十番目 5
全力を尽くす場所を間違えている、とは思った。 死ぬまで準大公に付き合わねばならない恩も義理もないし、そもそも死んだら全力だって尽くせない。 クポトラデル国内に駐竜場はないから陸路になる前に逃げるべきで、その機会ならいくらでもあった。 国境に一番近い駐竜場まで飛んだら、そこから先は馬で国境を越える。 なのに結局逃げず、最後の駐竜場に着いた。 我ながらバカじゃないかと思うが。
最後のダンホフ駐竜場で場長が護衛を付けてくれようとしたが、準大公がお断りになった。
「気持ちは有難いんだけど、人数が増えると移動が簡単じゃなくなるから」
「では一人だけ、道案内人として使える者をお連れになっては如何でございましょう。 ここから先には難所が二、三ありまして。 迂回した方が早く首都バレシャにお着きになれます。 途中の宿や替え馬の手配にも慣れておりますし、物知りで何かと便利な男です。 また、首都にはダンホフ銀行の支店があり、当家の奉公人が同行しておれば為替や急の御入用の際もスムーズかと」
「まあ、一人なら」
という訳で、シュハーグという名のクポトラデル人が一行に加わった。 隙のない身のこなしだから駐竜場駐在の警備兵か何かだろう。 俺と同じ年か少し年上に見える。 皇国語は話せるが、流暢ではないらしく余計な事は一切喋らない。 自分の事を喋らないだけではなく、誰の事も詮索しなかった。 俺がクポトラデル生まれである事は説明されなくとも俺のクポトラデル語を聞けばすぐに分かったと思うが。
この機会に弓と剣のお二人に名前を覚えて戴こうとか、お近づきになりたい素振りを見せた事もなかったが、旅の間タケオ殿は主にシュハーグを稽古相手にしていた。 休憩合間の稽古だから長時間ではない。 だがタマラ中隊長やアラウジョ側近が相手だと汗をかいた事がないタケオ殿が、シュハーグが相手だと汗をかいていた。 相当な使い手のようで、平の兵士ではない事は確かだ。
シュハーグはクポトラデルと何度も行き来しているらしく、とても詳しかった。 道だけでなく、店、宿、食堂。 どこでも顔パス。 そして俺達に金を払わせない。
「閣下。 ここはダンホフにお任せください」
準大公が気遣わしげにお訊ねになった。
「本当にいいの? こんな大勢で腹一杯食べたのに。 後でシュハーグが上司から叱られたりしない?」
「どうかお気遣いなく。 これは当家次代からの命令で、私の上司も承知しております」
「でも、でも、飛竜をただで使わせてもらっているのに。 そのうえ何から何まで払ってもらったらナジューラ義兄上に申し訳ないよ」
するとタケオ殿が準大公におっしゃった。
「なら礼状を書くんだな。 お前の手紙は高く売れるんだぜ。 足が出るのが心配なら色紙も付けておけ」
「そんな。 売れると言ったって今回の旅費より高く売れる訳じゃあるまいし」
「これだから世間知らずは。 お釣りが来るさ」
「ええっ? ほ、本当?」
と俺に聞かれても困る。 準大公の色紙が百万で売れ、その金で家を建てた奴がいるという噂なら聞いた。 そしてこの辺りの物価は皇国と比べて格段に安い。 でも実際はいくらで売れたのか、売った本人から聞いた訳じゃないし、飛竜の餌代と準大公の色紙、どちらが高いかなんて俺には全然分からない。 分からないのに、本当です、と言っていいのか?
