猿神 2
神域に着き、サリの家の前で馬車から下りると、サリはほとんど小走りで広く開け放たれている玄関の中に入った。
「ははうえっ! はやくー、はやくー」
「はいはい、少しお待ち下さいませ」
どうやら神域にある家を自分で案内しながら自慢したいらしい。 馬車に乗る前からそわそわ。 馬車の中でどの遊具が好きか一生懸命教えてくれた。 ゆらゆらが好きー、おすべりも好きー、とか。
生垣の外側から見た限りでは、サリのために用意された家は神域内にある他の家とあまり変わらない。 でも主を待つかのように開け放たれた玄関の中央に、子供が大人の手伝いなしで土間から取次まで行けるよう、緩やかなスロープが付いている。 両脇の手すりも子供用だ。
勝手知ったる様子でサリがスロープ前に置いてある柔らかそうな室内履きに履き替え、駆け上がる。 室内履きは連れて来た奉公人全員の分が用意されており、おや、と思った。
我が家の奉公人は少ない。 とは言え、夏に神域内で暮らしていた時は、主と奉公人がはっきり区別されていた。 例えばサリと私の室内履きは用意されていても奉公人の分は用意されていない、という風に。 なのに今日はフロロバの分まで用意されている。 我が家にとって不可欠な一員ではあっても平の北軍兵士で奉公人でさえないのに。
「こっちー、こっちー」
自分の部屋を見せたくて急いでいるのかと思ったら、サリは私の手を引いて縁側にある廊下をどんどん歩いて行く。 縁側の終わりに大きな窓が付いた扉があり、そこから裏庭が見える。
「まあ」
扉を開けると思わず感嘆の声が漏れた。 広々とした裏庭には私が初めて見る遊具が沢山置いてある。 滑り台と言っても我が家の裏庭にあるような直線の小さい滑り台じゃない。 螺旋形の大人でも滑れる大きさで、かわいらしい小鳥がいくつも描かれており、滑るのが勿体ないような芸術品だ。
大きな受け皿の上に置いてある蜂の巣のような遊具は色とりどりの縄を編んで作ってある。 これなら子供がどこで足を踏み外しても途中で受け止めてもらえるだろう。
砂場の中央に備え付けられたブランコは一つは普通の子供用。 もう一つは揺り籠を少し傾けた形になっている。 首がすわっていない赤ちゃんでも乗せられるよう、ドーナッツ形の枕とベルト付き。 しかも子供用椅子の右と揺り籠の左には鉄製のお猿さんが付いていて、お互いに向かって腕を伸ばしている。 手が留め具になっていて、繋げれば二つのブランコが一緒に揺れるようになっていた。
庭木はツリーハウスが置いてある樫の巨木以外どれも丸く剪定されており、プールも水が抜かれ、水の代わりに丸くて中をくり抜いてある木の玉を敷き詰めているという念の入れよう。
「ははうえ、あれっ!」
サリがブランコを指差し、走り出そうとする。
「サリ様、間も無く祭祀長様がいらっしゃいます。 私と一緒にお迎え致しましょう。 ブランコで遊ぶのは祭祀長様がお帰りになった後で」
「よいよい。 サリ、ブランコがよいか? 爺が押してあげよう」
ぎょっとして後ろを振り向くと、スティバル祭祀長様、テーリオ祭祀長見習様がお二人でにこにこ笑って立っていらした。
「猊下」
慌てて正式な礼をしようとすると、祭祀長様がお手をひらひら振られる。
「リネ、それをし始めては短い話も長くなる。 まずはそこのベンチにお掛け。 私とサリはブランコを楽しむ故、ほら、サナをこちらに」
言われるまま、サナを揺り籠に置いてベルトを締めた。 祭祀長様がぽんとサリの背中を押してブランコを揺らし始める。
はっきり言って今日は疑問だらけ。 ブランコどころじゃない。 とは思ったけれど、まさか私が祭祀長様に、そんな事より一体何がどうなっているのか教えて下さい、と言える立場でもない。
途方に暮れた顔をしていたからか、隣にお座りになった祭祀長見習様が慰め顔でおっしゃる。
「爺は元々しきたりに捉われない御方ではありました。 しかし最近その傾向に拍車がかかったようで。 誰の影響と名指しはしませんが。 確かリネの家に同じ傾向の人が一人、いたのでは?」
