猿神 3
カナが作ってくれた薬草茶とラベンダーの匂い袋が入った枕のおかげか、朝サナにお乳をあげるまで一度も目を覚まさず、ぐっすり眠っちゃった。 最後の練習でもどじったのに。 私って結構図太いのかも。 とは言え、やっぱり緊張しているようで、朝食はいつもの半分しか食べられなかった。
門前で祭祀長様のお越しを待っていると遠くから鈴の音が聞こえて来た。 カナが私の耳元で囁く。
「露払いの神官です。 露払いが口上を述べ終わるまで、このままの姿勢でお待ち下さい」
神官は門前で馬から下りると、鈴付きの杖でトントンと地面をお突きになった。
「善きかな、善きかな。 天より下されし幼子に、地より生まれし守りを与え、安寧の長きを祈る。 テーリオ北軍祭祀長猊下、御来臨」
テーリオ北軍祭祀長猊下? 見習じゃない?
昨日はそんな事、何もおっしゃっていなかったのに。 突然、祭祀長様に昇進したりするものなの?
内心驚いたけど、露払いが敬称を間違えるはずはない。 すぐさま祭祀長様に対する礼の姿勢を取った。
露払いに続いて祭祀長旗を掲げる神官が現れ、その後ろに楽師が続いている。 賑やかな鳴り物が奏でられる中、お神輿みたいに煌びやかな装飾が施された八頭立ての馬車が到着した。 お乗り物の後ろに神官が続き、行列の両脇を神域の警備兵が固めている。 皆様冠と飾り帯を付けた正装で、華やかな宮廷絵巻を見ているみたい。
祭祀長様と副祭祀のお二人が徒歩でいらっしゃるのかと思ったら、これほど仰々しい儀式だったなんて。 昨日の夜練習した短いお礼の口上だけでいいのか心配になった。 よくないとしても私の頭じゃ長い口上なんて覚えられないけど。
どうか何事もなく終わりますように。 それだけを頭の中で何度も祈った。
「テーリオ北軍祭祀長猊下、御来臨」
副祭祀が辺りに響くお声で宣言なさると、お側付き神官が馬車の扉を開け、祭祀長様が下りていらした。 見事な金糸刺繍が施されたお召し物に沢山の宝石が嵌め込まれた宝冠を被り、豪華な首飾りを付けていらっしゃる。 なんと神々しい。
大広間の上座に置かれた椅子に祭祀長様がお座りになり、式が始まった。 楽師が笛、太鼓、鈴を奏でると、副祭祀が進み出て祭祀長様へ宝物皿を捧げる。 そこで介添の神官に呼ばれた。
「天より下されし青竜の騎士にして忠誠なる臣民、サダ・ヴィジャヤンが子息、サナ・ヴィジャヤン。 猊下の御前へ」
指図に従い、サナを抱いて進み出る。 宝物皿には美しい鞘に収められた短刀が置いてあり、秋の柔らかな日差しを浴びていた。
祭祀長様は天に詠唱を捧げ、それが終わると短刀をお手に取る。
「幼子よ。 父に倣い、天を駆け、海を渡り、地の恵みを受け、人に愛され健やかに育て。 これぞ天の思し召し。 よって我が恩寵の証、守護の剣をサナ・ヴィジャヤンへ贈る」
そして柄をサナの手にそっと触れさせ、お包みの上へ置いて下さった。 楽師が三度、鈴と太鼓を交互に鳴らす。 その後で副祭祀が私に合図して下さった。
「テーリオ北軍祭祀長猊下にお伺い申し上げます。 サナ・ヴィジャヤンが母、リネ・ヴィジャヤン。 我が子に代わり、感謝と誓いの言葉を申し上げる事をお許し下さいますでしょうか」
「許す」
「此の度の恩寵、真に忝く存じます。 サナ・ヴィジャヤンは皇王陛下の忠誠なる臣民として、テーリオ北軍祭祀長猊下の尊き御指導の下、正しき道を歩むべく身命を尽くすでありましょう。 深き感謝を捧げると共に、ここに誓います」
「その誓約、しかと受け取った」
祭祀長様がそうおっしゃると、楽師が一斉に鈴を鳴らした。 祭祀長様のお手の一振りで鈴の音が止む。 すると副祭祀が室外にいる方々にも届くお声で告げた。
「テーリオ北軍祭祀長猊下、御退席」
猊下のお帰りを無事見送り、警備の最後尾の姿が見えなくなって、それはそれは深い安堵のため息をついた。 身の震えは隠せなかったもののどなたにも不調法を咎められずに済んだから。
全部終わるまで半時も経っていないと思う。 なのに何時間も立ちっぱなしでいたかのように疲れて足が動かない。 気付いたカナとソニが私の両脇を支えて居間まで連れて行ってくれた。
「奥様、大変お疲れ様でございました」
「カナ。 あれでよかったの?」