助けを求めて視線を泳がせていると、タマラ中隊長が答えて下さった。
「ナジューラ殿が閣下のお手紙を売りに出すとは思えません。 ですが、これほどお世話になったのです。 お帰りになり次第、お礼状をお出しになった方がよろしいかと存じます」
準大公はちょっと切ないため息をつかれた。
「出来れば書きたくないんだけどな。 字が汚い、て文句を言われるから」
準大公に文句を言う? いくら字が汚いのは事実だって、一体誰が。 そこが気になったが、長い人生、知らない方がいい事もある。
シュハーグの顔パスは国境の検問所でも通用した。 どこの国境だろうと検問所は面倒で長々待たされるのが普通なのに。 ダンホフ軍でも相当な高位でないとこんな特別扱いはされないだろう。 どういう身分なのか気になったが、特務大隊長は何もお訊ねにならない。 シュハーグは特務大隊長にも、お初にお目に掛かりますと挨拶していたから初対面だと思うが。 剣豪として有名だから名前だけは知っていた、とか? いずれにしても特務大隊長がお訊ねにならない事を俺が聞く気にはなれなかった。
最後の駐竜場から首都まで結構な距離があったが、シュハーグが途中何度も替え馬を提供してくれ、思ったより早くバレシャに着いた。 北軍を出発した日から数えてわずか十日で。
首都の賑わいを見回しながら準大公が俺にお訊ねになる。
「懐かしい?」
「昔と似た所がある訳でもないので。 初めて足を踏み入れた場所のようです」
「そんなに街並みが変わった?」
最初は、ええ、と答えただけで何も言わないつもりだった。 街並みは変わっているが、それ以上にノーイエン時代より明らかに豊かになっている。 しかしノーイエン王族と義兄弟でいらっしゃる準大公にそれを言えば御機嫌を損なうかも。 とは思ったが、結局正直に答えた。 この御方なら嘘や追従、余計な気遣いより本音を好まれるような気がして。
「それもありますが。 昔に比べて豊かになっています。 物乞いがおりません。 当時は子供だったので他人の飢えを気に掛けたりはしませんでしたが」
そして準大公の視線を道端で遊ぶ子供達へと促した。 地面に描いた線の上を交代でぴょんぴょん飛び跳ねている。
「あのように遊んでいる子を見掛ける事はありませんでした。 子供であろうと働かされるのが普通でしたから。 街角に立っている子は物売りか物乞いで、いい身なりをしていれば必ず物乞いにまとわりつかれたものです。 今私達一行に誰もまとわりついて来ないのは、どう見ても外国人だから警戒しているのかもしれませんが」
「ふうん。 言われてみれば痩せこけている子はいないね。 国境を越えてからここまで、道端で飢えている人を見掛けなかったし」
そんな細かい所にまでお気付きとは。 皇国の貴族にとってクポトラデルは首都でさえ辺鄙な田舎だろう。 風光明媚ではあるが、際立った観光名所がある訳でもない。 道々周囲を見回していらしたのは襲われる事を警戒していらっしゃるからだと思っていた。 今回の旅だってタケオ殿が行くと言ったから仕方なく付いていらしたのではないのか?
先頭のシュハーグがマッギニス特務大隊長に聞いた。
「閣下は本日どちらにお泊まりになりますか? 御希望がないのでしたら私の定宿に御案内致しますが」
「王宮へ案内せよ」
用意周到な特務大隊長の事。 王宮へ直行するのではなく、まず二、三日どこかの宿に泊まって様子を見るのかと思っていた。 五週間前後でお帰りの御予定だから帰りが遅くなる事を心配するには早過ぎる。 もっとも王宮に着いてすぐ国王に会えるとは限らないが。
すると今夜は王宮に泊まる? それは少々不用心では? 王太子は毒入り葡萄酒とは知らなかったと言った。 それが本当だとしても王命で毒が入れられた可能性が消えた訳ではない。 こんな少人数で王宮に泊まるだなんて。 飛んで火に入る夏の虫と思うのだが。
ただ王宮に着いてみれば王宮とは名ばかり。 皇都にある大きなホテル程度の大きさだ。 王宮の正面に立つと左右の端が見える。 敷地の広さだけを比べるなら第一駐屯地内にある神域より小さい。 工事に駆り出されたり、重い税金を払わせられずに済む国民にとっては有難い大きさだが。 高い城壁に囲まれている訳でも深い外堀がある訳でもないのだから誰かに攻め込まれたらひとたまりもないだろう。 百年かけて建設したノーイエン王朝の広大な宮殿でさえ王の身は守れなかった事を思えば、大きければ安全とは言えないにしても。 もしかしたらここは新宮殿を建設するまでの仮住居?