そしてお茶目なウィンクをなさった。
私にとって、いえ、誰にとっても雲の上の御方となられた今でも、初めてお会いした時に感じた優しい雰囲気のままでいらっしゃる。 とは言え、いずれは当代皇王陛下の分身となられる御方。 見習という文字は付いていても先代陛下の分身でいらっしゃるスティバル祭祀長様より上のお立場だ。 気安く話し掛ける事など許されない。
それは分かっているけれど、神官は大変威厳のある御方ばかりで近づき難いし、用がない限り誰も私に近づいて来ないから、何か聞きたければ私から呼び出すしかない。 でもどう呼び出せば失礼にならないのか、トビでさえ知らなかった。 神官を呼び出すなんて皇王陛下しかなさらない事だから。
旦那様の上官なら何があったのか知っていると思う。 だけど旦那様の上官て、将軍様だもの。 お忙しいのに私がお目通りをお願いしたら御迷惑になるでしょ。 旦那様の部下なら知っているかも。 とは言え、神域の警備をしている兵士は旦那様の部下じゃない。 ならここで祭祀長見習様に聞く以外、誰に聞けと言うの。
私はなけなしの勇気を振り絞った。
「恐れ入ります。 あの、もしや夫が何かしでかしましたか?」
祭祀長見習様が少し遠い目をなさる。 お顔はブランコの方角に向けていらっしゃるけれど、御覧になっていらっしゃるのはブランコでもなければ、サリやサナ、祭祀長様でもなさそう。
「何もしていない、とは言えません。 けれど準大公がしでかした、と言っては正しくない。 それではまるで悪事を働いたかのよう。
例えば、竜鈴は鳴るべくして鳴った。 彼が青竜の騎士であったから。 彼が竜鈴を鳴らしたのは事実ではあっても、準大公がしでかした、と言うべきではありません。
今回もある意味、事件は起こるべくして起こった。 それによって引き起こされた事態を収拾するのは他の誰にも出来ず、彼が行くしかなかった、という訳です。
心配しないように。 弓と剣はいずれ戻ります」
「えっ。 では兄も一緒ですか?」
「ええ」
「行き先は外国と聞いたのですが」
「クポトラデルです。 そうモンドー将軍が言っておりました。 弓と剣がクポトラデルから戻るまで、神域内でサリ様をお守りしたい、と。 サリと遊ぶ機会を狙っていらした爺にとって渡りに船。 将軍の気が変わっては面倒、と詳しい事は何もお訊ねにならなかったため、私も詳しい事は知りません」
クポトラデル? クポトラデル、て。 確か旦那様のお兄様の生まれ故郷じゃなかった?
レカお兄様のお名前を初めて聞いたのはサジさんとユレイアさんの結婚式の時だった。 旦那様が北へ帰る途中で呟いたんだよね。
「レカ兄上も出席していたらなあ」
「旦那様にもう一人お兄様がいらしたのですか?」
「うん。 義兄弟、てやつ。 血は繋がっていないけど、子供の頃レカ兄上に命を助けられた事があってさ。 その時弟になってあげる、て約束したの。 レカ兄上に家族はいなかったから。 戸籍も父上がちゃんとしてくれて、レカ・ヴィジャヤンになっている」
「そうでしたか。 ではお仕事が忙しくて出席出来なかった?」
「いや、俺の父方祖父、てのが結構頑固な人で。 俺には甘い所もあったんだけど、血が繋がっていない者をヴィジャヤンとして公式の席に呼んではならん、とか何とかごねたらしい。
お祖父様が死んで大分経つし、父上はそんなの全然気にしてないから呼んだってよさそうなもんなのに。 ここだけの話、サガ兄上、てお祖父様そっくりなんだ。 特に頑固な所が。 人当たりはいいし、ちょっと見、そうは見えないけどね。 どうやらお祖父様の遺言を後生大事に守って呼ばなかったみたい。 当代様の鶴の一声じゃ、サジ兄上だって逆らえないよ」
「それなら北に御招待なさっては? 我が家でしたら別家ですし」
「実はさ、北軍に入隊してからレカ兄上に会いたくて。 トビに手紙を出してもいいか、聞いた事があるんだ。 そしたら住所が分からないからだめだって」
「もしや御病気にでも?」
