猿神 1 リネの話
お昼寝から起きたサリと一緒に遊んでいたらトビが現れた。
「奥様。 スティバル祭祀長猊下のお側に仕えるシーリッグ上級神官がいらっしゃいました」
上級神官? 前触れもなく? 頭の中に?が何個も浮かんでは消えた。
そりゃ神官が我が家を訪れた事なら今までにもあったけど。 その前に使い走りと言うか、神域に仕える下働きの人が何回も行き来して、ああしろこうしろ、ああでもないこうでもない。 それが終わるとようやく神官が訪れる、という感じ。 それに今、旦那様は駐屯地で家にいない。 そういう行き違いがないよう、必ず何月何日の何時に訪問すると事前に御連絡下さっていたのに。
まさか私に用事? 何の? 歌ってほしいとか? だとしてもそれは私一人で決められる事じゃない。
「旦那様がお帰りになってから御用件を伺うのはだめ?」
「ダーネソンが旦那様のお呼び出しから戻っておりません。 フロロバによると、アラウジョ、メイレ、リスメイヤーにも緊急呼び出しがあったとの事。 何か事件が起こったと予想され、本日はお帰りが遅くなるか、お帰りにならない可能性もございます。
スティバル祭祀長猊下は大変寛容なお人柄でいらっしゃいますが、祭祀庁内の皆様、全員が寛容とは言い難く。 上級神官を長々お待たせしたら後で誰に何を言われるか。 お返事は旦那様がお帰りになってからなさるとしても、先に御用件だけでも伺っては如何でしょう」
「そうね。 じゃ、すぐに着替えないと」
「いえ、事前の知らせなき訪問はこちらの不首尾、どうかお召し物はそのままで、とシーリッグ上級神官がおっしゃいました。 どうも大変お急ぎのようで」
普段着でいいなら大した用事でもないのかな、と思ってお会いしたら。
「ヴィジャヤン準大公夫人に北軍祭祀長猊下からのお言葉をお伝え申し上げます」
な、なんですって?! 祭祀長様のお言葉を頂戴する? 何の前触れもなく?
こんなのあり? とトビに聞いている暇はない。 すぐさま祭祀長様のお言葉を頂戴する姿勢を取ると、上級神官が厳かにお訊ねになる。
「リネよ。 我らが瑞兆は健やかであるか」
「はい。 サリ様は本日も御機嫌麗しゅう、大変お元気であらせられます」
「リネの体調は如何」
「お陰様で息災に過ごしております」
「サナの成長は順調か」
「幼き者にまでお気遣いのお言葉、有り難うございます。 病気もせず、すくすくと育っております」
「其方ら家族の健やかなる様子を見たい」
「猊下のお気持ち、誠に忝く存じます」
私がそう答えると、上級神官は御自分のお声に戻られた。
「以上、猊下のお言葉をお伝え申し上げました」
そしてお席からお立ちになる。 これでお帰りかと思い、内心ほっとした。 もしかしたら叱られるのかもと思っていたから。 叱られるような事をした覚えはないけど、何もしなかった事が理由で叱られる時もある、と言われていたし。
お見送りするつもりで立ち上がると、上級神官が私に向かって一礼なさる。
「それではお目通りの場へ御案内申し上げます。 猊下が遣わされた馬車が玄関先で待機しておりますので、どうぞ」
思わずぽかーんと上級神官の顔を眺めちゃった。
「あの、今日、ですか?」
「はい。 行き先は今夏サリ様がお住まいになられた家です。 堅苦しい事は抜きにせよ、と猊下が仰せになりまして。 猊下のお住居ですと何かと儀礼上のしきたりに縛られますが、サリ様のお住居であればしきたりに縛られずに済みます。
正式なお目通りではないので礼装にお着替えなさる必要はございません。 猊下は散策がてらサリ様のお宅へお立ち寄りになり、お茶を召し上がる、という流れになるかと存じます。
尚、本日はそれで終了し、今晩の御予定は特に組まれてはおりませんが、翌日、朝餉の後で猊下がサナ殿の健やかなる成長を天に祈願し、守刀を贈られます。 儀式に必要な物は式服、装身具、小物類も含め、全てこちらで用意致しました。 その他何かお入り用でしたら御用命下さい。 すぐに調達致しますので。
準大公夫人のお部屋、その隣にサナ殿のお部屋も用意致しました。 家具調度の類いは季節に合わせております」
これってつまり、神域に泊まれ、て意味だよね? しかも今日?!
