十番目 4
夜、夢に準大公が現れ、うつ伏せになっている俺の背中にブロックを積み上げながらおっしゃる。
「もっといけるんじゃない?」
深い疲労感と共に嫌々起きた翌朝。 洗面所で顔を洗っている最中、準大公の鼻歌が聞こえた。 少し調子は外れているが、紛れもなく「夢摘み草」。 クポトラデルの子守唄のメロディーだ。 但し、誰もが知っている子守唄ではない。 ノーイエン王族子弟の為だけに歌われる、王族の乳母でなければ歌えない子守唄だ。 少なくとも俺の母が俺の弟を埋めた小さな墓の前で歌った時、そう言っていた。
弟と言っても血の繋がりはない。 ある日突然、母が二歳児くらいの男の子を我が家に連れて来て。
「カザ。 あなたの弟のタザよ。 面倒を見てあげてね」
小さな耳の先っぽが少し尖っていたから王家の血筋である事は最初から分かっていたが、なぜ貴族でもない我が家の養子になったのか、俺は知らない。 おそらく母も知らなかったのだろう。 誰からタザを託されたのか、タザの年がいくつで、本名も知らなかったくらいだから。
それ自体に不思議はない。 俺の両親にとってノーイエン王は遠い雲の上の存在だ。 生まれた時から王族に仕える運命だったから仕えていただけ。 王族の誰に対しても両親が敬愛や忠誠とかの感情を持っていると感じた事はなかった。
なのになぜか王族が皆殺しにされたという知らせを聞いた後でも変わらず、タザの事を我が子のように、いや、それ以上に大切にかわいがった。 王族の生き残りを育てる事がどんなに危険か、知らないはずはないのに。 また知っていたからこそタザが来た翌日、内戦が始まる前に一家で外国へと旅立ったのだろう。
どこに引越す時でも誰にも引越し先を教えなかったところを見ると、金やお礼を期待してタザを育てたのではない。 ではなぜなけなしの金をはたいて体の弱いタザのために薬を買い続けたのか。 時には自分の食べる物を削ってまで。
「だってかわいいじゃない」
母はそう答えた。 確かにタザはかわいい。 しかしあれくらいの年の子なら誰だってかわいいだろう? ただあの子のかわいらしさにはどこか儚げな。 触れれば消える、暖かい日に降る雪のような危うさがあった。 だからこそ余計、愛しいと感じたのかもしれない。
タザはとても柔らかく微笑む子で、普通の二歳児のような聞き分けのない所が全くなかった。 今思うと、体格が小さいから二歳と思い込んだが、実際の年齢はもっと上だったのだろう。 俺の方がずっと年上なのに、いつも俺の方がタザに気遣われていた。
皇国へ辿り着き、俺の両親は皇都で家と仕事を見つけた。 そこに落ち着くのかと思ったら、まもなくクポトラデルから沢山の難民が流れ込むようになった。 同じ年頃の友達が出来て俺は嬉しかったけれど、タザの出自がばれる事を恐れた両親は北へ引っ越す事にした。 金に余裕がないにも拘らず。 タザは両親にとってそれは厳しい選択であった事を理解していたような気がする。
タザを守るために選んだ場所だったが、北の冬は体の弱いタザにとって厳し過ぎた。
「とうさま、かあさま、にいさま、ごめんね。 最後だから。 さまを付けてもいいでしょ?」
謝る事なんか何もないのに。 さまじゃない。 さんにしろ、と言ったのは大人の都合で。 ずっとさま付けで父母兄を呼んでいたであろうタザが、そう呼びたくたって何も悪くはないのに。
それが最後の言葉で、タザはそっと息をするのを止めた。 これ以上生きていては迷惑を掛けてしまいますから、としなくてもよい遠慮をするかのように。
父は稼ぎに出掛け、母と俺しかいないとても質素なお弔いで、初めて「夢摘み草」を聞いた。
「母さん。 それ、お弔いの歌?」
「いいえ。 これはね、子守唄。 あなたに教えてあげる。 王族に仕える乳母にしか歌えない子守唄だけど、私が死んだらタザに歌ってあげられる人はあなたしかいないから。
いい? これはタザの為だけの歌。 それを忘れないで。 だから辺りに誰も、お父さんもいない時にしか歌ってはだめよ」
今のクポトラデルで何人、滅びた王朝に伝わる子守唄を知っているか。 誰も知らないかもしれないが、本来なら知らないはずの俺が知っている。 他にも知っている人がいたって不思議じゃない。 その人に、なぜこの歌を知っている、と準大公が質問されたらそれにどう答える? 出鱈目が通用するような相手だったらいいが。 相手がクポトラデル国王だったら? 誤魔化せるか? 誤魔化されてくれるか? そもそも準大公は歌の出所を誤魔化すべきという事を御存知なのか?