「いや、元気みたい。 しょっちゅう外国へ行っているらしくて、時々珍しい贈り物が届くんだ。 リネは食べなかったけど、俺の誕生日に届いたスルメ、覚えてない?」
「ああ、あれが。 カードにはメッセージだけでしたのに、なぜ送り主がお分かりになったのです?」
「噛めば噛むほど味わい深い弟となりますように、て。 そんな事言うの、レカ兄上だけだもん」
「面白い御方なんですね」
「うん。 父上とすごく気が合うの。 父上の冗談、て分かりづらくて誰も笑わないんだけど、レカ兄上には分かるらしくて。 よく一緒に笑っていたっけ。
父上が俺の母方祖父から受け継いだ商売、レカ兄上が継ぐんじゃないかな。 こんなに外国巡りしている所を見ると」
「それならいつか帰国なさった時に我が家まで足を延ばして下さるかも」
「だといいんだがなあ」
ある日旦那様が鼻歌を歌っていらした事があって、その断片がどう聞いても皇国語じゃない。
「旦那様、それはどこの国の歌ですか」
「ああ、これ? クポトラデル。 レカ兄上の生まれ故郷みたい。 森の中を一緒に旅してた時、俺に歌ってくれたんだ」
「優しくてきれいな歌ですね」
「レカ兄上もね、優しくてきれいなんだ。 物知りでさ。 しかも賢いだけじゃない。 剣の腕前も中々なんだぜ」
そして一緒にあれをした、これを食べたと幼い頃の思い出を色々教えて下さった。 ただ歌の名前は御存知なくて。 サリに歌ってあげたかったからトビに聞いてみたの。 そしたらきつく警告されたんだよね。
「奥様。 レカ・ヴィジャヤン殿に関しては何であれ、どなたにもお話しなさいませんよう、お気を付け下さい。 公式は勿論、非公式のお席でも。 旦那様の御両親と実兄のお二人は経緯を御存知ですが、ライ様、ユレイア様にも詳しい事情を教えたのかどうかは聞いておりませんので」
「事情、て?」
「秘さねばならない出自でいらっしゃいます。 これは旦那様も御存知ありません。 ヴィジャヤン伯爵家の先代執事によりますと、準公爵がヴィジャヤン伯爵であった時、知らせるな、知った所でサダの気持ちに変わりはあるまい、とおっしゃったのだとか。
御存知のように旦那様は隠し事が出来ない御方です。 下手にお知らせすれば、ふとした拍子に旦那様が漏らされ、それが原因でレカ殿に非常な御迷惑が掛かる事もあり得ます。 そのような事になれば旦那様は御自分を責められ、大変悲しまれるでしょう」
そう言われたから、それ以上聞かなかった。 何も知らなけりゃ聞かれたって答えられないしね。 でも旦那様の行き先はクポトラデル。 レカお兄様と何か関係があったりして? こんな事になるならもう少し詳しく聞いておけばよかった。 祭祀長見習様は心配するなとおっしゃったけど、本当に大丈夫なのかしら?
祭祀長様と祭祀長見習様はお茶を召し上がっただけでお帰りになり、トビ、ロイーガ、アタマークの三人はその後自宅へ戻った。 結局このまま待つしかないのかしら。
一週間? 一ヶ月? ひょっとしたら、もっと? て事は、両陛下への新年の御挨拶、私一人でするの? そ、それだけは勘弁してほしいんだけど。
ため息を何度もついていたら、サリが眠った後でフロロバが報告してくれた。
「奥様。 これから話す事はどれも公表されてはおりません。 軍の機密、てやつです。 誰に聞かれようと、どんな噂が流れて来ようと、知らぬ存ぜぬを通して下さい。
実はクポトラデル王太子が持参した葡萄酒に毒が仕込まれており、歓迎昼食会でそれを飲んだポクソン補佐が亡くなりまして」
「えっ?!」
「タケオ大隊長が怒髪、天を衝くとなり、その場で退官」
「た、退官?!」
「どうも単身クポトラデルに殴り込みを仕掛けるおつもりだったようで。 それを察知したヴィジャヤン大隊長が、師範一人では行かせられないとおっしゃり、同じく退官。
部下でないなら準大公は将軍より上です。 将軍はお止めする事を諦め、マッギニス補佐を準大公警備の特務大隊長に任命なさいました。 本日午後、準大公、タケオ殿、マッギニス特務大隊長、タマラ中隊長、アラウジョ、メイレ、リスメイヤー、ダーネソン、タケオ殿の従者コシェバー、通訳のエットナー、合計十名で飛竜に乗り、クポトラデルへ向けて出発したとの事」
