だけでなく、皇王庁、そして皇王妃陛下から事前の許可も必要です。 どの科目の何に重点を置くかについても協議せねばならないでしょう。 となると時間がかかるため、今日から基本のお稽古を始めたとしても早過ぎると言う訳ではございません」
「あの、お勉強は大切だと思うの。 ただ、その。 皇王族になったら遊びの時間は全くないと言ってなかった?」
「申しました」
「そ、それなら。 せめて今だけは、遊びの時間を削らないであげて。 お勉強の時間は追々増やしていくから」
「……畏まりました」
ソニの返事に微妙な間があったような。 言い方がまずかった? じゃ、他にどう言えばいいの?
まあ、言い方なんかより、サリのお勉強をいつ始めるか、だよね。 旦那様は英雄だから無作法でも許してもらえている。 でもサリも同じように許してもらえるとは限らない。 許してもらえなかったら? それにサリは旦那様と私の子だもの。 お勉強が得意、とはならないような。 もしそうなら時間はいくらあっても足りない。 今日からお勉強させないと。
じゃ、旦那様に反対されないよう、内緒でサリにお勉強させる?
いや、それは、ちょっと。
それとも誰かに旦那様を説得して下さるよう、お願いする?
誰か、て、誰? 旦那様の御両親は旦那様を奔放に育て、それで成功しているんだから、勉強させろとおっしゃる訳ないよね。 でも御両親を差し置いて親戚の誰かに説得を頼んだら、誰に頼もうと角が立つでしょ。 かと言って、旦那様の上官にそんな事頼めないし。
ぐだぐだ迷っていると、裏庭からサリの笑い声が聞こえた。 ブランコに乗っているらしい音がする。
「もっとー、もっとー」
それに続いてスティバル祭祀長様のお声がした。
「こりゃこりゃ。 天へ上りたいか。 天から下された幼子なだけに。 はっはっはっ。 そーれ」
ぎょっとして小走りで裏庭に出ると、サリの背中を押しているのはエナじゃない。
祭祀長様とお呼びしそうになって、今では祭祀長様ではない事に気付いた。
なら、前祭祀長様? いえ、そうじゃなかったような。 えーと、猊下、じゃなくて。 聖下、じゃなかったっけ? お辞儀は祭祀長様へと同じ? それとも違う?
カナにちゃんと聞いておけばよかったと後悔したけど、御本人様がいる前で奉公人にそんな質問をする訳にもいかない。 ぎくしゃくお辞儀をした。
「スティバル聖下」
「リネ、リネ。 爺でよい。 せっかくお役御免の気楽な身分になれたのだ。 水を差すでない」
「は、はあ。 で、でも、」
「ふーむ。 何か悩み事でもありそうな顔じゃ。 夢占を試してみてはどうか」
「夢占、でございますか?」
「丁度よい。 当たる事で評判の夢占い師がそこに座っておる」
そうおっしゃって、ベンチにお座りのテーリオ祭祀長様を指差される。
祭祀長様は夢占い師と呼ばれた事をお怒りにならず、微笑んでベンチのお隣をぽんぽんと叩かれる。 勧められるまま、お隣にお邪魔した。
「リネ。 昨晩、準大公の夢を見たのではありませんか?」
「えっ。 なぜお分かりに?」
「準大公には自分の経験を夢の形で飛ばす力があるようです。 猿が出て来たのでは?」
「まあ。 では、正夢?」
「正夢であり、次の神獣が現れる予兆です」
「しんじゅう、とは何でございましょう?」
「天の意を受け、不思議を生み出すもの。 青竜やロックのように限られた邂逅の場合もありますが、準大公家には主の留守中、家族を守る神獣がいます。 サリに狛犬。 リネに猫又。 サナには猿神」
「ぬいぐるみや木彫りのお猿が神獣?」
「ははは。 いえ、いずれ現れるのは生きた猿です。 準大公と一緒か帰宅の前後か、正確な時は分かりませんが。 その時リネを驚かせたり拒絶されたりしないよう、まず夢に現れたのでしょう」
「すると、お猿さんが現れたら我が家で飼えばよろしいのですね?」
「飼うと言うより、迎える気持ちで。 ケルパがサリの側を離れず、ノノミーアがリネの側を離れないように、猿神はサナの側を離れません。 恐れず、抗わず。 素直に受け入れ、猿神が嫌がる事を無理強いしない事です」
「貴重な御助言、誠にありがとうございます。 無事お迎え致しましたらお知らせ申し上げます」
そこで一際高いサリの笑い声が聞こえ、祭祀長様の御意見を伺いたくなった。 祭祀長様はお勉強に大変熱心で優秀な神学生だったと聞いている。 旦那様を説得出来るとすればこの御方しかいないのでは?