「悪ければ黙って見過ごすような方々ではございません。 祭祀長様はともかく、神官はいずれも傲岸不遜。 たとえ生まれ変わろうとあの性格までは変わるまいと思われる頑固者揃い」
「でも今日の皆さん、ほとんどがお若くて。 怖そうな雰囲気の人はいなかったような」
「確かに、いつもは無表情な副祭祀でさえ随分物柔らかな雰囲気でした。 副祭祀礼服を着ていなかったら同一人物と気付けなかったかもしれません」
「言われてみれば。 サリの言祝ぎの儀式の時だって随分冷たい雰囲気だったよね。 今日は嬉しそうに見えたけど。 私の気のせいかしら」
カナの側にいたソニが応えた。
「お気のせいとは思いません。 竜鈴を鳴らせるのは天賦の才。 これにより祭祀庁内での旦那様の評価が大きく上向いたと聞いております。 神官の態度が軟化したのはその表れでしょう」
「いくら態度は優しくなっても儀式は儀式だもの。 ほんと、疲れちゃった。 旦那様の御名代なんてこれが最初で最後だと思うけど」
カナとソニがちらっと視線を交わす。 どうやらカナに、あなたが説明して、と任されたようで、ソニが言う。
「奥様。 残念ながら儀式への御招待はこれから何度もあるかと存じます」
「何度も? そんなに長く旦那様がお戻りにならない、て事?」
「儀式はやろうと思えばいつでもやれるもの。 たとえ毎週であろうと」
「ま、毎週?!」
「以前でしたら毎週、何らかの儀式があったのです。 前祭祀長スティバル様は御着任以来多くの儀式をお取り止め、または簡素化なさいました。 ですが今年は初穂の儀への寄進をお受けになったと聞いております。 再開のおつもりがなければ信者からの寄進をお受けにはなりません。 それに場数を踏んでおく事は就任なさったばかりのテーリオ祭祀長様にとって良い練習となるでしょうし」
「練習?」
「過去の祭祀長はどなたも幼少の頃に見出され、どの儀式にも見習として祭祀長と御一緒に御臨席なさいました。 けれどテーリオ祭祀長様は見出されてから一年未満。 それまでは神学生。 神官でも上級貴族でもない為、神域内の儀式に参列する機会さえなかったと思われます。 ましてや主催者としての御臨席となると今日が初めてでしょう。 言わば平の兵士がいきなり将軍職を拝命し、五万の兵を閲兵したようなもの。 どう振る舞えば威厳が備わるのか、本に書いてある訳でもないでしょうし。 習うより慣れろとも申します」
「でも今日が初めてとは思えないほど神々しいお姿だったわ。 あれなら練習の必要はないんじゃ?」
「今日は内輪の小規模な儀式ですが、祭祀長様はかなり緊張なさっていらっしゃいました」
「あれで小規模?」
「何の儀式であろうと本日の儀式より小さくなる事はありません」
「それにしてもなぜ緊張なさっていらしたと分かったの?」
「奥様がおっしゃった『誓います』を『誓約』と言い間違えられました。 これは相手によりましては悪意の改竄と受け取られるような間違いです」
「意味は同じでしょう?」
「祭祀長様へ申し上げた場合、大きな違いがあります。 『誓います』は誓っただけですが、『誓約』となると誓いの成就を約束した事になるので。 未だ成就せず、と祭祀長様がおっしゃれば、誓約者は成就するまで努力し続けねばなりません。 成就前に誓約者が亡くなった場合、葬儀は行えないしきたり。 それは世間に顔向け出来ない家名の恥となるため、誓約者だけでなく誓約者の家族も生涯祭祀長様の御一存に縛られます。
今日の言い間違いは修正して記録されるはずですが、万が一、奥様のお言葉の方が修正されていた場合、旦那様にお伝えせねばなりません」
「はあ。 祭祀長様ともなると大変ね。 一言一句間違いが許されないだなんて。 見習から昇進なさった事は喜ばしいけれど。
ところで、昇進のお祝いには何がよいのかしら?」
「その必要はございません。 祭祀長様は陛下から天の気をお預かりしておりますが、五人いる祭祀長様のどなたがお預かりしているのかは秘中の秘。 お預かりしていない祭祀長様と祭祀長見習は、お預かりしている方に不測の事態が起こった場合天の気を引き継ぐのが役割。 役割上の違いはなく、見習の文字がなくなったから昇進した、という訳ではないのです。