ともかく警備兵はそちこちにいて、門前で揉めるかと思ったが、シュハーグが着ているダンホフの家紋入りお仕着せのおかげか、特務大隊長が名乗った途端、伝令が走り、いくらも待たない内に出迎えが来た。 軍服を見る限りかなりの上級将校だ。 その将校は迷いなく準大公に向かって最敬礼した。
準大公は常に弓が射やすいよう、腕周りに余裕がある服をお召しになる。 ぼろではないが刺繍も家紋も入っていない。 弓を背負っているし、上級将校の制服に大隊長徽章を付けている特務大隊長の護衛にしか見えないのに。
「準大公閣下。 遠路遥々クポトラデルまでようこそお越し下さいました。 再びお目にかかる機会を得、恐悦至極に存じます」
「あ。 以前、お会いしましたよね? その、えーと」
「陸軍参謀ゴラブチックです。 サジ・ヴィジャヤン殿の結婚式でダンホフ公爵に御紹介戴きました」
「そうそう。 その節は、どうも。 いやー、知っている人に会えてよかった。 会って早々、お願いするのは大変申し訳ないのですが、何分急いでおりまして。 クポトラデル国王陛下にお会いしたいのです」
「御用件を伺ってもよろしいですか」
「毒殺事件の下手人を探しております」
まさかの直球。 いや、勿論あの準大公にカーブが投げられると思った事はない。 だが王宮に着いたら指揮を執るのはマッギニス補佐だとばかり思っていた。
幸いゴラブチック参謀も皇国語が話せたようで、俺は何も通訳していない。 通訳すべきか否か判断せずに済んだのは有難いが。 たぶん俺の顔色は変わっていたと思う。
ちらっと特務大隊長の顔を窺った。 いつも何をお考えか分からない表情をしていらっしゃる。 ただ準大公が何かまずい事をなさった時は、すっと冷たい風が通り過ぎるのだが、何も感じなかった。 冬が長い北だと夏でもない限り気付けないが、ここは皇都より暖かいのに。 と言う事は、この直球で構わない?
さっさと片を付けたいであろうタケオ殿が直球を好むのは分かるが。 特務大隊長はもっと慎重に事を運ばれると思っていた。 そして随行の面々も全く焦っていない。 周囲に目を配っているだけで物見遊山に来た観光客のような呑気な雰囲気を漂わせている。
さすがと言うか、ゴラブチック参謀は準大公の直球に慌てず騒がず。 軽く頷いて落ち着いた返答をした。
「ではさぞかしお急ぎでしょう。 陛下の御前まで私が御案内仕る。 どうぞこちらへ」
いつ、誰が毒殺されたとか、何も聞いてこない。 王宮へ来たのだから下手人はクポトラデル人と決めているという意味に取られても仕方がないし、その根拠は何か、とまず聞かれる事を覚悟していたのに。
もしや準大公の訪問を予想していた? 何か後ろ暗い事があればある人ほど驚いたりしない。 するとこの人が下手人? それとも誰が下手人か、心当たりがある?
毒殺が国王命令なら陸軍参謀が知っていても不思議じゃない。 そして最終的には俺達全員を殺すつもりだとしても、国王と重臣は皇国の英雄として有名な弓と剣のお二人に一度は会っておきたいだろう。 だが俺達その他大勢はこのまま王宮内の牢に連れて行かれ、一生牢屋暮らしとなるかもしれない。 でなければ、それぞれ別の場所に連れて行かれて取り調べられるとか。
不安に押し潰されそうになった時、ゴラブチック参謀へ話し掛ける準大公の呑気なお声が聞こえた。
「中々住みやすそうな王宮ですね」
そのお声の素直な明るさに影響されたか、自分の気分も少し明るくなった。 いくら御本人は褒め言葉のつもりでいようと、相手に褒め言葉として通じているかどうかは分からなかったが。 ゴラブチック参謀が答える。
「実際お住みになって住み心地をお試しになっては?」