呆気に取られたけど、祭祀長様の御招待なんだもの。 行かなきゃ。
「細やかなお気遣い、忝く存じます」
そして側に控えているカナに命じた。
「サナは私が抱いて行きます。 エナにサリ様のお出掛けの用意をするように伝えて。
トビ。 他の人達に今晩は留守にすると伝えておいてね」
するとトビが一礼して言う。
「奥様。 サリ様のお出掛けにはエナ、ソニ、バートネイア、ネシェイムがお供すべきかと存じます。 お泊まりになるのでしたらカナとフロロバもお連れ下さい。 私、ロイーガ、アタマークは旦那様からの緊急連絡があるかもしれませんので、こちらで留守を守りますが。
ただ奥様への緊急連絡に備え、我々の顔を神域警備の方々に覚えておいて戴きたいのですが。 取り敢えず奉公人全員がお供し、我々三名は警備の方々に御挨拶した後、家に戻るとしてもよろしいでしょうか」
「シーリッグ上級神官、家内の者全員でお邪魔しても構いませんか?」
「サリ様のお住居には空き部屋が二十数室ございます。 御家内は元より、その他お連れになりたい方がございましたら御遠慮なくお泊まり下さい。 それと奉公人以外の者をお使い下さってもよろしいように通行証を発行致します。
尚、サリ様のお住居は秋用に模様替えされておりますが、サリ様の日常を知らぬ者が準備した事でもあり、何かと至らぬ点がございましょう。 お側の方々の視点で改善すべき所をお知らせ下されば幸いです。 出来るだけ早く帰らねば、との御心配はどうか御無用に」
「行き届いたお気遣い、誠にありがとうございます」
そう言って退室するトビに慌てた様子は少しもない。 カナも近所に出掛けるような涼しい顔をしている。 まあ、危ない場所じゃないし、馬車ですぐそこだから顔色を変えなくても不思議はないんだけど。 突然と言えば突然よね。
サナが寝ている子供部屋へ行こうとして、ふと心配になった。 祭祀長様の御前でサナが泣いたらどうしよう? 段々昼と夜の区別がつくようになったとは言え、いつむずかり出すかなんて予想がつけられる年じゃない。 いくらお優しい祭祀長様でも赤ん坊にびーびー泣かれたらいらつくんじゃないかしら? それか、こんなんじゃサリのおねむの邪魔になると心配されたりして。
それでなくてもしきたりだと皇王族は同母だろうと姉弟が一緒に住んだりはしないんだって。 同母で同じ性なら同居する事もあるけど、性別が違えば必ず別棟で育てられるんだとか。 エナがそう言ってた。
旦那様は別々に育てろと言われるまでこのままでいい、とおっしゃる。 でもソニによると、サリ様を優先させた養育をしないと旦那様のお立場が悪くなったり、世間から責められる原因になるらしい。
皇王陛下はいつも旦那様を庇って下さる。 ただ何事にも限界、てあるでしょ。 なのに旦那様たら。 ま、そんときゃそん時さ、て。 こうよ。
お泊まりしたら、いい加減に育てている事が祭祀長様にばれて、サナは別の家で育てるように、と命令されるかも? せめて離乳するまでは私が育てたいんだけどな。
それともサナがぐずったら、今日の所は自宅に帰ってもいいでしょうか、と直接祭祀長様にお願いしてみる? その方がすんなり帰してもらえそうな気がするし。
それにしても何で急にこんなお誘いが来たんだろ。 実は、前々から旦那様に伝えていたのに、旦那様が言うのを忘れていた?
それはありそうで、なさそう。 祭祀長様からの使者が来るなんて大事だ。 旦那様は結構一箇所にいない御方だから確実に連絡したい人はみんなまずトビに知らせる。 たとえ旦那様は忘れてもトビが忘れる訳ない。
じゃ、上級神官が伝え忘れていた? それこそあり得ないと言うか。 伝え忘れだとしたら、わざとでしょ。
ともかく出掛けなきゃいけない事は確か。 不安な顔を見せないようにしないと。
幸いサリは御機嫌だ。 なにしろ神域にあるサリの家は自宅より広い。 裏庭には滑り台、砂場、ブランコ、水遊び用プール、お馬の形をした遊具やツリーハウス。 それ以外にも子供の喜びそうな遊び道具が沢山ある。 私が産屋に居た間、エナが毎日手紙で報告してくれた。 本日サリ様はこれをなさいました、今日はあれがお気に入りでした、て。
今は美しい紅葉の季節。 子供は勿論、大人でも何度でも遊びに行きたくなるような場所だ。
そうは言っても神域は祭祀長のお住居。 サリが滞在した家は祭祀長様のお住居から結構離れているけど、神域内と言うだけで気を遣っちゃう。
それに子供が一人もいない神域に滑り台、て。 つまり全部サリのために新しく備え付けた、て事で。 あれが欲しい、これも作ってとこちらから強請った訳じゃないとは言え、短い滞在なのにそこまでして戴いて本当に申し訳なかった。 私だってすぐ元気になったのに結局三週間近くお世話になったし。