ただ天の気をお預かりしているのは北軍祭祀長という噂があり、テーリオ祭祀長様が受け継がれたのだとしたら大昇進ですが。 それは部外者には確認しようもない事なので」
疲れた頭で聞いたせいか、分かったような、分からないような。 取りあえず賜剣の儀は終わった。 で、祭祀長様への昇進祝いは贈らなくてもいいんだよね? 次の儀式の事はその時になってから考えればいいし。 つい、本音が漏れた。
「次の儀式の前に旦那様がお戻りにならないかしら。 初穂の儀、て何の儀式か知らないけど、旦那様が御出席なされば充分でしょ」
「祭祀庁は旦那様より奥様の御出席を望まれると存じます。 こう申し上げては何ですが、賜剣の儀にしても旦那様が戻られては面倒。 この機を逃すまじ、と急いだ結果、今日になったのではないでしょうか」
「え? どうして?」
「奥様でしたら常識的な対応をして下さいます。 予定外、想定外はまずないでしょう。 けれど旦那様でしたらそうは参りません。
例えば、天より下されし、は皇王族を修飾する言葉です。 奥様は神官が呼び間違えるはずはないと思われ、流して下さいました。 これが旦那様でしたら神官が呼び間違えたと思い込み、間違っているよ、と訂正なさった可能性がございます。 その結果、祭祀庁と準大公家の間で一悶着起こっていたはず」
「神官がわざと間違えた、て事?」
「いえ、これは祭祀長様からサナ様への御配慮かと存じます。 守り刀は祭祀長から贈られる恩寵の象徴であり、天より下されし幼子である事の証。 ですから誰彼構わず贈る事は出来ません。 そこを、青竜の騎士は天より下されし戦士。 故に青竜の騎士の子息は天より下されし幼子、と祭祀長様が解釈して下さった。 それが世間に周知されるよう、賜剣の儀が行われたと推察致します」
「あの、なぜ世間に周知させる必要があるの?」
「当家は準大公家とは申しましても軍と言える数の私兵を所有しておりません。 準皇王族であるサリ様は北軍に警備されており、サリ様とサナ様が御一緒でしたらサナ様も守られますが、別行動を取られた場合、サナ様に北軍の護衛は付きません。
旦那様が御在職でしたら部下に護衛を命じる道がございます。 しかし退官なさったとなると、その選択肢はなくなった訳で。 御親戚の後ろ盾はあるものの、北軍との連携もあり、いつ誰にどのような警護を頼むか、その費用など、決めるのは簡単ではないでしょう。
けれど『天より下されし』御方でしたら皇王族と同等。 皇国五軍には準皇王族をお守りする義務があります。 今後はサナ様がお一人の時でも護衛が付くはずです」
サナを守ってもらえるのは嬉しいし、有り難い。 でも旦那様だったらいちゃもんを付ける。 私だったらつけない。 だから私の方がいいと言われて、素直に喜んでいいのかな?
旦那様だって事前にちゃんと説明されていたらいちゃもんを付けたりしないと思う。 ただ旦那様って本当に予想外な御方だから、付けるか付けないかはその時になってみないと分からない。
逆子の手術の時だって。 失敗したら、いえ、成功してさえ旦那様のお立場がどれほど難しくなるか、御存知なのに即決なさったと聞いている。 おまけに誰にも言うな、とおっしゃったんだとか。 私にも。 だから手術絡みの背景については後でソニから教えてもらうまで何も知らなかった。 手術の手順なら説明してもらったけど。
そりゃ結果的には私もサナも無事で、誰からも咎められずに済んだ。 とは言え、私だったらたとえお咎めはないと事前に知っていたとしてもそんな決断、やれない。 世間の皆さんにどう思われるかが気になって。
深いため息をついた。
「ねえ、カナ。 旦那様ならこの恩寵、お受けしたのかしら? それとも御遠慮なさった? どう思う?」
カナの瞳に苦笑が混じる。
「分かりません。 旦那様を予測するのは来年のお天気を予測するようなもの。 ですが旦那様の御不在がどれだけ続くか分からない今、恩寵を頂戴した事は大変心強いと申せます。
伝説によれば青竜の騎士は国難の際、外敵を打ち破りましたが、彼の留守中、妻子は戦火に巻き込まれ、助からなかったのだとか。 青竜の騎士は妻子の死後、誰とも契らず、彼の血筋は途絶えました。