俺の動揺が顔に出ていたらしく、何事も見逃さない特務大隊長がお訊ねになる。
「準大公の鼻歌に何か意味があるのか?」
その質問に答えたら弟の事も言わされる、と一瞬躊躇したが、俺の父母は亡くなっている。 迷惑がかかるような親戚は誰もいない。 自分以外。 第一、特務大隊長は誤魔化しが通用するような御方ではない。 覚悟を決めて答えた。
「あれはノーイエン王朝に伝わる子守唄です。 王族子弟に対してしか歌われません」
俺がそう答えると、特務大隊長は準大公に向かってお訊ねになった。
「閣下。 その歌の正確な歌詞を御存知ですか」
準大公がキョトンとしたお顔をなさる。
「忘れちゃった」
「クポトラデルでは歌詞を忘れる、間違える事は曲に対する冒涜と考えられております。 それ故自宅の室内、或いは自作の歌ならともかく、屋外で既存の曲の鼻歌を歌う者はおりません。 投獄される場合もあるので。 閣下でしたら投獄は免れるかもしれませんが。 お試しになりますか?」
その脅しはてきめんで、準大公の鼻歌は即座に止んだ。 因みに特務大隊長がおっしゃった事は嘘ではない。 クポトラデルでは本当に歌詞を忘れる、間違えるのは曲に対する冒涜と考えられている。 歌手が舞台で間違えたら投獄されるだろう。 素人や外国人なら投獄はされないと思うが、かなりの顰蹙を買うはずだ。 きちんと歌えないなら歌うな、と。
それにしても大国でも国交が密な訳でもないクポトラデルの、政治や軍事とは何の関係もない楽曲の習慣まで御存知とは。 特務大隊長の並々ならぬ知識に内心舌を巻いた。 この御方の頭脳があれば難事件を解決し、無事に帰国する事も夢ではないかもしれない。
たとえ準大公に足を引っ張られても? と聞かれたら返答に迷うが。 何しろ準大公の行動は常軌を逸している。 あそこまで行くと特務大隊長でさえ予想可能かどうか。 それとも飛竜の前でヒャラを踊るのも特務大隊長の予想の範囲内? 準大公は飛竜を元気付ける為、とおっしゃっていたが。 そして本当にどの飛竜も昨日と比べて元気になったのだが。
ともかく、準大公が王族の生き残りを御存知である事は確実だ。 既にお亡くなりかもしれないが、御存知というだけでクポトラデル国王の関心を大いに掻き立てるだろう。 ひょっとしたら、これが原因で帰してもらえなかったりして?
そこまではいかなくても、その生き残りの事は隠しておくに越した事はない。 ただ準大公があの調子では隠し通せるか? 短期の滞在なら大丈夫と思うが、クポトラデルにどれだけ滞在する事になるか、おそらく特務大隊長でさえ御存知ではないだろう。 滞在が長引けば長引くほど何かの弾みにばれるような気がしてならない。 準大公に隠す気なんかなさそうだし。
もしかしたら準大公に歌を教えた人は、自分がノーイエン王族の生き残りである事を教えなかった? その子守唄を教えたのはどなたでしょう、と聞いてみる? しかしその答えを知ったらきっと長生きは出来ない。
これは特務大隊長にお任せするべきだろう。 どなたが教えたのか、特務大隊長なら既に御存知の可能性もある。 知っていながらなぜ準大公に警告しないのかは分からないが。
その日の宿に着いた時、特務大隊長が出迎えた宿の主人にお訊ねになった。
「クポトラデルの料理が出せるか」
「スクーとマナマナでしたら」
「では、それを」
テーブルに並べられた御馳走を御覧になった準大公が嬉しそうにおっしゃる。
「俺、クポトラデルのテーブルマナーを知っているんだ。 こうするの」
左手の小指を親指で押さえ、三つ指でテーブルの端をトントントンと三回叩かれた。
「そ、それは、」
あまりの衝撃で言葉が出て来ない俺に代わり、特務大隊長が御説明下さった。
「閣下。 それは滅亡したノーイエン王朝で使われていたテーブルマナーです」
「え? 今は使われていないの?」
「現王朝も使用しているかいないか、分からない内は使わない方が無難と申せましょう」
「そ、そうだよね」
「因みにノーイエン王朝時代であっても誰もが使用していた訳ではございません。 王族の兄弟が会食する際、弟が兄への敬愛の印としてテーブルをそのように叩いたのだとか。
エットナー。 この解釈で間違いないか?」
「は、はい。 そう、です」
「他に言外の意味でも?」
「従順の証の意味もありました。 それと、兄殿下から叩く事もあったようです。 弟殿下が叩かなかった時の催促と申しますか。 兄殿下が叩いたのに弟殿下が叩き返さなかった場合、それは開戦の合図となったと聞いております」
沈黙が流れる。 それを破ったのはタケオ殿だ。
「閣下は忘れっぽい所があるからなあ。 年下と会食する機会なんぞ一回もないだろうし。 左手にミトンを嵌めておいては如何です?