「あの、サリ様の事なのですが。 あのように遊ばせておいてもよろしいのでしょうか。 お勉強やお稽古事を始めるべきではございませんか?」
祭祀長様は少し首を傾げられる。
「サリが学びたいと言ったのですか?」
「いいえ。 ただ学ぶべき事がたくさんあると聞いており、早めに始めた方が良いのではと思ったものですから」
「学びは何であれ、学びたい者にとっては喜び。 やりたいからやっている事は身に付くのも早いもの。 けれど学びたくない者にとって学ばされる事は苦しみ。 教える側がどれほど熱心であろうと良い結果は齎しません。
幼くとも学べない訳ではないし、サリの立場上、学びたくなくとも学ばねばならない事はありますが、今すぐ始めなくては手遅れとなるものではない。 リネにしても準大公夫人となる教育を受けた訳ではなくとも立派に準大公夫人として周囲から慕われているではありませんか。
今は、あれは何と聞かれた時に答えるくらいで充分。 まず好奇心を育ててあげる事です。 それ以上はその都度必要に応じて。
何より遊びたい爺に孫は格好の言い訳。 遠からず取り上げられる言い訳なので、それまではそっとしておいてあげましょう」
祭祀長様のお言葉に思わず笑い出しそうになったけれど、堪えた。
サリがブランコを飛び出し、滑り台に向かう。 スティバル聖下はサリの付き添いをエナに任せ、私の隣にお座りになる。
「リネ、中々当たる夢占いであろう?」
「はい」
私の答えを祭祀長様がスティバル聖下に向かって打ち消される。
「師よ。 当たったか外れたかはまだ分かりません。 猿神が現れたら当たった事になりますが」
「私の事は爺でよいと言ったであろうが。 今ではそなたが師と呼ばれる立場。
それにしても次は猿神か。 では、名を何とする?」
「いつ現れるか分からないのに、少々お気が早いのでは」
「そうか? 私は年内に現れると思うがな。 今月中かもしれん。 まあ、それは現れた時に決めれば良いとして。 初穂の儀じゃ。
リネ、一つ収穫を喜ぶ歌を歌ってはもらえぬか?」
「どの歌でございましょう? 歌った事がない歌ですと、練習する時間を頂戴したいのですが」
「収穫の際、よく歌われる民謡だからリネも知っているのでは?」
そうおっしゃって聖下が歌われた。
実りよしよし
取り入れじゃ
取り入れじゃ
たんとこい たんとこい
こいこいこい
見事な張りのあるお声だ。 私も秋によく歌っていたから歌える事は歌える。
「知っております。 ただ私の故郷では合いの手やお囃子が入り、何人もの村人がかわりばんこに歌っていたので、一人で歌った事は一度もないのですが」
「ふむ。 楽師と話してみるか。 初穂の儀では民と共に陛下も歌い踊ったと言い伝えられておる。 それは遥か昔の話で、現在の儀式にそのような無礼講の雰囲気はないが。 神域内で粛々と行うのではなく、第一駐屯地の六頭杯会場を使い、誰でも入れるようにしてほしいと将軍に伝えた。 食べ物がふるまわれ、歌も踊りもある、くだけた集まりにしたくてな」
「あの、事件が起こりましたが。 それでも開催されるのでしょうか?」
「将軍から中止の知らせは来ていない。 このような時に余計な催しなどしたくないのが本音かもしれんが。 民には民の都合がある。 何が起ころうと収穫をせぬ訳にはいくまい。 彼らの労を労い、豊かな実りを天に感謝する機会にしたいのだ」
聖下のお言葉に祭祀長様が深く頷かれる。
「初穂の儀の由来は正に爺のおっしゃる通り。 また、来年の豊作を祈念する意味もあったようです。 リネの歌声なら天への祈りも届くでしょう」
どうやらもう私が歌う事は決まっているよう。 慌てて申し上げた。
「ただ、その、夫が不在で。 夫の許しがないのに人前で歌う訳には。 夫に知られたら不快にさせるのではないかと」
聖下と祭祀長様がちらっと視線を交わされた。 それから祭祀長様がおっしゃる。
「リネに関し、少々心配し過ぎる傾向はあるようですが。 あれで中々妻の能力を理解し、信頼しています。 世間には妻の決断に一々口を挟む夫もおりますが、準大公はそういう夫ではない。 頻繁に不在だからと言うより、妻が自分の信頼に応える女性である事を知っているからでしょう。
優れた決断力を持つ妻を得た事も彼の強運の一端。 非凡な夫に仕える妻の苦労は並大抵ではないながら、リネも非凡な妻。 自分の決断を信じる事は夫の信頼に応える近道でもあります」
非凡な妻? 私が?
そりゃ、そこまで言われたら嬉しいけど。 何だかうまく持ち上げられて丸め込まれたみたい。 旦那様も丸め込まれてくれるかしら?
「照れるー」
とかおっしゃって、丸め込まれてくれる?
「でもそれはそれ。 これはこれ」
とおっしゃるような。 何しろ旦那様って私が人前で歌う事を嫌がる。 私の歌声に惹かれ、男が群がると思っていらっしゃるから。 そんな訳ないのに。 男が群がるとしたら、それはその人達が旦那様に憧れているからで、私が憧れの人の妻だからでしょ。
うーん。 どっちにしても当分旦那様はお帰りにならないんだよね。 なら歌うしかないか。