皇国にとって青竜の騎士の血筋が再び失われるのは大打撃のはず。 血筋はサリ様も受け継いでいらっしゃいますが、仮に竜鈴を鳴らせたとしても飛竜の操縦など皇王庁が許可しないでしょうし。 その点、サナ様が青竜の騎士でしたら飛竜を操縦する事に何の問題もありません」
ソニがカナの言葉に頷いて付け加える。
「また、旦那様の御不在はこれからもあると予想されます。 今回は御家族の皆様が神域にお呼ばれしましたが、いつもそうなるとは限りません。 もしサリ様と奥様だけのお呼ばれであった場合、伯爵家次代という御身分では神域への自由なお出入りは不可能で、御面会を申し込むにも公侯爵以上の代理申請が必要です。
奥様がサナ様をお呼びする事は出来ません。 神域内のお宅ではサリ様が女主。 サリ様御自身がサナ様に会いたいとおっしゃいませんと。
奥様がお願いすれば御親戚の方々どなたも喜んで申請の労をお取り下さるとは思いますが。 いかんせん、北にお住まいの上級貴族がいらっしゃいません。 お許しを頂戴するまで、かなりの時間がかかると予想されます。 遠方の親戚の仲介を頼まねば母に会えないのは幼いサナ様にとってお辛い事ではないでしょうか。
しかもサナ様は同母弟であろうと異性。 そのため仮にサリ様がお呼びしたい場合でも、まずオスティガード殿下のお許しが必要です。 何分前例のない御招待で、オスティガード殿下も成人前でいらっしゃる為、御親戚の代理申請より時間がかかる恐れがございます。
皇王陛下から皇寵を頂戴すれば神域へもお出入り自由となりますが、未成年に皇寵を頂戴する資格はありません。 それで祭祀長様から恩寵を、となったのでは。 恩寵があれば神域へのお出入り自由。 これは皇王城内にある神域を含みます。
いずれに致しましても恩寵をお受けするか御遠慮なさるかはサナ様の将来を大きく左右する御決断です。 御遠慮なさるならいついつまでという期限がある訳でもないので、旦那様のお帰りをお待ちになっては如何でしょう」
どうしたらいいか分からない私はただ頷いた。
次に何が起こるかを予想する事に関し、ソニはトビと同じくらい正確だ。 賜剣の儀の翌日、初穂の儀への招待状が届いた。 初穂の儀は今年の収穫を天に感謝する儀式で、古い謂れがあるのだとか。
御招待には驚かなかったけど、招待状の宛名がサリ、サナ、そして私だったのには驚いた。
「ねえ、カナ。 これ、なぜ旦那様のお名前が書いてないのかしら」
「式は二週間後ですので、まだお帰りではないと思われたのでは」
「でも。 これじゃ式前にお帰りになったとしても出席出来ない、よね?」
「そうなります」
「何か旦那様に来てほしくない理由があったりして?」
「誰を招待するかしないかは主催者の御自由。 仮に理由があったとしても、それを祭祀長様に伺う事は失礼にあたるかと存じます」
「だ、だけど旦那様抜きで招待された事なんか今まで一度もなかったのに。 ちょっと、と言うか、かなり変じゃない?」
するとソニから釘をさされた。
「奥様。 言うまでもなく、祭祀長様からの御招待をお断りするのは大変な失礼となります。 サリ様と奥様でしたらともかく、サナ様は恩寵を頂戴したばかり。 たとえ当日お加減がよろしくない場合でも欠席なさる事はお勧め致しません」
「そんな。 メイレとリスメイヤー、どちらもいないのに?」
「臨時の医師、薬師を御指名なさいませ。 タケオ夫人の侍女、ミンでしたら適任ではないでしょうか。 サナ様にお熱が出た場合、冷静な対処をしてくれると思います。 さもなければ祭祀庁から神官が来て、有無を言わせずサナ様をお連れし、それが今生のお別れとなるやもしれません」
どうやら欠席は不可能なよう。 使者の方を長々お待たせする訳にもいかないから、喜んで出席させて戴きます、と伝えた。 でももしここに旦那様がいらしたら簡単にうんとはおっしゃらなかったような気がしてしょうがない。 じゃ、どうした、と聞かれても答えられないんだけど。
何とか儀式前にお帰り下さらないかな。 だけど御自分が招待されていない事を知って、とんでもない事をなさったら? それはそれでとっても困る。 それでも祈らずにはいられない。
旦那様、どうか早く。 早く帰って。