カナ、エナ、ソニ、誰もが無言。 私だってなんと言えばいいのやら。 まさか毒殺事件だったとは。
脳裏にポクソン補佐のお顔が浮かんだ。 私自身は挨拶を交わした事があるだけで、お人柄を深く知る機会はなかったけど、あの疑り深いリイ兄さんが、どれだけポクソン補佐を信頼していたか。 それはポクソン補佐を見る時の目線やポクソン補佐について話す時の口ぶりから何となく感じられた。
いらついているリイ兄さんをうまく宥めて儀礼の稽古に連れて来てくれたり、ダンスの稽古をいいかげんにしていると注意してくれたり。 実の親が叱ったって、ふん、て感じでまともに聞いた事がなかったリイ兄さんが、ポクソン補佐の言う事だったら素直に聞いていた。
ポクソン夫人にも大変お世話になった。 初めての出産で、不安な私の愚痴を辛抱強く聞いてくれて。 サリが瑞兆となってから沢山の人が私に近づこうとしたけど、ポクソン夫人が私に招待を強請った事なんて一度もない。
ある日突然愛する夫が二度と戻らない。 そんな事が自分に起こったら。 そう考えただけで胸が痛む。 居ても立ってもいられず、フロロバに聞いた。
「ポクソン夫人にこっそりお悔やみを送ってもいい? お金や手紙がまずいなら、お花か、お香とか」
「ポクソン夫人はまだ夫の死を知りません。 この事件をどう扱うかに関し、上の方で揉めているらしく。 大隊長が退官なさった事は勿論、事件があった事さえ公表されていないのです」
「まあ。 でも飛竜に乗ったのなら、それを見ていた人が何十人もいるんじゃないの?」
「御出発の理由は、急な用事で御領地まで飛ばねばならない、としたようです。 それにそろそろ雪が降る季節。 飛竜が戻らなくても世間はダンホフへ戻したと思うでしょう。 正直に、たった十人で外国に殴り込みをかけに行った、と言ったとしても信じる者はおりません」
呆然としているとカナが言う。
「奥様。 ポクソン補佐の逝去は誠に残念でなりませんが、明日、賜剣の儀がある事、お忘れになりませぬよう」
「しけんの儀、て?」
「シーリッグ上級神官がおっしゃった、サナ様へ守刀を贈る儀式です。 本来でしたら皇王族の男児に与えられるもの。 サリ様の実弟と言う理由で下さるのかもしれませんが。 臣下へ贈られるのは大変異例と申せます。
残念ながら、私、エナ、ソニのいずれも聞いた事があるだけで参列した事はなく、どういう手順なのか全く知りません。 仮に知っていたとしても臣下が同じ手順に従ってよいのかどうか。
取り敢えずオスティガード殿下からの贈り物を頂戴する時の例に従い、お受けするしかないと存じます。 ただ贈り主が祭祀長様。 つまりオスティガード殿下より格上の御方なので、全く同じでよいはずはないのですが。 ではどこをどう変えるべきなのか定かではなく。 式が明朝では誰かに聞いている時間もございません。 そのうえ旦那様がいらっしゃらない。 御名代として奥様がお礼の口上を述べる事になります。 今の内に練習なさいませんと」
ここに旦那様がいて下さったら。 大丈夫、大丈夫、なんとかなるって。 といつもの笑顔でおっしゃって下さったら、こんな冷や汗、流れたりしないのに。
御名代? 無理無理無理。 しかも明日! 今から練習したって遅いでしょ。 失敗するに決まってる。
失敗したら私が叱られるだけで済むのかな。 済まなかったら?
いっそ泣いちゃう? やれません、て。
それとも逃げる? 何もかも投げ出して。 どこへ? どこでもいいから。
そこでいきなりノノミーアがしっぽをバシバシっと打ち鳴らした。 思わずびくんと背筋が伸びる。
そう、よね。 こんな時。 旦那様が不在の時こそ気合いを入れなきゃ。 御名代くらいでびびってどうするの。 女は気合いよ! 気合い!
うう。 とは言ってもこれは気合いがあれば済む話じゃなさそう。