それにしても便利なサインがあったもんだ。 今も使われているといいんだが。 王族限定とかケチ臭い事を言わず」
タケオ殿は薄笑いを浮かべ、左の三つ指でテーブルを三回叩いた。 全員一斉に三回叩き返す。 誰もクポトラデル王族ではないし、その時席に着いていたのは特務隊員十名だけ。 ダンホフ操縦士は同席していないから一番の年上は俺で、次はタマラ中隊長だ。 その次はタケオ殿だが。
皆様無言で食べ始める。 辺鄙な田舎の宿屋だから大した期待はしていなかったが、まるでクポトラデルの宮廷料理長が作ったかのような出来栄えだ。 高級食材である蛇や蛙の料理が注文しただけでさっと出て来るとは。 さすがはダンホフ直営と言うべきか。
少しも残さず召し上がった所を見ると料理には御満足なさったようだが、食べ終わった準大公は肩を落として呟いた。
「ちぇっ。 レカ兄上ってば。 どうせならちゃんと説明もしておいてくれればいいのに」
レカ兄上? とは誰だ?
準大公の兄上はサガ・ヴィジャヤン伯爵とサジ・ヴィジャヤン御典医筆頭見習、お二人だけのはず。 義兄を含めても名前に「レカ」が入っているとか、愛称がレカである御方はいらっしゃらない。
では、どなたかと義兄弟の契りを結んだ? しかしそれこそ大きな話題となるだろう? 北軍で知らない者がいないくらいの。 すると世間に言えないような御方だから秘されている?
まさか。 まさか、ノーイエン王の第五王子、レカシャーザ殿下?
タザだって殺戮を逃れた。 他にも逃れた王族がいないとは言えない。
俺の父は王宮で働く給仕で、俺も将来給仕になるはずだったから正嫡子の皆様のお名前なら知っている。 非正嫡子の王族は公式の会食に出席なさらないから、お名前を知る機会はなかった。 レカという名の王族がいるのかもしれないが、だとしても非正嫡子が公式の会食でしか使われないテーブルマナーをなぜ知っている?
「レカ兄上」がレカシャーザ殿下である可能性は高い。 そんな事知りたくなかったし、知っていると知られるのはもっと嫌だが、おそらく手遅れ。 鋭い特務大隊長の事、俺が気付いたとすぐに気付くか、既に気付いていらっしゃる。 つまり用無しになった途端、俺の首は体と離れる運命だ。
一体何の因果でこんな目に。 逃げるべきか? タケオ殿に最後まで付き合わねばならない恩も義理もないし、クポトラデル到着前の今なら誰にも俺を追い掛ける余裕はない。 たぶん逃げ切れる。
いつ? 早ければ早いほどいい。 監視されている訳ではないし、取り敢えず食うに困らないくらいの金を持ってきた。 が、たぶん俺は逃げない。
死ぬ前にもう一度故郷を見たいという感傷? いや、親戚や友人が住んでいる訳でもないし、故郷に帰りたいと思った事など一度もない。 それでなくても二十数年経っている。 故郷とは名ばかりの全く見覚えのない場所となっているはず。 行っても自分の故郷は最早この地上のどこにもないという事実を確認して終わるだろう。 せっかくの逃げる機会を捨ててまで行きたい場所でない事だけは確かだ。
では、一体何が俺を引き止めている?
「説明してくれてありがとう。 エットナーがいてくれて助かった。 これからも頼りにしてる!」
食事の後、準大公はそうおっしゃって俺の肩をポンと叩いた。 言わないとまずいと思って三つ指の意味を教えたが、皆の前で恥をかかせやがって、と叱られるか恨まれる事を覚悟していたのに。 お礼を言われるとは。 正直、ロックと一緒に飛んでいる準大公を見た時より驚いた。
それに今までこの仕事をしていてありがとうと言われた事はない。 クポトラデル人ならクポトラデル語が話せて当たり前。 誰からもそういう扱いだった。 皇国内に暮らしているクポトラデル人は結構いるが、皇国語が流暢に話せるクポトラデル人はそんなにいない。 何十年も皇国で暮らしていようと。 それはクポトラデル人にとって皇国語を学習する事がどれほど難しいかの表れなのに。
だから準大公のお言葉は嬉しい。 しかしお抱えになっている爆弾の大きさを知った今では、頼らないでくれ、と言いたいのが本音。 なのに口から零れ落ちる言葉を止める事は出来なかった。
「御期待に添えるよう、全力を尽くします」