スティバル祭祀長様とテーリオ祭祀長見習様は少しもいばらない。 いつも優しく微笑んでいらっしゃる。 だからってお言葉に甘えっぱなしで本当にいいの? おまけに明日はサナの健康祈願までしてもらうだなんて。 世間の皆さんから厚かましいと呆れられるんじゃない? いくら祭祀長様のお言葉で、私から断る訳にはいかないとは言っても。
サリを待っている間、ついため息をついたら上級神官が私に聞いてきた。
「準大公夫人。 神域はお嫌ですか?」
慌てて説明した。
「と、とんでもございません。 神域は空気が清々しくて、心が休まる場所です。 けれど出産の際も大変お世話になっておりながら何のお礼もしておりません。 またお邪魔するのは心苦しくて。 せめて何か祭祀長様が喜ばれるような物を持参したいと思うのですが。 何がよいのか考えつかないものですから」
「御家族皆様の笑顔こそ猊下が最も喜ばれる贈り物かと存じます。 お気遣い無用と私が申し上げただけでは信じられないかもしれませんが。 別荘に御滞在なさったおつもりで、のびのびとお過ごし下さい」
「帰るのは翌朝、儀式の後ですか?」
「お帰りは準大公が皆様をお迎えにいらした時、と伺っております」
「では、明日の夕方?」
「準大公は外国へ御出発なさいました」
「外国?! 一体どの国へ」
「どちらへいらしたのか、いつのお帰りか、私は伺っておりません。 ですがどの国であろうと国外なら翌日のお戻りは難しいのではないでしょうか」
「そ、そう、ですよね。 あの、あの、それでは随分長い間お邪魔する?」
「期間がどれだけ延びようと御心配なさる必要は全くございません」
「で、でも、突然の任務と言うか、長期の不在はこれが初めてではありません。 なぜ今回は神域にお邪魔する事になったのでしょう?」
「理由は存知ません。 今回の任務は長引く事が予想されるからではと推測致しますが、それは私個人の推測に過ぎないので。 モンドー将軍なら御存知でしょうが、私は神官。 神官が軍務の詳細を訊ねる事は禁じられており、訊ねたとしても答えてもらえないのです」
長引く任務? 旦那様は今朝お出掛けになる時、外国へ行くかもとか、それらしい事は何もおっしゃらなかった。 それどころか晩御飯は鴨がいいな、とフロロバにおっしゃっていたから、いつもの時間にお帰りになるとばかり思っていたのに。
トビも私に何も言わなかった。 ならトビも知らなかった、て事でしょ。
外国への任務に今日命じられて、すぐ出発? いくら何でも急過ぎない? お金さえあれば旅先で買えるとは思うけど、お仕事の引き継ぎだってありそうなものなのに。
そもそも外国に行った、て本当? 嘘でしょう、なんて冗談でも言えないけど。 ここにダーネソンがいたら本当か嘘か聞けるのにな。
ただ以前、ダーネソンがシーリッグ上級神官と話した事があって。 後で私に、嘘のない御方です、と言ってたっけ。 他に何か知っていないか、聞いてみる?
うう。 聞きたい事は聞きたい。 聞かれないから黙っているだけかもしれないし。 でも何も言わないのは言いたくないからかも? 言いたくない事を言わされるの、て嫌だよね。
私もよく聞かれる。 準大公はこれについてどうお考えでしょう、とか。 準大公の部分がトビになったり、リイ兄さんになったり。
自分以外の人の気持ちを聞かれても、どう答えればいいの? まあ、トビやリイ兄さんの気持ちなんて本当に分からないから分からないと言えば済むけど、旦那様は分かりやすい。 でも言いたくない。 そんな時どう誤魔化せばいいのやら。 本当に困る。
気持ちを聞きたいなら本人に直接聞けばいいのに。 トビとリイ兄さんはともかく、旦那様は聞かれたら何でもペラペラしゃべっちゃうような御方なんだもの。 私に聞く必要なんてないでしょ、と言いたい。 言えないけど。
ともかく、自分がされたくない事を人にしちゃまずいよね? とは言え、私から聞かなかったら何も分からないまま、て事になるかも。 それはそれでまずいような。
旦那様なら平気でずばずば聞いちゃうと思う。 相手が誰だろうと。 旦那様って一見頼りにならないように見えるけど、こういう時すごく頼りになる。 私より世間知らずな一面があるし、人の気持ちに聡い、て訳でもない。 それどころか何も分かっていないと言ってもいいくらい。 だけど聞きづらい事でも聞く事を恐れないの。 相手にどう思われるか全然心配しないと言うか。
私が相手の御機嫌を損ねたかも、言い方がまずかったかも、いや、言うタイミングが、とくよくよ心配していると、大丈夫、大丈夫、何とかなるから、と励まして下さる。 その励ましに何の根拠もない事は分かっていても何となく励まされて気分が上向くんだよね。 しかも不思議な事に本当に何とかなっちゃう。
だけど今、旦那様はいない。 いなくても何とかなる? 何ともならなかったりして。